天井を見上げる夜
その夜セイルがそれを目にしたのはまったくの偶然だった。
オルセンの研究室からの帰り。遅い時刻だった。人気のない上級生棟の渡り廊下を、近道に通り抜けようとした。その開け放たれた演習室の中に――二人の人影があった。
アルヴォとイーディス・ヴァレルだった。
セイルは足を止めた。
立ち去るべきだと思った。だが二人の間の張り詰めた空気がセイルをその場に縫い止めた。
「もう一度お願いします」
アルヴォの声だった。いつもの傲慢さはなかった。代わりに押し殺した必死さがあった。
「ヴァレル先輩。あなたの精霊級の制御をもう一度見せてください。私は必ず、それを超える」
イーディスは演習室の中央に静かに立っていた。完璧な立ち姿。月明かりの中で、その横顔は彫像のように整っていた。
「ゼーゲル」イーディスは静かに言った。気高く、そして容赦のない声で。「あなたは何度私の術式を見ても、同じよ。あなたの制御は確かに見事。量も技術も申し分ない。――けれど」
イーディスの目がアルヴォをまっすぐ見据えた。
「あなたが私を超えても。私があなたを超えても。私たちの行き着く先は、同じ天井よ。竜級には届かない。量をどれだけ積んでも。技術をどれだけ磨いても。あの一段だけは、私たちには開かない」
アルヴォが息を呑むのが分かった。
セイルには視えた。アルヴォの全身を覆っていたものが。
それは――拒絶だった。イーディスの言葉を認めまいとする、激しい拒絶。あの飢えがいま目の前で、別のものへ変わろうとしていた。
「そんなはずはない」アルヴォの声が震えた。「届かないはずがない。私は誰よりも努力した。誰よりも量を積んだ。なのに――届かないだと? そんな馬鹿な話が」
「事実よ」イーディスは冷たく言い切った。「私も若い頃、あなたと同じことを言ったわ。努力すれば、量を積めば、いつか竜級に届くと。――でもある日気づいた。あれは努力の先にある段ではない。まったく別の道の先にある。命を代償に焚べる、誰も解けない領域。私たちがどれだけ高く登っても、見上げるだけの天井なの」
イーディスは踵を返した。
「諦めなさいとは言わない」彼女は背を向けたまま言った。「私だって諦めていない。でも――正道で届かないものを、別の道で得ようとしたとき。人はおかしくなる。あなたほどの才の持ち主が、そうならないことを祈っているわ」
演習室からイーディスが去っていった。
あとにアルヴォが一人残された。
セイルは動けなかった。立ち去るべきだった。だがアルヴォの背中から目が離せなかった。
アルヴォはしばらく微動だにしなかった。やがて――低く声が漏れた。
「別の道」
その一言をアルヴォは噛みしめるように繰り返した。
「正道で届かぬなら……別の道で」
セイルの背筋が凍った。
視えた。アルヴォの中で何かが変わるのが。
これまでの飢えは――まだまっすぐだった。イーディスへの純粋な憧れ。あの頂へ。あの完璧へ。それは苦しくとも、美しい渇望だった。
だが今、その渇望が捻れた。正道では届かぬと知った瞬間。憧れは行き場を失い――暗い別のものへ変わった。妬みに。そして何としても手に入れたいという、危うい執着に。
イーディスは言った。別の道で得ようとしたとき、人はおかしくなると。その言葉は警告だった。だがアルヴォは――その警告を、別の道があるという希望として聞いてしまった。
セイルが思わず身じろぎしたその音に。
アルヴォが振り返った。
月明かりの中で、二人の目が合った。アルヴォの顔は蒼白だった。そしてその目には――見られたという恥と怒りが、燃えていた。
「……お前」アルヴォの声は低くひび割れていた。「いつからそこにいた」
「アルヴォ」セイルは言った。気づけば口が動いていた。「やめておけ。別の道なんて。あんたは――今のままで、十分すごいんだ。なのになんで」
「黙れ!」
アルヴォの叫びが演習室に響いた。
「お前のような何も持たぬ者に……持てる苦しみが分かるものか!」アルヴォは肩で息をしていた。「私はすべてを持っている。なのに、たった一つ届かない。そのたった一つが、どれほど私を焼くか。お前に分かるか!」
セイルは何も言えなかった。
分かるとは言えなかった。だが――痛いほど視えていた。アルヴォの中で燃えているその飢えが。そしてその飢えが、いま危うい方向へ舵を切ったことが。
「覚えておけ」アルヴォはセイルの脇をすり抜けながら、低く言った。「私は必ず、あの天井を破る。どんな手を使っても」
アルヴォの足音が闇に消えていった。
セイルは月明かりの演習室に一人立ち尽くした。
どんな手を使っても。
その言葉が耳に残っていた。
オルセンの予言がよみがえった。あの子はいつか自分に唯一届かぬものがあると気づく。そのときどうなるか。――今夜その「いつか」が来たのだと、セイルは思った。アルヴォは気づいた。そして認める代わりに、別の道を探し始めた。
正道では届かぬ天井。それをこじ開けようとする者を待っているものが、何なのか。セイルにはまだ分からなかった。だが――どんな手を使ってもと言った、アルヴォの目のあの暗さだけは。
忘れられそうになかった。




