実技教官ガウェル
聴講生にも実技の授業はあった。
座学ばかりの中央大魔法院で、数少ない体を動かす講義。「実習」と呼ばれるそれは、術式を紙の上でなく実地で振るう唯一の場だった。
その実習を仕切るのが、ガウェル・ブラントという教官だった。
初めて見たとき、セイルは学者には見えないと思った。武骨な体つき。日に焼けた肌。学者然とした他の教師とはまるで違う。座学の講師たちが線の細い紙と筆の人々だとすれば、この男は明らかに、外の世界を知っている顔をしていた。
「実習の心得を一つだけ言う」
初めての実習の日、ガウェルは集まった聴講生たちの前で短く言った。
「ここで教えるのは、術の見栄えじゃない。生きて帰ることだ」
それだけだった。多くは語らなかった。だがその一言には、座学のどの長広舌よりも重みがあった。
ロデリク・ヴァルゼンが後ろのほうで鼻を鳴らした。
「生きて帰るね」ロデリクは取り巻きに聞こえよがしに言った。「討伐者あがりの泥臭い教えだ。ヴァルゼン家の魔法はもっと洗練されている」
ガウェルの目がちらとロデリクへ向いた。
「ヴァルゼン」ガウェルは淡々と言った。「お前の洗練された魔法が、魔物の牙の前で何秒もつか。いずれ実地で見せてもらおう」
ロデリクの顔がこわばった。だが言い返さなかった。ガウェルの声には、現場を知る者の有無を言わせぬ何かがあった。
セイルはその光景を隅で見ていた。身分や家柄で人を測らない大人。それは中央に来てから初めて見る、種類の教師だった。
実習の補佐に一人の後輩がついていた。
ヨルグ・ターヴというセイルより一つ下の少年だった。討伐者になりたいのだという。ガウェルをまるで英雄のように慕っていた。
「ブラント先生はさ」ヨルグは目を輝かせてセイルに話しかけてきた。聴講生にも分け隔てなく話す、人懐こい少年だった。「昔は本物の討伐者だったんだ。何十体も魔物を狩ってきた。それも無茶な戦い方じゃない。相手の弱点を見極めて、罠を張って、確実に仕留める。――かっこいいだろ」
「魔物って」セイルは訊いた。村では聞いたこともなかった。「どこにいるんだ」
「えっ、知らないの?」ヨルグは目を丸くした。「魔物はさ、魔力の濃いところに湧くんだ。霊脈の淀んだところとか。古い遺跡とか。中央は魔力が濃いから、放っておくとあちこちで湧く。それを討伐者が狩るんだよ」
セイルははっとした。
魔力の濃いところに湧く。
ならば――辺境はどうなのだろう。村は大陸でいちばん魔力が薄かった。だから魔物など、見たこともなかった。あれは薄魔力のおかげだったのか。豊かさのない代わりに、魔物もいない辺境。
濃ければ豊か。だが濃ければ魔物も湧く。何ごとにも表と裏が、あるらしかった。
「お前」
実習が終わったあと、ガウェルがセイルを呼び止めた。
セイルは身構えた。座学では落第者だ。実習でも、魔力を流せぬ自分は何の役にも立たなかった。叱責か、あるいは見限りか。
「お前辺境の出だな」ガウェルは短く訊いた。
「……はい」
「魔力はほとんどないと聞いた」
「はい」
ガウェルはしばらくセイルを見ていた。武骨な顔は何を考えているのか読めなかった。
「だが」やがてガウェルは言った。「お前、さっきの実習で一度妙な動きをした。皆が右へ動くとき、お前だけ一瞬、左の壁を見た。何もない、ただの壁を。――何か感じたか」
セイルは息を呑んだ。
あのとき。確かに左の壁の向こうに、かすかな嫌な気配を感じた。肌のざわつきがわずかに尖った。だが何もなかったので、気のせいだと思い口にしなかった。それをこの教官は見ていた。
「……何かいる気がした」セイルは正直に言った。「うまく言えないけど。壁の向こうに」
ガウェルは何も言わなかった。ただふんと短く息を吐いた。それは否定とも肯定とも、つかなかった。
「覚えておく」ガウェルはそれだけ言って背を向けた。
その背を見送りながらセイルは奇妙な心地になった。
座学では誰も自分の感覚を相手にしなかった。ダルムは「測れぬものは無い」と切り捨てた。だがこの武骨な教官は――学問とはまるで違う場所から、自分の「視る」を訝っていた。
現場の勘として。生きて帰るための何かとして。
オルセンは観相という学問の言葉で、自分を見出した。リーゼルは記述するという誠実さで、寄り添った。だがガウェルは、そのどちらとも違った。実地の泥臭い経験の側から、自分の異才に目を留めていた。
学問の物差しに乗らなくても。記述できなくても。
現場では――役に立つのかもしれない。
その予感が、ほんの少しだけセイルの胸を温めた。まだ何の役にも立っていない。ただ壁の向こうの気配を感じただけだ。だがそれを「覚えておく」と言った大人が、ここにいた。




