天井を見上げる者
イーディス・ヴァレルを初めて間近で見たのは上級生の公開演習の日だった。
精霊級の術式を上級生が披露する。学院の年に一度の催し。聴講生も末席で見ることが許された。セイルはトビーと並んで、その演習場の隅にいた。
そして演習場の中央に立ったのがイーディス・ヴァレルだった。
息を呑んだ。
完璧という言葉が形になったような人だった。立ち姿。所作。術式を組むその淀みのなさ。才も血筋も品位も、すべてを兼ね備えている。近寄りがたいほどの気高さが、その全身から滲んでいた。
「主席候補だよ」トビーが小声で言った。「ヴァレル家のお嬢様だ。学院始まって以来の才媛だってさ。アルヴォですらあの人には一目置いてる」
演習が始まった。
イーディスの組む精霊級の術式は完璧だった。膨大な魔力が寸分の狂いもなく制御されていく。観客から感嘆のため息が漏れた。
セイルもその術式を視た。
美しかった。整然と過不足なく組み上げられた巨大な構造。だが――その中央に、ぽつりと空白があった。
アルヴォと同じだった。
器はこれ以上ないほど満ちている。なのにその満ちた力が、どこへも繋がっていない。土地とも石とも祖型とも。完璧に閉じている。学問の頂点に立つこの人もまた、祖型への窓を持っていなかった。
量の極み。だがその極みのさらに上には――決して手の届かない一段がある。竜級。命を代償に焚べる未学問の領域。イーディスほどの才をもってしても、そこへは一歩も足をかけられない。
完璧な術式のその天井がセイルには視えた。
演習が終わり観客が沸く中セイルはふと近くにアルヴォがいるのに気づいた。
アルヴォは聴講生の輪からは離れた、上級生の席の端にいた。腕を組み、イーディスをじっと見上げていた。
その横顔を、セイルは視た。
いつもの傲慢な完璧さは、そこになかった。代わりにあったのは――飢えだった。剥き出しの渇望。イーディスの完璧さを見上げながら、アルヴォは焦がれていた。あそこへ。あの頂へ。自分もいつか。
だがとセイルは思った。
アルヴォがどれだけイーディスに追いつこうと、あの頂へ登ろうと――その先には、結局同じ天井が待っている。竜級という、量では届かぬ最後の一段。イーディスにも届かない。アルヴォにも届かない。どれだけ高く積み上げても。
アルヴォはまだ、それを知らないのかもしれない。あるいは薄々感づきながら、目を逸らしているのかもしれない。
演習場を出るときセイルは廊下でアルヴォとすれ違った。
アルヴォの目がちらとセイルを捉えた。その目に、いつもの侮りに混じって奇妙な苛立ちがあった。
「何を見ている」アルヴォが低く言った。
「いや」セイルは言った。
「お前のような落第者が」アルヴォは吐き捨てた。「あの方の演習を見て、何が分かる。魔力ひとつ流せぬ者が」
その声には、いつもより棘があった。八つ当たりのようだった。イーディスへの届かぬ焦がれ。それを、格下のはずの落第者にぶつけている。
「あんた」セイルはつい言ってしまった。「あの人になりたいのか」
アルヴォの足が止まった。
「なりたいじゃない」アルヴォは振り返らずに言った。低く硬い声で。「超える。私はあの方を超える。学問の頂点に立つ。誰よりも、高く」
「でも」セイルは言った。視えたものが、そのまま口から出ていた。「あの人にも天井があった。あんたと同じだ。竜級には――届いてない」
アルヴォがぴたりと止まった。
ゆっくりと振り返る。その顔から表情が抜けていた。
「……黙れ」アルヴォは絞り出すように言った。「お前に何が分かる。何が」
だがその声は震えていた。
アルヴォが足早に去っていった。
その背中をセイルは見送った。
触れてしまったと、セイルは思った。アルヴォのいちばん痛いところに。届かぬ天井。どれだけ完璧でも登れない、最後の一段。アルヴォはそれを薄々知っている。知っていて、認めたくない。だから自分の言葉に、あれほど激した。
オルセンの言葉がよみがえった。あの子はいつか気づく。自分に唯一届かぬものがあることに。そのとき、あの子がどうなるか。
セイルはぞくりとした。
アルヴォのあの飢えは、いつか彼をどこかへ連れていくのではないか。届かぬ天井を、それでもこじ開けようとして。学問のまっとうな道では決して辿り着けない、どこかへ。
その予感はまだ形を持たなかった。だが確かに、胸の奥に冷たく居座った。
持たざる自分が、持てる者の中の欠落と飢えを視てしまう。
それはやはり、福音などではなかった。視えるからこそ視えてしまう。誰かが淵へ近づいていくのを。




