表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
視竜 〜最弱の眼、最強を射抜く〜  作者: Studio Yodaca
定理の都

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
29/74

半分しか書けない

セレナがそれを提出したのは軽い思いつきだった。


 あの雨の日から、二人の協働は続いていた。セイルが視たものを言葉にできないところも含めて、セレナが書き留めていく。研究室の冊子は、少しずつ奇妙な記述で埋まっていった。「全方向に同時に動く流れ」「言葉にならぬ脈動」――そんな学問の文法から外れた言葉で。


 ある日、座学の講義で課題が出た。各自観察した魔法現象を一つ記述して提出せよと。


「ねえ」セレナがふと言った。「これ出してみない? あなたの視たものの記述。私が書き留めたやつ」


 セイルは戸惑った。


「あんなの学問の言葉じゃないだろ」


「でも記述は記述よ」セレナは少し得意げだった。「現象をありのまま書いた。立派な観察記録。――どんな反応が返ってくるか、見てみたいの」


 その目は好奇心で輝いていた。分からないものを、分からないまま放置できない。セレナのいつもの誠実さだった。セイルは嫌な予感を覚えながらも、頷いた。


 その記述が講義で読み上げられた。


 ダルムの配下の講師が、提出された記録を一つずつ講評していく。淡々と。やがてセレナの記述の番が来た。


 講師がそれを読み上げた。「全方向に同時に動く流れ……言葉にならぬ脈動……」


 教室が静まり返った。


 それから――笑いが漏れた。


 最初は忍び笑い。やがてはっきりとした嘲笑に変わった。


「何だそれは」誰かが言った。「言葉にならないを記述に書くのか」


「詩でも書いてるのか」別の声が続いた。「ここは文芸の講堂じゃないぞ」


 講師が冷ややかに記録を机に置いた。


「クロウ君」講師はため息混じりに言った。「これは記述ではない。測れぬものを、測れぬまま書き連ねただけだ。学問は定義し、定量する。『言葉にならない』は記述ではなく、観察の放棄だよ。――やり直したまえ」


 セレナの顔が青ざめそれから赤くなった。


 セイルは唇を噛んだ。あの記述は、二人で苦労して絞り出したものだった。視えないものをそれでも書き留めようとした、誠実な足掻きだった。それが――嘲笑され、観察の放棄と切り捨てられた。


 講義のあと。セレナは廊下の隅で、冊子を握りしめて立っていた。


「ごめん」セイルは言った。「おれが視るものが変だから。あんたまで笑われた」


「違う」セレナは低く言った。声が震えていた。「あなたのせいじゃない。私の記述が足りなかったの。あの人たちに届く言葉に、できなかった。――悔しい」


 セレナは顔を上げた。目が潤んでいた。だが泣いてはいなかった。


「分かったの」彼女は言った。「私とあなたの間では、半分は通じる。でもその半分の言葉は――外には届かない。あの教室の誰にも。私たちの言葉は、私たちだけの島の言葉なのよ。一歩外に出たら、ただのたわごとに聞こえる」


 島の言葉。


 その一言がセイルの胸に深く刺さった。


 ずっと独りだった。誰にも視えるものを伝えられなかった。だがセレナが現れた。半分でも分かってくれる人が。それで、孤独の端がほどけた気がしていた。


 だが――その半分は、二人の間だけのものだった。二人でどれだけ言葉を積み上げても、その言葉は教室の扉の外では通じない。世界の大半は相変わらず、自分たちを笑う。たわごとを書く変わり者の二人として。


 協働は孤独を消しはしなかった。ただ――孤独な島を、一人から二人にしただけだった。


「それでも」セレナがぽつりと言った。冊子を握り直して。「私は書く。外に届かなくても。あの人たちに笑われても。あなたの視てるものは、確かに在る。記述できないからって、無いことにはならない。――いつか届く言葉を見つけてやる。一生かかっても」


 その横顔は悔しさで強張っていた。だがその奥に、退かない何かがあった。


 セイルはその横顔を見ながら思った。この人はたぶん、一生外に笑われ続ける。自分の隣にいる限り。それでも書くと言う。届かないと知ってなお。


「いやぁひどい講義だったね」


 声がして二人は振り返った。ニケ・ソルンが壁にもたれていた。いつのまにかそこにいたらしかった。


「ニケ」セレナがばつの悪そうな顔をした。「聞いてたの」


「ばっちり」ニケはへらへらと笑った。だがその目は、いつになく真面目だった。「言わせてもらうけどさ。あの講師の言うこと、おれは好きじゃない。『言葉にならない』を放棄だと? ――冗談じゃない。世の中には言葉にならないものが山ほどある。それを無いことにするのが、公理派(こうりは)の悪い癖だ」


 ニケは肩をすくめた。


「クロウの記述さ」ニケは言った。「おれにはちょっとだけ分かったよ。全方向に動く流れってやつ。完全には分からない。けど――『あ、なんかそういうのもあるかもな』って思った。たわごとだとは思わなかった」


 セレナが目を見開いた。


「半分の半分くらい?」ニケは首を傾げた。「まあそれくらいは届いたってこと。――島の言葉でもさ、岸に立ってる奴が一人くらいはいるんじゃないの」


 ニケはそれだけ言うと、ひらひらと手を振って去っていった。


 セイルはその背中を見送りながら、奇妙な温かさを覚えた。


 島の言葉。外には届かない。だが――岸に立ってこちらを見ている者が、一人いた。完全には分からないけれど。たわごとだとは思わないと言ってくれる者が。


 半分しか伝わらない。その半分すら外には届かない。だがその「届かなさ」の岸辺に、ぽつぽつと立ち止まる者が現れ始めていた。セレナが。そして今、ニケが。


 孤独な島はまだ島のままだった。だがその周りの海に、少しずつ橋を架けようとする者が増えていた。


 いつか、とセイルは思った。この島にもっと多くの人が、岸から手を振ってくれる日が来るだろうか。完全には渡ってこられなくても。半分の半分でも届くなら。


 その日のことを、セイルはまだ知らない。だがその夜、研究室でセレナがまた新しい記述を書き始めるのを、セイルは隣で静かに見ていた。届かない言葉をそれでも紡ぐ手を。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ