書肆の一冊
「観相派の古い論文?」
書肆のエルクは帳場から、胡乱げにセレナを見た。偏屈そうな初老の男だった。学院街の片隅のその古い書肆は、床から天井まで本と巻物で埋まっていた。
「ええ」セレナは臆さずに言った。「ガイル先生より前の観相派の。感受の相を記述しようとした試みの記録があれば」
「観相なんぞ」エルクは鼻を鳴らした。「今どき誰も読まん。売れんから、奥に埃をかぶって積んである。――まあ待ってな」
ぶつぶつ言いながらも、エルクは奥の棚へ消えていった。客の探す一冊を必ず探し当てる。それがこの偏屈な店主の、唯一にして絶対の自負らしかった。
待つあいだセイルは店の中を見回した。
膨大な本。村には一冊もなかったものだ。文字すらろくに読めなかった村の暮らしからは、想像もつかない量の知。それがここには、無造作に積まれていた。
ふと帳場の近くで、数人の学生が声をひそめて話しているのが聞こえた。
「――でさ辺境のほうで石が独りでに光ったって話聞いたか」
セイルの肩がびくりと跳ねた。
「なんだそりゃ」
「境界石ってやつだよ。古い神秘時代の遺物だ。普段はただの石柱なんだが、ごく稀に独りでに灯ることがあるらしい。で、半年だか前にどっかの辺境の村で、それが起きたって」
「眉唾だな」
「おれもそう思う。辺境の連中の与太話さ。だが第七公理庁が調べに動いたって噂もあって――」
学生たちはそれきり別の話題に移った。
だがセイルは動けなかった。
石が独りでに光った。
半年前。辺境の村で。
それは――自分の村のことだった。
まさかと思った。中央のこんな書肆で、学生たちの世間話の中で、自分が村を出るその発端となったあの夜の出来事が、遠い辺境の眉唾な噂として語られている。
石が独りでに灯った。誰もがそれを「辺境の与太話」と笑う。だがセイルは知っていた。あれが与太話などではないことを。自分がその光の奥を、確かに視たことを。
第七公理庁が調べに動いた。その一言も胸に引っかかった。中央の国の機関が、あの薄魔力の最果ての村の石に関心を持っている。なぜ。
言おうかと思った。あれは自分の村のことだと。自分がその石の前にいたのだと。
だが――言えなかった。
言えば、またあの目で見られる。気味の悪いものを見る目で。せっかくここではまだ、化け物とは呼ばれていない。セレナもニケも、自分を普通に扱ってくれている。その関係を壊したくはなかった。
セイルは口をつぐんだ。胸の奥にその引っかかりをしまい込んで。
「あったぞ」
エルクが奥から薄い冊子を数冊抱えて、戻ってきた。埃にまみれた、古い論文の綴りだった。
「ガイルの二代前。ヴェスパ翁の写しもある」エルクは帳場にそれを置いた。「観相をなんとか記述しようとした、もの好きどもの記録さ。――結局誰も成功しなかったがな」
セレナの目が輝いた。冊子を大事そうに手に取る。
「これだわ。探してた。――いくら?」
エルクが告げた額に、セレナは迷わず銭を払った。セイルにはとても払えない額だった。だがセレナは、惜しげもなかった。
「研究の元手よ」セレナはセイルの視線に気づいて言った。「あなたの視てるものを記述する。その先人の記録なら、安いものよ」
セイルはその横顔を見た。
この少女は本気だった。自分の感覚を記述するという、誰も成功したことのない道に、本気で銭と時間を注ごうとしていた。
書肆を出て二人は夕暮れの学院街を歩いた。
セレナは買ったばかりの冊子を嬉しそうにめくっていた。その隣でセイルはまだ、さっきの噂を胸の奥で転がしていた。
辺境で石が灯った。第七公理庁が動いた。
遠い対岸の火事のような噂。誰もそれが、隣を歩くこの落第者の故郷の話だとは知らない。セイル自身さえ、それがこれから自分にどう関わってくるのかを、まだ知らなかった。
ただ漠然と、胸の奥がざわついていた。あの村の石。視る石。あれは本当に、ただの村の言い伝えだったのだろうか。
考えるなと、セイルは自分に言い聞かせた。今は目の前のことだ。聴講の半年で何かを示すこと。セレナとの記述の仕事。それだけで手一杯だった。村のことは――村の石のことは、いつか考えればいい。今は蓋をしておく。
そう胸の奥に押し込めた。だがその蓋がいつまでもつかは、セイル自身にも分からなかった。
夕日が学院街の屋根を赤く染めていた。セレナの冊子をめくる音だけが、静かに響いていた。




