定理の方舟
峠を越えたのは十日目の昼だった。
最後の登りはこれまでで一番きつかった。セイルは何度も足を止め、膝に手をついて息を整えた。ヴェントは黙って待ってくれた。そしてようやく峠の頂に立ったとき――
眼下にそれがあった。
盆地だった。山に囲まれた広い窪地のなかに、白い都市が川のほとりに広がっている。村ではない。町ですらない。セイルが村で聞かされていた「町」という言葉では、まるで足りなかった。石造りの建物が、見渡すかぎりびっしりと折り重なっている。その中心に、ひときわ高い塔の群れが空へ向かって何本も突き立っていた。
「テオレマだ」ヴェントが横に並んで言った。「中央。共和国の首府。――学問の総本山だよ」
セイルは何も言えなかった。
ただ肌が悲鳴を上げていた。
濃いなどというものではなかった。
道中ずっと、土地は少しずつ濃くなってきた。漂気虫の藪を境に、肌のざわつきは増す一方だった。だが峠を越えた瞬間、それが桁を変えた。皮膚の下のあのざわめきが、薄く撫でるどころではなく全身を押し包んでいる。空気そのものが重く密に満ちている。息を吸うたび、何か見えないものまで一緒に肺へ入ってくるような――そんな心地さえした。
「ヴェント」セイルは思わず胸を押さえた。「ここ……すごく濃い」
「ああ」ヴェントはいくらか得意げにうなずいた。「中央魔導盆地。大陸でいちばん魔力の濃い土地だ。いくつもの霊脈がここで交わって、淀んでいる。だからこそここに学問が栄えた。――君の感じている『坂道』の、いちばん下だよ」
いちばん下。
セイルは自分が長い坂を転がり落ちてきたような気がした。村は坂のいちばん上。世界のいちばん薄い縁。そこから自分は、世界の底へ向かってずっと下ってきたのだ。
「大丈夫か」ヴェントがふいに顔を覗き込んだ。「顔色が悪い」
「平気」セイルは答えた。本当は目の奥が、じんと痺れていた。視ようとしなくても、勝手に何かが流れ込んでくる。閉じても止まらない。
「君のような体質の者は、最初はたいてい酔うらしい」ヴェントは意外なほど穏やかに言った。「中央の魔力に体が慣れていないんだ。聞いた話では、数日で落ち着くという。――もっとも私には『酔う』ということ自体がないからね。どれほど辛いものなのか、本当のところは測ってやれない」
ヴェントは平然と立っていた。この肌を押し潰すような濃さのなかで。
この人には何も感じられていないのだ。セイルは改めて思い知った。世界がこんなに満ちているのに、それを感じ取れる器官をこの人は持っていない。村では自分がひとりおかしかった。ここでは――感じている自分のほうが、またひとりきりなのかもしれなかった。
坂を下り城門に着いた。
門のかたわらに槍を立てかけた門番が一人、退屈そうに立っていた。ヴェントが何か短く告げると、門番はちらとセイルのほうを見やった。辺境の身なりを値踏みするような目だったが、それも一瞬で、すぐにあくびまじりに顎をしゃくって通れと示した。
「学院の口利きかい」門番は誰にともなく呟いた。「このごろ多いね、地方から来るのが」
それきり門番はもう二人を見ていなかった。次の旅人へ目を移している。村ならよそ者が一人来れば、一日中噂になった。ここでは辺境から出てきた人間など、門番の一度のあくびにも値しないのだ。
門をくぐると都市はさらに桁外れだった。
石畳の大路を、人が川のように流れていた。村の全員を集めても、この一筋の通りを行き交う人数に及ばない。皆見たこともない仕立ての服をまとい、足早にどこかへ向かっている。誰もセイルになど目もくれなかった。村ではすれ違う者が、皆自分を遠巻きにした。ここでは――そもそも見られてすらいない。それが奇妙に楽でもあり、寄る辺なくもあった。
建物の壁に、淡い光の球がいくつも灯っていた。火ではない。煤も出ず、揺らぎもしない白い光。
「魔法照明だ」セイルの視線に気づいてヴェントが言った。「魔晶石を動力にしている。村では見なかったろう」
セイルはただうなずいた。村では夜は本当の闇だった。ここでは日が傾いてもなお、街路が明るい。灯る石を人が手なずけて、暮らしの隅々にまで埋め込んでいる。あの夜自分が石の奥に視たものが、ここでは当たり前の道具として壁に並んでいた。
そしてすべての通りが向かう先は同じだった。
都市の中心。そびえ立つ白い塔の群れ。近づくにつれ、それは山のように大きくなった。幾重もの尖塔と巨大な扉。窓という窓から、あの白い光が漏れている。
「中央大魔法院」ヴェントは足を止め、それを見上げた。「大陸中の学徒がここを目指す。魔法を学ぶ者にとっての頂だ」その声に誇りが滲んでいた。「ここでは生まれは関係ない。論文と試験。それだけで人の格が決まる。――辺境の村の子でも、業績さえあれば登っていける」
セイルは塔を見上げた。
その壮麗さに、確かに胸が高鳴った。村では感じる自分は、ただの厄介者だった。だがここなら――この世界でいちばん魔力に満ちた場所でなら、自分のこの感覚が何かになるのかもしれない。
だが同時に、足元から別の感覚が薄く這い上がってもいた。
塔の地表はまばゆいほど明るい。なのにその真下――石畳のさらに下のほう。深いところで、何か冷たく淀んだものがわだかまっている気がした。光が強いほど、その影は濃い。
肌のざわつきがわずかにそこへ向いた。
「どうした」ヴェントが訊いた。
「……いや」セイルは首を振った。視ようとしてやめた。今は何も視たくなかった。「なんでもない」
うまく言えなかった。けれど――この光に満ちた都の足元には、何か視てはいけないものが眠っている。そんな気が確かにした。
ヴェントが扉のほうへ歩き出す。セイルはひとつ息を吸い込んだ。濃い重い世界の底の空気を。そしてその背を追った。
長い坂を下りきった。ここが終わりではない。きっと始まりだった。




