届かぬ天井
アルヴォ・ゼーゲルはいつも人の輪の中心にいた。
聴講の隅から見ていると、それがよく分かった。講義が終わるたび、学徒たちが彼の周りに集まる。今日の術式の組み方をもう一度見せてくれと。問いの立て方を教えてくれと。アルヴォは煩わしげにしながらも、求められれば淀みなく応えた。彼の答えはいつも正しかった。教本のどこよりも正しかった。
誰もが彼のようになりたがっていた。
セイルにもそれは分かる。あれが学問の頂だ。量と技術で誰よりも高く積み上げた者。村にいたころ、もし魔法というものがこういうものだと知っていたら、自分だってあの背中に憧れただろう。
だがいまのセイルには別のものが視えてしまう。
その日オルセンの研究室へ向かう廊下でセイルはアルヴォと出くわした。
広い廊下の窓辺で、アルヴォは一人術式の練習をしていた。誰も見ていないと思っているのだろう。掌の上に小さな炎を生んでは消し、生んでは消し、繰り返している。
何度見ても完璧だった。炎の形に寸分の揺らぎもない。
セイルは足を止めた。止めるつもりはなかったのに、肌のざわつきが勝手に反応していた。
アルヴォの周りに渦巻く膨大な魔力。その流れを、セイルは視ていた。整然と過不足なく組み上げられた術式。それは美しかった。けれど――その完璧な造形のちょうど真ん中に、ぽつりと空白があった。
何かがない。
うまく言えない。流れは満ちている。なのにその流れが、どこへも繋がっていない。村の境界石の前で感じたあの「奥へ呑まれていく」感覚。崖崩れの前に土地がざわめいた、あの大地との繋がり。それがアルヴォには、まるで無い。
器は満ちている。なのに外の世界と繋がっていない。
「何を見ている」
アルヴォの声が飛んできた。炎を消しこちらを見ている。
「……いや」セイルは言った。「すごいなと思って」
「世辞はいい」アルヴォの目は冷たかった。「落第者に褒められても何にもならん」
行こうとしてセイルはつい口を開いてしまった。
「あんた寂しくないのか」
アルヴォの足が止まった。
「何だと」
「いや」セイルは自分でもなぜそう言ったのか分からなかった。ただ視えたものが、そのまま口から出ていた。「あんたの魔法、満ちてるのにどこにも繋がってない。一人で完璧で、それで――閉じてる。なんか寂しそうに視えた」
しばらく沈黙があった。
アルヴォの整った顔から、表情が抜け落ちていた。それから彼は低く笑った。笑っているのに、目は笑っていなかった。
「面白いことを言う」アルヴォは言った。「魔力も流せん辺境者が私の魔法を寂しいときたか」
「悪い」セイルは慌てて言った。「変なこと言った。忘れてくれ」
「忘れる」アルヴォはもう一度掌に炎を灯した。完璧な、揺らぎのない炎。「私の魔法に足りないものなど、何もない。等級も技術も量も。私はここの誰より高く積んできた。お前のような者が何を視たつもりになろうと――物差しに乗らんものは、何でもないんだよ」
言葉は、初めて講義のあとに侮られたときと同じだった。
だが声が、ほんの少し硬かった。
その夜オルセンの研究室でセイルは昼間のことを話した。
「アルヴォの魔法に空白が視えたと」オルセンは茶をすすりながら聞いていた。「ほう。どんな空白だね」
「うまく言えない」セイルは言った。「魔力はいっぱいなんだ。なのにそれが、外と繋がってない。土地とも石とも何とも。ただ自分の中だけで、完璧に閉じてる」
オルセンはしばらく黙っていた。それからゆっくりと頷いた。
「あの子は」老教授は言った。「祖型への接続感覚がまるで無い。生まれつき窓が閉じている。君とは正反対だ。君は器が空っぽで、窓だけが開いている。あの子は器が満ちていて、窓だけがない」
「それは……不便なのか」
「いいや。学問の魔法を使うぶんには、何も困らん。むしろ雑音がないぶん、術式は澄む。あの子が同世代の頂点に立てるのも、そのおかげだ」オルセンは茶碗を置いた。「ただ――一つだけ、あの子に決して届かぬ領域がある」
「届かぬ領域」
「竜級だ」
その言葉にセイルは講義で聞いた一番上の段を思い出した。術者の命そのものを代償として焚べる。学問がいまだ追いついていない領域。
「竜級は」オルセンは声を落とした。「量では届かん。どれだけ魔力を積んでも、あそこには入れん。あれは術者自身が祖型の流れに深く呑まれることで、初めて触れる領域だ。窓を命がけで開け放つ。――窓のない者には、その入口すら無い」
セイルは息を呑んだ。
「じゃあアルヴォは」
「あの子は生涯、竜級には届かん」オルセンは静かに言った。「下級も上級も精霊級も、誰より完璧に修めるだろう。だがその一番上の段にだけは、一歩も足をかけられん。量の天才であればあるほど――その天井が、低く視えてくる」
セイルは昼間に視たあの空白を思い出した。
満ちているのに繋がっていない。完璧なのにその先がない。
あれは寂しさではなかったのかもしれないと、セイルは思った。あれは――天井だった。どれだけ高く積んでも、その上には決して手の届かない一段がある。それをアルヴォ自身は、まだ知らないのかもしれない。あるいは薄々、感づきはじめているのかもしれない。
「あの子は」オルセンは独り言のように言った。「いつか気づく。自分に唯一届かぬものがあることに。そのとき、あの子がどうなるか」
老教授はそれきり口をつぐんだ。
窓の外で、都の灯がいくつも瞬いていた。その一つ一つの下で、誰かが自分の届かないものに手を伸ばしているのだろうか。セイルはふと、そんなことを思った。
持たざる自分が、持てる者の中の欠落を視てしまう。
それが福音なのか、それとも――もっと厄介な何かの始まりなのか。セイルにはまだ分からなかった。




