沢の主の影
それに気づいたのは討伐の帰り際だった。
その日も演習地の沢で灰喰いを討った。いつもどおり淡々と。セイルは相変わらず教官の後ろで、群れの向きを視ていた。討伐は滞りなく終わった。
だが坑道を奥へ詰めて灰喰いの巣を焼き払ったあと。セイルの肌がざわついた。
灰喰いとは違う気配。魔物の生々しい蠢きではない。もっと静かで、もっと深い何か。坑道のさらに奥。岩の裂け目のその向こうに――土地そのものが、薄くざわめいていた。
「先生」セイルは思わず声をひそめた。「奥に何かいます。でも――魔物じゃない」
ガウェルが足を止めた。
「探知に出たか」教官は探知役の学徒に訊いた。
「いえ」学徒が首を振った。探知術式の光が裂け目の前で揺れていた。「何も。魔物の反応はありません。空っぽです」
「探知に出ない」ガウェルが低く繰り返した。
「でもいるんです」セイルは言った。「いるっていうか――土地がざわついてる。裂け目の向こう。何かに繋がってる。探知術式じゃ捉えられない。けど、視えるんです」
ガウェルの武骨な顔が、わずかにこわばった。
ヨルグが青い顔で囁いた。
「沢の主だ……」ヨルグの声が震えていた。「ここの古い人らが言うんだ。この沢の奥には、主がいるって。魔物じゃない。狩れもしない。ただいる。学問でも説明できない。触れたらいけないものだって」
セイルは裂け目の奥を視た。
視るつもりはなかった。だが肌が勝手に引き寄せられた。
そこには形がなかった。魔物のような輪郭はない。ただ――土地が薄く、どこかへ繋がっていた。岩のその下。さらに深いどこか。学問の言葉では、何も言えない場所。探知術式の届かぬ空白の奥。
そしてその繋がり方が――覚えのある質をしていた。
古い。途方もなく古い。底へ吸い込まれるような奥行き。
村の視る石と。あの遺物のかけらと。同じ質の。
セイルの背筋が凍った。
まただ。また同じ奥行き。村の石。沢で出た遺物。そして今この名もなき土地の淀み。すべて同じ場所へ繋がろうとしている。底の底のどこかへ。
学問が踏み込めない空白へ。
「ロウラント。退け」
ガウェルの声が鋭く響いた。
セイルははっと我に返った。気づけば裂け目のほうへ一歩踏み出していた。引き寄せられるように。視ることに呑まれかけていた。
「踏み込むな」ガウェルはセイルの肩をつかんで引き戻した。「ここは学問の地図にない。何があるか誰も知らん。狩れもせん。だったら――退く。それが、討伐者の流儀だ」
退く。勝てぬ相手から退く。
いつかヨルグが語ったガラムの言葉だった。無茶をしない。勝てないと思ったら引く。それを恥としない。だから長く生き延びる。
「だが先生」ヨルグが青ざめたまま言った。「あれ放っておいていいんですか。何かいるなら」
「いるが動かん」ガウェルは短く言った。「何百年もここに、ただある。害もなさん。突けばどうなるか、誰も知らん。――学者でも討伐者でもない。触れずにおくのが、いちばんだ。古い人らが言うとおりにな」
ガウェルは踵を返した。
「行くぞ。ここはもう見なかったことにする」
帰り道。
セイルは何度も振り返りそうになる自分を抑えた。
あの裂け目の奥。あの奥への繋がり。あれはいったい何だったのか。魔物でもない。遺物でもない。ただ土地が薄くどこかへ繋がっている、それだけの淀み。学問はそれを捉えられない。名づけることもできない。ただ「主」と呼んで、触れずにおく。
だが――その繋がりの質は。村の石と同じだった。
セイルは考えるのをやめようとした。いつものように。今は目の前のことだと。だが今度は、うまくいかなかった。
村の石。遺物。沢の淀み。三つの点が。頭の中で薄い線で、結ばれかけていた。すべて同じ底へ。学問の届かぬ空白の奥へ。
そしてその空白に触れられるのは――肌で視られるのは、たぶん自分だけだった。探知術式にも出ない。学者にも視えない。ただ自分のこの気味の悪い目だけが、その繋がりを捉えてしまう。
それが力なのか。呪いなのか。セイルにはまだ分からなかった。
ただ――誰にも視えないものが視えてしまうということは。誰ともそれを分かち合えないということでもあった。隔てられる。また一つ深く。視えてしまうというだけで。
「ロウラント」
学院の門の前でガウェルがぽつりと言った。
「お前のその目はたぶん、いつかもっと深いものに触れる。沢の主どころじゃない何かに」教官の声は低かった。「そのとき――退けるか。視ることに呑まれずに、退けるか。それがお前の生き死にを、分けるかもしれん」
セイルは答えられなかった。
さっき裂け目に引き寄せられた自分を、思い出した。一歩踏み出していた。呑まれかけていた。退いたのは自分ではなく、ガウェルの手だった。
退けるか。
その問いは答えのないままセイルの胸の奥に沈んでいった。




