半分しか書けない
セレナがそれを提出したのは軽い思いつきだった。
あの雨の日から、二人の協働は続いていた。セイルが視たものを言葉にできないところも含めて、セレナが書き留めていく。研究室の冊子は、少しずつ奇妙な記述で埋まっていった。「全方向に同時に動く流れ」「言葉にならぬ脈動」――そんな学問の文法から外れた言葉で。
ある日、座学の講義で課題が出た。各自観察した魔法現象を一つ記述して提出せよと。
「ねえ」セレナがふと言った。「これ出してみない? あなたの視たものの記述。私が書き留めたやつ」
セイルは戸惑った。
「あんなの学問の言葉じゃないだろ」
「でも記述は記述よ」セレナは少し得意げだった。「現象をありのまま書いた。立派な観察記録。――どんな反応が返ってくるか、見てみたいの」
その目は好奇心で輝いていた。分からないものを、分からないまま放置できない。セレナのいつもの誠実さだった。セイルは嫌な予感を覚えながらも、頷いた。
その記述が講義で読み上げられた。
ダルムの配下の講師が、提出された記録を一つずつ講評していく。淡々と。やがてセレナの記述の番が来た。
講師がそれを読み上げた。「全方向に同時に動く流れ……言葉にならぬ脈動……」
教室が静まり返った。
それから――笑いが漏れた。
最初は忍び笑い。やがてはっきりとした嘲笑に変わった。
「何だそれは」誰かが言った。「言葉にならないを記述に書くのか」
「詩でも書いてるのか」別の声が続いた。「ここは文芸の講堂じゃないぞ」
講師が冷ややかに記録を机に置いた。
「クロウ君」講師はため息混じりに言った。「これは記述ではない。測れぬものを、測れぬまま書き連ねただけだ。学問は定義し、定量する。『言葉にならない』は記述ではなく、観察の放棄だよ。――やり直したまえ」
セレナの顔が青ざめそれから赤くなった。
セイルは唇を噛んだ。あの記述は、二人で苦労して絞り出したものだった。視えないものをそれでも書き留めようとした、誠実な足掻きだった。それが――嘲笑され、観察の放棄と切り捨てられた。
講義のあと。セレナは廊下の隅で、冊子を握りしめて立っていた。
「ごめん」セイルは言った。「おれが視るものが変だから。あんたまで笑われた」
「違う」セレナは低く言った。声が震えていた。「あなたのせいじゃない。私の記述が足りなかったの。あの人たちに届く言葉に、できなかった。――悔しい」
セレナは顔を上げた。目が潤んでいた。だが泣いてはいなかった。
「分かったの」彼女は言った。「私とあなたの間では、半分は通じる。でもその半分の言葉は――外には届かない。あの教室の誰にも。私たちの言葉は、私たちだけの島の言葉なのよ。一歩外に出たら、ただのたわごとに聞こえる」
島の言葉。
その一言がセイルの胸に深く刺さった。
ずっと独りだった。誰にも視えるものを伝えられなかった。だがセレナが現れた。半分でも分かってくれる人が。それで、孤独の端がほどけた気がしていた。
だが――その半分は、二人の間だけのものだった。二人でどれだけ言葉を積み上げても、その言葉は教室の扉の外では通じない。世界の大半は相変わらず、自分たちを笑う。たわごとを書く変わり者の二人として。
協働は孤独を消しはしなかった。ただ――孤独な島を、一人から二人にしただけだった。
「それでも」セレナがぽつりと言った。冊子を握り直して。「私は書く。外に届かなくても。あの人たちに笑われても。あなたの視てるものは、確かに在る。記述できないからって、無いことにはならない。――いつか届く言葉を見つけてやる。一生かかっても」
その横顔は悔しさで強張っていた。だがその奥に、退かない何かがあった。
セイルはその横顔を見ながら思った。この人はたぶん、一生外に笑われ続ける。自分の隣にいる限り。それでも書くと言う。届かないと知ってなお。
「いやぁひどい講義だったね」
声がして二人は振り返った。ニケ・ソルンが壁にもたれていた。いつのまにかそこにいたらしかった。
「ニケ」セレナがばつの悪そうな顔をした。「聞いてたの」
「ばっちり」ニケはへらへらと笑った。だがその目は、いつになく真面目だった。「言わせてもらうけどさ。あの講師の言うこと、おれは好きじゃない。『言葉にならない』を放棄だと? ――冗談じゃない。世の中には言葉にならないものが山ほどある。それを無いことにするのが、公理派の悪い癖だ」
ニケは肩をすくめた。
「クロウの記述さ」ニケは言った。「おれにはちょっとだけ分かったよ。全方向に動く流れってやつ。完全には分からない。けど――『あ、なんかそういうのもあるかもな』って思った。たわごとだとは思わなかった」
セレナが目を見開いた。
「半分の半分くらい?」ニケは首を傾げた。「まあそれくらいは届いたってこと。――島の言葉でもさ、岸に立ってる奴が一人くらいはいるんじゃないの」
ニケはそれだけ言うと、ひらひらと手を振って去っていった。
セイルはその背中を見送りながら、奇妙な温かさを覚えた。
島の言葉。外には届かない。だが――岸に立ってこちらを見ている者が、一人いた。完全には分からないけれど。たわごとだとは思わないと言ってくれる者が。
半分しか伝わらない。その半分すら外には届かない。だがその「届かなさ」の岸辺に、ぽつぽつと立ち止まる者が現れ始めていた。セレナが。そして今、ニケが。
孤独な島はまだ島のままだった。だがその周りの海に、少しずつ橋を架けようとする者が増えていた。
いつか、とセイルは思った。この島にもっと多くの人が、岸から手を振ってくれる日が来るだろうか。完全には渡ってこられなくても。半分の半分でも届くなら。
その日のことを、セイルはまだ知らない。だがその夜、研究室でセレナがまた新しい記述を書き始めるのを、セイルは隣で静かに見ていた。届かない言葉をそれでも紡ぐ手を。




