最初の宿場
村を出て最初の夜は街道沿いの小さな宿場で明かした。
セイルにとってそれは生まれて初めての村の外の夜だった。
村から半日以上離れたことが、これまで一度もなかった。それが今、一日かけて見たこともない景色の中を歩き、見知らぬ宿場の土間に座っている。足は棒のようだった。だがそれ以上に、心が落ち着かなかった。
帰る場所がもうない。その実感が、じわじわと胸に迫っていた。
宿場は村よりずっと賑やかだった。
街道を行き来する旅人や隊商の者たちが、火を囲んで酒を飲み、飯を食っている。各地の言葉が飛び交う。村では聞いたこともない訛りや地名。世界が村の外にこんなにも広がっていることを、セイルは初めて肌で知った。
ヴェントは宿の主人と慣れた様子で話していた。この道を何度も往復しているらしかった。セイルを振り返って言う。
「疲れたろう」ヴェントは言った。「今夜はここで休む。明日からはもっと長い。峠もある。体を慣らしておけ」
セイルは頷いた。だが疲れよりも別のものに気を取られていた。
肌のざわつきだった。
この宿場は――村より土地が濃かった。
うまく言えなかった。だが肌の奥のあの感覚が、村にいた頃よりわずかに強く騒いでいた。土地そのものが、何か濃い「気配」を帯びている。村ではこんなことはなかった。村はいつも静かだった。肌が騒ぐのは、あの石の前だけだった。
なのにここでは、ただ座っているだけで肌が薄く騒いでいた。
閉じようとして、できなかった。流れ込んでくる気配を止める術を、セイルは知らなかった。ただ押し流されるしかない。目を閉じても止まらない。それが村にいた頃から、ずっと苦しかった。
ここではそれが村より強かった。世界が濃くなると、自分のこの感覚も強くなる。そういうことらしかった。
「どうした」
ヴェントがセイルの強張った顔に気づいて訊いた。
「いや」セイルは言った。「この宿場、なんだか――村より濃い気がして。肌が騒ぐ」
ヴェントの目がわずかに鋭くなった。あの石が光った夜と同じ熱が、ちらと走る。
「濃いか」ヴェントは低く言った。「面白い。君はもうそれを感じ取っているのか。――この道は辺境から中央へ上っていく。土地の魔力は、進むほど濃くなる。坂道のようにな。君はその坂を、肌で登っているんだ」
「坂」
「そうだ」ヴェントは頷いた。「私にはそれが分からん。器具で測れば、数値は出る。だが肌で感じることはできない。――君は私には分からないものを、感じている」
セイルはヴェントの顔を見た。
この人は学者だ。魔法を誰よりもよく知っている。なのに自分が当たり前に感じているこの「濃さ」を、感じられないという。
奇妙だった。村では感じる自分がおかしかった。ここでは――どちらがおかしいのか分からなかった。ただ違うというだけだった。
その夜、セイルは宿の片隅でなかなか寝つけなかった。
肌のざわつきが収まらなかった。土地の濃い気配が、絶え間なく流れ込んでくる。それを止められない。村にいた頃の、何倍も強く。
これが中央へ近づくということなのかと、セイルは思った。世界が濃くなる。自分の感覚も強くなる。村ではただ気味悪がられただけのこの感覚が――中央でなら、何かになるのだろうか。それとももっと強く、自分を苦しめるだけなのだろうか。
分からなかった。
ただもう後戻りはできなかった。村には居場所がない。だから進むしかなかった。この濃くなっていく坂を。肌を絶え間なく騒がせる、未知の世界の奥へ。
ふと村のハルダの顔が浮かんだ。ティナの顔も。おまえはおまえだと。変なあんたがあんただと。
二人の言葉だけを胸の底に抱えて、セイルは目を閉じた。
眠りはなかなか訪れなかった。だが明日も歩かねばならなかった。濃くなる空気の中を。まだ見ぬ中央へ。




