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視竜 〜最弱の眼、最強を射抜く〜  作者: Studio Yodaca
定理の都

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22/72

橋渡しの講師

オルセンの研究室に通い始めてすぐにセイルは困った。


 あの老教授は確かに、自分の感覚を「在るもの」として扱ってくれた。だがいざ「視ることを教えよう」という段になると、その教えはつかみどころがなかった。「感じたままに」「相に身を委ねて」――そんな言葉ばかりで、どうすればいいのかさっぱり分からない。


 そのうえオルセンは気まぐれだった。茶を飲みながら半日も昔語りをしていたかと思えば、ふいに「今日はもう帰りなさい」と言う。威厳というより、老いの飄々さというべきものだった。


 近づきがたいというのとは違う。ただ年が離れすぎていた。何を訊いていいのかも分からなかった。


 そんなある日、研究室の前で若い男に声をかけられた。


「君がセイル・ロウラント君だね」


 二十代の半ばだろうか。柔和な顔立ちの、聡明そうな男だった。講師の身なりをしている。


「リーゼル・マルム」男は名乗った。「この院で講師をしている。オルセン先生の弟子筋でね。――先生が君のことを、ずいぶん楽しみにしておられる」


 弟子筋。ということは、この人も観相派(かんそうは)なのか。セイルは身構えた。だがリーゼルの目には、ダルムのような断定も、ロデリクのような侮りもなかった。ただ穏やかな関心だけがあった。


「先生の教えは」リーゼルは苦笑した。「分かりにくかっただろう」


 図星だった。セイルが思わず頷くとリーゼルは声を立てて笑った。


「だろうね。先生は天才だ。生まれつき視える人ではないが、何十年もかけて視ることを体に刻んだ。だからもう、どうやって視ているのかご自分でも言葉にできなくなっている。――そういうものを人に伝えるのは、いちばん難しいんだ」


「私はね」リーゼルは続けた。「先生ほど視えない。感受の相は人並み程度だ。だから――視える人がどうやって視ているのかを外から観察して、書き留めることにずっと心を砕いてきた」


「書き留める」


「そう」リーゼルは頷いた。「視える人にとっては当たり前すぎて言葉にならないことを。視えない私が横で見て、問いを立て、記述する。そうやって少しずつ、観相(かんそう)を人に伝えられる形に近づけようとしている。――まあ道は遠いがね」


 セイルはリーゼルの顔を見た。


 この人は視えない。なのに視ることを誰よりも真剣に考えている。視える自分よりも、ずっと。奇妙な人だった。


「なんで」セイルは訊いた。「視えないのに、そんなにこだわるんだ」


 リーゼルは少し考えてから答えた。


「視えないからこそ、かな」静かな声だった。「視える人はそれが当たり前だから、その価値に気づかない。視えない私には、視えるということがどれほど途方もないことかよく分かる。――それを無いことにしてしまう公理派(こうりは)のやり方が、私にはどうしてももったいなく思えてね」


 もったいない。


 その言葉が、セイルの胸に奇妙に残った。村でも中央でも、自分の感覚は気味悪がられるか無いものとされるか、どちらかだった。それを「もったいない」と言った者は、初めてだった。


「先生は威厳がありすぎて、訊きにくいだろう」リーゼルは言った。「困ったことがあれば、私に訊くといい。年も近いしね。先生の言葉を、君に分かる形に噛み砕くくらいはできる」


「いいのか」セイルは訊いた。「おれは落第者だ。あんたみたいな講師が面倒みるような――」


「落第」リーゼルはふっと笑った。「ダルム様の物差しでだろう。あの物差しは、君を測れなかった。それだけのことさ。物差しのほうが、君に届かなかった。――君が劣っているわけじゃない」


 セイルは言葉を失った。


 落第。その一語にずっと押しつぶされていた。自分は何もできない者なのだと。だがこの若い講師は、あっさりとそれを裏返した。物差しのほうが届かなかったのだと。


「ただし」リーゼルは少しだけ声を落とした。「言っておくが、観相派(かんそうは)の道は楽じゃない。私たちは院では日陰者だ。公理派(こうりは)の先生方からは、異端と見られている。私自身、いつ講師の職を失ってもおかしくない立場だ。――君がこの道を進むなら、その不遇もついてくる」


 リーゼルの目に、覚悟の色があった。卑屈でも傲慢でもない。ただ信じるもののために日陰に立つことを選んだ者の、静かな覚悟が。


「それでも」リーゼルは言った。「私はこの道が間違っているとは思わない。――視えるものを無いことにするのは、もったいない。それだけのことさ」


 学問が敵なのではない。そうセイルは胸の内で思った。敵がいるとすれば、それは視えるものを無いと裁く、その傲りのほうだ。だがそれを言葉にしたのは、リーゼルではなく自分だった。リーゼルはただ静かに、そう思わせるだけの種を置いていっただけだった。


 研究室を辞してセイルは学院街を歩いた。


 オルセン。リーゼル。そしてセレナ。


 学問の都に来て落第と裁かれた。だがその学問の中にも、自分の感覚を「在るもの」として真剣に向き合おうとする者がいた。一人ではなく、何人も。日陰に追いやられながら。


 学問の物差しは、自分を測れなかった。だが学問そのものが敵なのではない。リーゼルの言葉が胸に残っていた。


 いつか自分の視ているものを、誰かに伝えられる日が来るだろうか。リーゼルのように、セレナのように、記述しようとしてくれる者と二人がかりで。


 まだ遠い。だがその「遠い」道の入口に、自分は立っているのかもしれなかった。


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