ニケの計測
ニケが妙なものを持ち込んできたのは加わって幾日かしてからだった。
その日、研究室の戸を開けたニケの腕には、がらくたのような道具が抱えられていた。小さな鈴。水を張った椀。砂を入れた薄い革袋。
「何それ」セレナが訝しげに訊いた。
「実験道具」ニケは得意げに言った。「おれずっと考えてたんだ。セイル君の視たものを言葉だけで書き取ろうとするから、こぼれるんじゃないかって」
「言葉だけだと」ニケは机に道具を並べた。「『ぐるぐる濃い』とか『ちりちり濃い』とか、結局セイル君の言葉選びに頼ることになる。でも言葉にならないものは、言葉じゃ写し取れない。だろ?」
「それはそうだけど」セレナが頷いた。
「だからさ」ニケはにやりと笑った。「言葉以外で写し取ってみたら、どうかと思って。たとえば――セイル君。この石、視てみてくれよ。で、視えたものを言葉じゃなくて、この鈴で表してみて。速いと思ったら、速く鳴らす。重いと思ったら、ゆっくり重く鳴らす」
セイルは戸惑いながら石に手をかざした。
奥で流れが蠢いていた。いつもの言葉にならない複雑な動き。それを――言葉にする代わりに、鈴を鳴らしてみた。流れの速いところで細かく。重いところでゆっくりと。手が勝手に動いた。
「お」ニケが身を乗り出した。「いいぞそれ。続けて」
奇妙なことが起きた。
言葉にしようとすると、いつも詰まった。「全方向に動く」「言葉にならない」――そこで止まってしまった。だが鈴を鳴らしていると、止まらなかった。手が視えたもののリズムを、そのまま追っていった。言葉を通さずに。
セレナがはっとした顔で筆を走らせ始めた。
「鈴の鳴り方を書き取ってるの」彼女は早口で言った。「速い、細かい、また速い、急に重い……これ、セイルの『言葉にならない動き』がリズムになってる。言葉よりずっと細かい」
「だろ?」ニケが得意満面だった。「視えないおれには、石の奥は分からない。でも鈴の音なら聞こえる。セイル君が何を視てるかは分からなくても、それがどんなリズムかなら、おれにもセレナさんにも分かる。――言葉の回り道をしなくて済むんだ」
その日三人は夢中になって試した。
鈴でリズムを。水の椀で波の立ち方を――セイルが視た流れの強さを、指で水面を弾いて写し取る。砂袋の重さで淀みの重さを。言葉にならないものを、言葉以外のいくつもの形に置き換えていく。
完全ではなかった。鈴も水も砂も、セイルの視ているもののほんの一面しか写し取れなかった。だが――言葉だけのときより、こぼれ落ちるものが確かに減った。
「面白いなこれ」セイルは思わず呟いた。
村では自分の感覚は、ただ独りで抱えるものだった。言葉にもならず、誰にも渡せなかった。それが今ここでは。言葉でだめなら音で。音でだめなら水で。三人であの手この手を尽くして、その「視えないもの」をすくい取ろうとしている。
セレナのまっすぐな誠実さ。ニケの飄々とした工夫。視えない二人が、視える自分のために知恵を絞っている。それが奇妙に胸を温めた。
「なあニケ」セイルはふと訊いた。「あんたどうしてこんなに付き合ってくれるんだ。視えないのに。出世もしないって言ってたのに」
ニケは鈴をもてあそびながら肩をすくめた。
「言ったろ。おれ傍流の出でさ。どうせ序列じゃ上に行けない」ニケはへらへらと言った。「だからさ、序列とは別のところで面白いことがしたいんだ。公理派みたいに『測れないものは無い』なんて、つまんないこと言いたくない。――測れないものをどうにかして測ろうとする。そっちのほうが、ずっと面白いだろ?」
ニケは鈴をちりんと鳴らした。
「それに」ニケは少し声を低くした。「おれ、ちょっとだけ嬉しいんだ。視えないおれにも役割があるってのが。セイル君は視る。セレナさんは記述する。おれは――視えないなりに、写し取る道具を考える。三人ぜんぶ違う。違うのに組める。そういうの、おれは好きだぜ」
セイルはニケの横顔を見た。
飄々として掴みどころのない男。だがその言葉には、芯があった。違うのに組める。視える者と視えない者が。記述する者と写し取る者が。それぞれ欠けたものを持ち寄って。
その夜研究室を出るとき。
机の上には、書きつけと鈴と水の椀と砂袋が雑然と並んでいた。学問の整然とした器具とは似ても似つかない、がらくたの山。だがその山は確かに、何かをすくい取り始めていた。言葉の届かないものを。
セイルはその光景をしばらく見ていた。
二人だった協働が、三人になった。視る者と、記述する者と、写し取る者。半分の壁はまだそこにあった。だがその壁を、三人がかりで少しずつ削っていく。一人ではできなかったことが、三人ならできる。
完全には分かり合えない。だが――分かり合えなさを持ち寄ってなお、何かを作れる。それがこんなにも賑やかで温かいことだとは。村にいたころの自分には、想像もつかなかった。
いつかこの輪が、もっと広がるだろうか。視えない者たちが視える者の世界を、あの手この手ですくい取ろうとするこの輪が。
その夜、セイルの胸には、落第の苦さよりもその問いのささやかな明るさのほうが強く残っていた。




