視る者
「オルセン・ガイル様という方だ」
聴講の帰り、ヴェントがそう切り出した。
「観相派の老教授でね。院ではほとんど誰も近寄らない。予算も弟子も乏しい、日陰の人だ」ヴェントの声にはしかし、侮りはなかった。むしろ隠した敬意があった。「だが定理に還元できぬものに正面から挑んでいる学者は、あの方くらいしかいない。――会ってみるといい。君のことを話しておいた」
ダルムとは正反対の人ということらしかった。セイルにはまだ、意味がよく分からなかった。
オルセンの研究室は院のいちばん奥の薄暗い一室だった。
書物と巻物が床まで積み上がり、埃の匂いがする。その奥に、小柄な老人が一人座っていた。背を丸め、痩せた手で茶をすすっている。威厳をまとったダルムとは、何もかもが違った。
「ほう」老人はセイルを見るなり目を細めた。「君がサージュ君の言っていた子か」
その目が奇妙だった。ダルムの目が書きつけの数値を読むようだったとすれば、オルセンの目は――セイルの体そのものを透かし見ているようだった。
「面白い」オルセンはひとりごとのように言った。「魔力は確かにほとんどない。器としては空に近い。なのに感受の相だけが、異様に開いている。器が空なのに、窓だけが大きく開け放たれている。……こんな相は見たことがない」
セイルは息を止めた。
この老人は見ただけで言い当てた。自分が魔力を持たぬことも。それでいて何かを「視て」しまうことも。誰にも説明できなかったあの感覚を、目の前の老人はただ一目で読み取っていた。
「分かるのか」セイルは思わず訊いた。「あんたにもおれが感じてるものが」
「分かるとも」オルセンはかすかに笑った。「私も視る者だからね。祖型の相を視る。学問の本流が捨てたやり方さ。――もっとも」
そこで老人の笑みに、影が差した。
「私のは後から学んだものだ。何十年もかけて訓練して、やっと薄ぼんやり視えるようになった。君のは違う。君は生まれつき視えている。何の訓練もなしに。それも私などより、ずっと深く」
オルセンは茶碗を置いた。
「君のような者を観相派では昔から待っていたのだよ」
「観相っていうのは」セイルはおそるおそる訊いた。「学問なのか」
「学問になりきれていない学問さ」オルセンは肩をすくめた。「私たちは祖型の相を視る。だが視たものを、人に伝えられない。私が視た相を、君に同じように視せることができない。言葉にしても数式にしても、こぼれ落ちる。だから公理派は言うのだ――伝えられぬものは学問ではないとね」
ダルムの言葉がセイルの頭をよぎった。証明できぬものは無いに等しい。
「あの人たちが間違ってるのか」
「いいや」オルセンはあっさり首を振った。「半分は正しい。伝えられぬものは、確かに学問として弱い。だから私たちは何十年も日陰にいる。それは甘んじて受けるべき弱さだ」老人の目がふいに鋭くなった。「だが伝えられぬからといって、無いわけではない。君が現に視ている。それが何よりの証だ。無いものを視ることは、できないからね」
セイルは黙って聞いていた。
村では気味悪がられた。中央では落第と裁かれた。だがこの狭い部屋でだけ、自分の感覚は「無いもの」ではなかった。確かに在るものとして扱われていた。それがどれほどのことか。胸の奥が熱くなるのが分かった。
「ただし」オルセンは念を押すように言った。「期待しすぎるな。私にも、君の視ているもののすべては分からん。君が深く視るほど、私の老いた目では追いつけなくなる。私は君を、半分しか理解してやれんだろう」
半分。
またその言葉だった。セレナも同じことを言った。私には半分しか届かないと。
誰も自分を丸ごとは分かってくれない。それは変わらなかった。だが――半分でも分かろうとする者が、ここには二人いる。村には一人もいなかった。
「それで十分だよ」セイルは言った。自分でも思いがけず、はっきりとした声だった。
オルセンはしばらくセイルを見つめた。それから皺だらけの顔を、くしゃりと崩して笑った。
「いい目だ」老人は言った。「では来なさい。落第者で結構。君に、視ることを教えよう。――いや」
言い直してオルセンはまた笑った。
「君が視ているものを私に教えてくれ」




