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視竜 〜最弱の眼、最強を射抜く〜  作者: Studio Yodaca
霧のひく辺境で

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15/16

濃くなる空気

灰櫟村(はいれきむら)を出て三日が過ぎた。


 道はひたすら続いていた。辺境の村から中央へ向かう道は、徒歩で行けば数十日かかるという。セイルは村から半日以上離れたことが、これまで一度もなかった。歩くたびに、見たことのない景色が現れては後ろへ流れていく。それだけで十分すぎた。


 ときおり反対から、隊商の列とすれ違った。荷を積んだ駄獣を連ね、革を陽に焼いた男たちが辺境のほうへ下っていく。その先頭を行く、ひときわ恰幅のいい隊商頭がヴェントに片手を上げた。顔見知りらしい。ヴェントも軽く応える。


「中央へ上りかい、先生」隊商頭はすれ違いざまに大声で言った。「この時季の峠は冷えるぜ。坊主を連れてるなら、なおさらだ」


 それきり隊商は土埃を立てて遠ざかっていった。セイルは荷の山を、珍しく目で追った。あの男たちは、この長い道を商いのために何度も行き来しているのだ。村しか知らなかった自分には、それだけで途方もないことに思えた。


 ヴェントは慣れた足どりで先を行く。この道を何度も往復しているらしかった。


「疲れたか」


「いや」セイルは首を振った。本当は足が棒のようだった。だが音を上げたくはなかった。


「無理はするな。倒れられると、こちらが困る」ヴェントは振り返らずに言った。「中央まではまだ遠い。峠を一つ越えて、それから――」


 峠。その言葉に、セイルは顔を上げた。村の年寄りがたまに口にしていた。中央へ出るには大きな峠を越えねばならぬと。越えた者はもう村へは戻らないとも。


 異変に気づいたのはその日の昼過ぎだった。


 歩いているうちに肌の感じが少しずつ変わってきていた。


 はじめは気のせいだと思った。だが違う。空気が――いや、空気ではない。土地そのものが、村にいた頃とは違う「濃さ」を帯びている。皮膚の下のあのざわつきが、村にいた頃よりわずかに、けれど確かに強い。常に薄く肌を撫でている。


「ヴェント」セイルはたまらず声をかけた。「この辺りは……なんだか濃い」


 ヴェントの足が止まった。


「濃い?」


「うまく言えない。土地が……魔力が村より濃い気がする。歩くほど強くなってる」


 ヴェントはしばらくセイルを見つめた。その目に、あの夜と同じ熱がちらりと走る。


「……正しいよ」やがてヴェントは言った。少し間を置いてから。「辺境は大陸でいちばん魔力の薄い土地だ。中央に近づくほど、濃くなる。魔力の坂道のようなものでね。地図には描かれないが」


「勾配」


「そう。君は今それを、歩きながら肌で感じ取っているんだな」ヴェントはふと足を止めた。「だが――私にはそれが分からない。歩いても、土地が濃くなったとは感じない。器具で測れば、数値は出る。だが肌で感じることはできない」


 セイルはヴェントの背を見た。


 この人は学者だ。魔法を誰よりもよく知っている。なのに自分が当たり前に感じているこの「濃さ」を、感じられないという。


 村では感じる自分のほうがおかしかった。ここでは――どちらがおかしいという話でもないのかもしれない。ただ違うだけだ。


 その違いが思わぬ形で役に立ったのは夕暮れどきだった。


 街道の脇に小さな茂みがあった。何の変哲もない枯れかけた藪。だがそこを通りかかったとき、セイルの肌のざわつきがふいに尖った。村で崖崩れの前に感じたのと、同じ感覚。近づくなと、体が言っている。


「ヴェント、待って」セイルはヴェントの袖をつかんだ。「その藪、まずい」


「藪?」ヴェントは足を止め、訝しげに茂みを見た。「ただの枯れ藪だが」


「分からない。けど何かいる。嫌な感じがする」


 ヴェントはすぐには動かなかった。だがセイルの顔を一目見ると、腰の杖に手をかけ、慎重に茂みへ術式の光を向けた。


 光が藪を照らした瞬間、中から黒い小さなものが一斉に飛び立った。羽虫の群れのようだが、もっと大きい。ぶうんと低い羽音を立てて、夕闇へ散っていく。


「……漂気虫(ひょうきちゅう)の群れだ」ヴェントが息を吐いた。「魔力の淀みに湧く。群れに巻かれれば、魔力を吸われて昏倒する。うかつに踏み込んでいたら、厄介なことになっていた」


 セイルは自分の手のひらを見た。震えてはいない。ただ肌のざわつきが、まだわずかに残っていた。


「君は」ヴェントが静かに言った。「測る前に、視たんだな」


 その声に咎める響きはなかった。ただ信じられないものを見るような――そしてどこか羨むような響きが、確かにあった。


 セイルは何も言えなかった。


 村ではただ気味悪がられただけのこの感覚が、ここでは――誰かの役に立った。


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