祭のあとさき
祭の翌朝はいつもどおりだった。
前の夜のあの色とりどりの灯りも楽の音も、嘘のように消えていた。通りには、提灯の燃え殻と踏み荒らされた紙くずだけが残っていた。人々はまた、めいめいの日常へ戻っていく。晴れ着はしまわれ、見慣れたくすんだ仕事着が街を行き交っていた。
セイルもまたいつもの聴講生の日々へ戻った。
そして――いつもの冷たさへも。
講義室でセイルが席に着くと。周りの席がまたすっと空いた。
祭の夜のあの温かさは、ここにはなかった。落第者。化け物。その視線がまた戻っていた。一晩の祝祭が、それを変えるわけではなかった。当たり前のことだった。だが――前の夜の温度を知ってしまった分だけ、その冷たさがいっそうこたえた。
メイナが後ろの席でちらとセイルを見て、隣の者に何か囁いた。くすくすと笑い声が漏れた。
セイルは視ようとしてやめた。何を言われているかは、視なくても分かった。
昨夜のあの足場は、幻だったのか。セレナと並んで歩いた祭の灯り。楽しいと初めて思えたあの夜。それはただの一晩の夢で、朝が来れば現実はこうして冷たいままなのか。
だがその日の昼下がり。
学院街を歩いていると声をかけられた。
「おう視る目の坊主!」
振り返ると祭の触れ役のピーチェが屋台の片付けをしながら手を振っていた。
「昨夜セレナの嬢ちゃんと来てたろ」ピーチェは陽気に笑った。「いやぁ、若いってのはいいねえ。――どうだい、初めての決別祭は。楽しめたかい」
セイルは戸惑った。この顔の広い男は、自分を覚えていた。落第者とも化け物とも知らずに。ただ祭を楽しんだ若者の一人として。
「……はい」セイルはぎこちなく答えた。「楽しかったです」
「そりゃよかった!」ピーチェは豪快に笑った。「祭ってのは、そのためにあるんだ。身分も家名も関係ねえ。みんなが一晩だけ対等に騒げる。――坊主、辺境の出だろ。訛りで分かるぜ。なに、気にすんな。この街はな、来る者は拒まねえ。少なくとも、おれの祭はな」
ピーチェは片付けの手を止めずに言った。
「また来年も来な。次はもっと楽しめるようにいい屋台を教えてやる」
ピーチェと別れたあと。
セイルは奇妙な心地で歩いた。
化け物扱いの冷たさは本物だった。だが――ピーチェのような温かさも、本物だった。この街には両方があった。自分を気味悪がる者と。身分も知らずに、対等に笑いかけてくれる者と。
昨夜の足場は、幻ではなかった。セレナがいる。トビーがいる。オルセンの研究室がある。ガウェルが視る力を認めてくれた。そして今、ピーチェのような市井の温かさもある。脆いけれど。確かにある。
村を出たときには、想像もできなかった。よそ者だったこの都に、こんなにも繋がりが芽生えるなんて。
だからこそ、とふと胸が冷えた。だからこそ――もしこれを失うことになったら。
その不吉な予感に応えるように。
セイルの肌がざわついた。
通りの向こう。屋根の影。そこに――誰かがいた。気配を消して。じっとこちらを見ている。一人ではない。複数。灰色の佇まい。
セイルは視た。
監視だった。あの記憶を消す男たちと、同じ匂い。公理庁の影。祭の賑わいに紛れて、いや賑わいが冷めたこの翌日にこそ、彼らは動いていた。セイルの足取りを。どこへ行き、誰と会うかを。記録するように。
昨夜セレナと並んで歩いたその足取りも。今ピーチェと言葉を交わしたそれも。すべて視られていた。記録されていた。報告に上げられるために。
温かい足場が芽生えるその傍らで、冷たい目がその足場ごと、自分を計測していた。
セイルは立ち止まった。背筋を冷たいものが伝った。
この都にできかけたささやかな繋がり。それは――監視の網の中にあった。いつでも断ち切れる。いつでもなかったことにできる。あの、空き家にされた女の家のように。
その夜セイルは研究室でセレナといつもの作業をしていた。
祭の夜のあの近さは、もうなかった。セレナはいつもの理知的な記述する人に戻っていた。淡々と問いを重ね、書き取っていく。それでいいのだと、セイルは思った。あの夜の温かさは、特別な一夜のもの。日常はこうして、半分の壁を隔てたまま続いていく。
だが――セイルはその半分の壁のこちら側にセレナがいてくれることが、今夜はいつもよりありがたかった。
失うかもしれない。いつか。このささやかなものを。監視の網が、いつかそれを断つかもしれない。だからこそ今、隣にこの人がいることが。
「どうしたの」セレナがふと手を止めて訊いた。「今夜変よ。何かあった?」
「……いや」セイルは言った。監視のことは言わなかった。言えば、この人まで巻き込む。「ただ昨夜の祭、楽しかったなと思って」
セレナは少し意外そうな顔をした。それからふっと目を伏せて、また筆を取った。
「……うん」セレナは小さく言った。「私も。楽しかった」
その短い言葉が、今夜のセイルには何より温かかった。
失うことをまだ知らない足場の上で。だがその脆さを今初めて肌で視てしまった夜に、セイルはその温かさを、いっそう深く胸に刻んだ。
窓の外で、片付けきれぬ祭の名残が夜風にかさりと鳴っていた。




