鏡の向こう
ヴェントはときどきセイルの様子を見に来た。
聴講はどうだ。寝起きする下宿は不自由ないか。学院の暮らしに慣れたか。問いはいつも、世話を焼く兄のようだった。セイルにとって、この都で気安く口をきける数少ない相手がヴェントだった。
その日もヴェントは聴講の帰り道にセイルを呼び止めた。
「オルセン様のところへ通っているそうだな」
セイルはうなずいた。隠すことでもない。
「ああ。視ることを教わってる。――いや」セイルはオルセンの言い直しを思い出して、少し笑った。「おれが視てるものを、あの人に教えてるのほうが近いかもな」
ヴェントは笑わなかった。
ほんの一瞬、その横顔に奇妙なものがよぎった。セイルには、それが何かすぐには分からなかった。
二人は環翠河のほとりを並んで歩いた。
川面に街の魔法照明が映って揺れている。村では見たこともなかった光景だ。セイルはそれをただ眺めていた。
「私はね」ヴェントがふいに口を開いた。「オルセン・ガイル様をずっと敬っている」
川を見たまま彼は続けた。
「院では誰もあの方を相手にしない。予算もつかん、弟子もいない。公理派からは半ば嗤われている。――それでも私は、あの方のところへ若いころ何度も通った」
「あんたが」セイルは少し驚いた。「あんた、学問の人だろう。すべては定理に還元できるって」
「そうだ。私はそう信じている」ヴェントは言った。「信じている。だが――信じていることと惹かれていることは、別なんだ」
言葉が少し苦かった。
「私はね、セイル。学問では人並み以上だ。下級も上級も教本どおりに修めた。体内の魔力も足りている。中央でやっていくには、何の不足もない」彼は立ち止まり、川面を見下ろした。「だが私には感じられない。祖型の相も土地のざわめきも、何も。オルセン様が視ているものが、私にはただの一度も視えたことがない」
セイルは黙って聞いていた。
「若いころ私は、それが訓練で何とかなると思っていた。だからオルセン様のところへ通った。何百時間も石の前に座った。相を視ようとして」ヴェントは低く笑った。「無駄だったよ。私の窓は、生まれつきほとんど閉じている。どれだけ叩いても、開かなかった」
窓。
オルセンと同じ言葉だった。セイルは器が空っぽで、窓が開いている。アルヴォは器が満ちて、窓がない。そしてこの人は――器は足りているのに、窓だけが固く閉じている。
「だから」ヴェントは振り返った。「君を村で見つけたとき」
その目にさっき一瞬よぎったものが今度ははっきりと宿っていた。
それが何かセイルにもようやく分かった。
羨望だった。
「君は何の訓練もなしに視ている」ヴェントの声は静かだった。静かすぎた。「私が何百時間かけても開かなかった窓を、君は生まれたときから開け放っている。村でそれを知ったとき、私は――」
言葉が途切れた。
「嬉しかった。こんな才を見つけたと。本当だ。それは嘘じゃない」ヴェントは自分に言い聞かせるように言った。「だが同じくらい――妬ましかった。なぜこんな辺境の、魔力も流せん子供に。なぜ私ではなく、君に」
川風が二人のあいだを抜けていった。
セイルは何と言えばいいのか分からなかった。
羨ましいと言われた。自分のこの感覚を。村ではずっと捨てたくてたまらなかったものを。気味悪がられ、落第と裁かれたこの厄介な異才を。それを、学問の都で立派にやっているこの人が欲しがっている。
「……おれは」セイルはようやく口を開いた。「これがずっと嫌だった」
「知っている」ヴェントはうなずいた。「だからこそだ。持っている者は、それを呪い捨てたがる。持たぬ者は、それを焦がれ欲しがる。――おかしなものだな」
彼はまた川面に目を戻した。映った光が揺れていた。
「私と君はたぶん、鏡の表と裏なんだ」ヴェントは言った。「学べるが感じ取れない私。感じ取れるが学べない君。互いに相手の持っているものを、一生手に入れられない」
別れぎわヴェントはふと声を落とした。
「セイル。一つだけ言っておく」
それまでの苦さの滲んだ声とは違った。学者の冷静な声に戻っていた。だがその奥に、何か緊張のようなものがあった。
「君のその才は――欲しがっているのは、私だけじゃない」
「どういう意味だ」
「いずれ分かる」ヴェントはそれ以上は言わなかった。ただちらと、都の中心の塔のほうへ目をやった。まばゆく光る白い塔。「あの光の強いところほど、影も濃い。覚えておけ。君の視る力は福音にもなるが――誰かにとっては、喉から手が出るほどの道具にもなる」
セイルは初めてこの都に着いた日、塔の真下に感じたあの冷たい淀みを思い出した。光に満ちた都の足元に眠る、視てはいけない何か。
あれと関わりがあるのだろうか。
「あんたは」セイルは訊いた。「おれの味方なのか」
ヴェントはしばらく答えなかった。
「味方でありたいと思っている」やがて彼は言った。それは、味方だという言葉ではなかった。「だが私も、この都で生きていかねばならん。立場というものがある。――いつか私が君を裏切るような顔をする日が、来たら」
ヴェントは初めてまっすぐにセイルを見た。
「そのときはこの川辺の話を思い出してくれ」
それだけ言ってヴェントは人混みのなかへ去っていった。
セイルはしばらく川辺に一人で立っていた。
味方でありたい。けれど立場がある。裏切るような顔をする日が来るかもしれない。――まっすぐな味方も、まっすぐな敵も、この都にはいないのかもしれなかった。皆が何かに引き裂かれて、半分だけの顔でここに立っている。
川面の光が揺れている。そのどこにも本当の形は映っていなかった。




