視えても解けない
壁にぶつかったのはある雨の日だった。
その日セイルが視たものは、これまででいちばん複雑だった。原石の奥で、いくつもの流れが絡み合い、ほどけ、また絡む。渦とも波ともつかない動き。セイルはそれを言葉にしようとして――できなかった。
「……うまく言えない」セイルは呻いた。「動いてる。でも渦でも波でもない。なんかこう……生きてるみたいに形が変わり続けてる。言葉にならない」
「もっと具体的に」セレナの筆が止まっていた。「生きてるじゃ書き取れない。何がどう動いてるの。速さは。向きは」
「だからそれが言えないんだ」セイルは苛立った。「向きなんてない。ぜんぶの向きに同時に動いてる。速さもばらばらだ。――こんなの、言葉じゃ無理だ」
セレナの眉が寄った。
「言葉にできないものは」彼女は低く言った。「記述できない。記述できないものは、学問にならない。――それでは、ダルム様の言う通りになってしまう」
その一言がセイルの胸を刺した。
「じゃあ」セイルは思わず声を荒げた。「おれが悪いのか。視えてるのに言葉にできないおれが」
「そうは言ってない」
「言ってるようなもんだ」セイルは立ち上がった。「あんたはいつも、言葉にしろ記述しろって言う。けど視えてるもののほとんどは、言葉になんかならないんだ。おれはずっとそれを独りで抱えてきた。村でも誰にも言えなかった。あんたなら分かってくれると思った。けど――やっぱり半分も伝わらない」
言ってしまってから、セイルは後悔した。
セレナは傷ついた顔をしていた。だがすぐに、その顔を引き締めた。
「……そうね」セレナは静かに言った。「半分も伝わってない。あなたの言う通りよ。私の術式は、構造を捉えられない。私の言葉は、あなたの視てるものに届かない。――悔しいけど、それが本当」
沈黙が落ちた。雨の音だけが研究室に響いていた。
奥で聞こえないふりをしていたオルセンがぽつりと口を開いた。
「それでいいのだ」
二人が振り向いた。
「わしも何十年もその壁にぶつかってきた」老教授は茶をすすった。「視えるものを人に渡そうとして、いつも半分でこぼれ落ちる。完全には伝わらん。それが観相の宿命だ。――だが、セレナ」
「はい」
「お前は今それを悔しいと言った」オルセンの目が細くなった。「悔しいと思えるのは、お前が半分は受け取ったからだ。何も受け取らなければ、悔しくもない。半分しか伝わらん。だがその半分は、確かに伝わっている。――ゼロではないのだ」
セイルははっとした。
半分しか伝わらない。ずっとそれを、孤独の証だと思っていた。誰も自分を丸ごとは分かってくれないと。だが――半分は伝わっている。それはゼロとは、まるで違うことだった。
「セレナ」セイルは言った。「さっきは悪かった。苛立った」
「ううん」セレナは首を振った。「私も。言葉にできないあなたを責めるみたいに言った。――でもね」
セレナは筆を取り直した。
「私、諦めない。言葉にできないって言われたら、その『言葉にできなさ』を書き留める。『ぜんぶの向きに同時に動く』『言葉にならない』――それも立派な記述よ。あなたの視てるものがどれだけ言葉を超えてるか。それを書くこともできる」
セイルは目を見開いた。
言葉にできないということそのものを書き留める。そんな発想はなかった。
「それでも」セレナはまっすぐにセイルを見た。「半分しか分からないと思う。たぶん一生。でもその半分を少しでも増やしたい。だめ?」
半分しか分からない。だがその半分を増やそうとしてくれる。
それがどれほどのことか、セイルは今はっきりと知った。完全に分かってもらうことなど、望んでいなかった。ただ独りで抱えるのが苦しかっただけだ。半分でも共に抱えてくれる者がいれば。それだけで。
「だめじゃない」セイルは言った。「頼む」
雨が上がりかけていた。
ニケがいつのまにか戻ってきていて、二人のやりとりを戸口でにやにやと聞いていた。
「いやぁ、いいもん見たね」ニケはへらへらと言った。「喧嘩して、仲直りして。青春だなあ」
「うるさい」セレナが冊子を投げる真似をした。ニケが大げさによけた。
セイルはその光景を見ながらふと思った。
完全には分かり合えない。それは変わらない。だが――分かり合えないことを知ったうえでなお、隣にいてくれる者がいる。半分の壁を認めたうえで、その半分を増やそうとしてくれる者が。
それは孤独の終わりではなかった。だが孤独を、独りで抱えなくていいということだった。
いつか、とセイルは思った。この感覚をもっと多くの人に伝えられる日が、来るだろうか。それとも一生、半分のままなのだろうか。
分からなかった。だがその「半分」を、悪くないと初めて思えた。




