視えない物差し
落第しても追い出されはしなかった。
中央大魔法院には聴講という制度があった。正規の学籍を持たぬ者でも、席料を払えば講義の末席に座れる。ヴェントが手を回してくれたらしい。ハルダの麻袋の銭が、こんなところで役に立った。
「いいか、これは仮の籍だ」ヴェントは言った。「半年のうちに何か——君にしかできない何かを示せなければ、君は本当にただの落第者になる。それまでの猶予だと思え」
猶予。崖の縁に半年ぶんの足場を置かれたようなものだった。
講義の間はいつもすり鉢の底のようだった。
高い段の上で、教師が術式を書いていく。下の段に学徒たちがびっしりと座って、筆を走らせる。セイルはいちばん後ろの隅にいた。書かれていることの半分も分からなかった。
その日の講義は魔法の等級のおさらいから始まった。
「諸君はもうとうに覚えていることと思うが」教師は黒い板に四つの段を書いた。「念のため確かめておこう。魔法には四つの等級がある。下から、下級、上級、精霊級、竜級だ」
教師は段の一番下を指した。
「下級。微量の魔力で足りる。灯りをともす、火種を起こす――初等の教本に載っている、誰でも使える術だ」
セイルは思わず手元の自分の手を見た。その下級すら、自分は使えなかった。評価の間で、石ひとつ灯せなかった。学徒たちが「誰でも使える」と聞き流すその一段目で、自分はもうつまずいている。
「その上が上級。専門の修練を要する。さらに上が精霊級だ」教師の声がわずかに重くなった。「精霊級ともなれば、大量の魔力を要し、術が及ぶ範囲は術者一人の身を超えて、周りの環境にまで影響する。強大な精霊の力に比肩するという意味で、こう呼ぶ。ここまで来られる者は一握りだ」
そして教師は一番上の段に指を置いた。
「竜級。――これは別格だ」一拍間があった。「魔力ではもう足りん。術者の寿命を、ときに命そのものを代償として焚べる。祖型に最も深く呑まれた竜になぞらえての名だ。学問はいまだ、この領域に追いついていない。諸君が触れることは、生涯まず無いと思っていい」
等級が上がるほど力は増す。だが支払うものも重くなる。下級の微々たる魔力から、竜級の命そのものまで。セイルにはその階段が、奈落へ向かって下りていくようにも、天へ昇っていくようにも見えた。
ひととおり説き終えると教師が一人の学徒を指した。
「では実演を。――ゼーゲル。前で精霊級の障壁を組んでみせなさい」
立ち上がったのは、背の高い整った顔立ちの青年だった。段を下り、教壇に立つ。それから淀みなく術式を組み上げていった。
空気が震えた。
青年の前に、淡く輝く障壁が立ち上がる。寸分の歪みもない完璧な造形。広間がどよめいた。セイルは思わず身を乗り出した。すごいと素直に思った。あれが学問の魔法。あれが、自分には決して届かない領域。
肌のざわつきが、青年の周りに渦巻く魔力をはっきりと捉えていた。膨大な量の魔力が、寸分の無駄もなく組み上げられている。
だが——奇妙だった。
これだけの魔力を操りながら、青年自身はその「流れ」を少しも感じていないように見えた。ただ手順を完璧に、機械のように実行している。村で崖崩れを肌で察したときの、あの土地のざわめき。あれをこの青年は感じていない。感じずに、これだけのものを組み上げている。
講義のあとその青年がセイルの前を通りかかった。
「ああ、君か」アルヴォ・ゼーゲルは足を止めもせずに言った。「魔力も流せず落第した辺境の。聴講で残ったらしいな」その目に悪意はなかった。ただ道端の石を見るような、関心のなさがあった。「無駄だと思うがね。物差しに乗らないものは、ここでは何でもない」
それだけ言って、アルヴォは行ってしまった。
ロデリクの嫌味とは違った。ロデリクは見下していた。アルヴォは——そもそもセイルを、敵とすら見ていなかった。それがかえってこたえた。
「あんなの気にすんなって」
いつのまにか隣にトビーがいた。聴講の席で知り合って以来、なぜかこの男はよくセイルの近くにいる。
「ゼーゲルは別格なんだ。同期の頂点。あいつにかかりゃ、おれたちみんな似たようなもんさ」トビーは肩をすくめた。「でもまあ、人を石ころ扱いするのはいただけないよな」
そのときだった。
「ねえあなた」
声をかけてきたのは、一人の少女だった。きちんとした身なりの、中央の家の娘らしい。だがその目には、ロデリクのような侮りも、アルヴォのような無関心もなかった。
ただ強い好奇心が、まっすぐにセイルへ向けられていた。
「さっきの講義のとき」少女は手にした書きつけを開いた。「あなた、ゼーゲルの障壁を見て途中で身を乗り出したでしょう。みんながどよめくほんの少し前に。――何を見たの?」
セイルは戸惑った。
「……何って」
「あなたは術式が完成する前に反応した」少女の筆がせわしなく動いた。「形が見える前に。つまりあなたは、形でないものを捉えている。魔力の流れそのものを。違う?」
セイルは息を呑んだ。
誰もそんなことを言わなかった。村では気味悪がられ、中央では落第と裁かれた。なのにこの少女は、自分が当たり前に感じているものを言葉で半分言い当てている。
「あんた……」セイルはかすれた声で訊いた。「感じるのか。おれと同じように」
「いいえ」少女はあっさり首を振った。「私には何も感じない。魔力も人並み。視えるものなんて何もない」筆を止めて、少女はまっすぐにセイルを見た。「だから知りたいの。あなたが感じているものを。私が視えないものを、あなたは視ている。それはまだ誰も記述していない現象でしょう。物差しがないなら――物差しのほうを作ればいい」
セイルは言葉を失った。
ダルムは言った。測れぬものは無いに等しいと。
この少女は逆のことを言っていた。測れないなら測る道具を作ると。
「セレナ・クロウ」少女は名乗った。それから少しだけ、ためらうように付け加えた。「あなたのことを、もう少し観察させてくれない? 迷惑かもしれないけど。私、こういうの放っておけないたちで」
セイルはすぐには答えられなかった。
半分。この少女には半分だけ届いている。残りの半分は、きっと永遠に届かない。それでも――今まで誰も半分すら届かなかった。
「……好きにしろよ」やっとそれだけ言った。
セレナの顔に、初めて笑みらしきものが浮かんだ。研究対象を見つけた者の、無邪気な笑みだった。




