発つ朝
翌朝、セイルは夜明け前に目を覚ました。
いつもどおり、霜の匂いがした。土間の冷えも、変わらない。なのに、今日でこの朝が最後になるのだと思うと、見慣れた天井の染みひとつまで妙に目に焼きついた。
決めたのは、昨夜の途中だった。ハルダの語る祖喰いの話を聞きながら、いつのまにか心は決まっていた。
村に居場所はない。それは確かだ。だが、それだけではなかった。あの石が光った夜から、ずっと胸の奥でくすぶっているものがある。自分は何なのか。あの光の奥にあったものは、何だったのか。村にいては、一生それを知らないまま終わる。
知りたい、と思ってしまった。怖いくせに。
竈に火を入れ、湯を沸かす。最後の朝の支度を、いつもどおりにこなした。
「行くんだね」
背後で、ハルダの声がした。問いではなかった。
「うん」セイルは振り返らずに答えた。「あの人と中央へ行く」
しばらく、返事はなかった。やがて、ハルダがゆっくりと土間へ降りてくる気配がした。
「持っておいき」
差し出されたのは、布の包みだった。受け取ると、ずしりと重い。乾し肉と、堅焼きのパンと、それから――小さな、麻袋。
「銭だよ。たいした額じゃないが、道中の足しに」
セイルは麻袋を握りしめた。この貧しい家の、どこにこんなものを蓄えていたのか。聞くまでもなかった。何年も、少しずつ。いつか孫が村を出る日のために、ためていたのだ。きっと、ずっと前から。
「ばあちゃん、おれ……」
「礼はいいよ」ハルダはセイルの言葉をさえぎった。「そのかわり、一つだけ約束しな」
しわの刻まれた手が、セイルの手を取った。骨ばって、冷たい手だった。だが、その力は思いがけず強かった。
「向こうで何を知っても、何になっても――おまえはおまえだよ。それだけは、忘れるんじゃないよ」
セイルは言葉に詰まった。
ティナと、同じことを言う。変なあんたが、あんた。おまえはおまえ。
「……忘れないよ」やっと、それだけ言えた。
ハルダは小さく頷いた。それ以上は、何も言わなかった。涙も見せなかった。ただ、取った手を、確かめるように一度だけ握り直してから、ゆっくりと離した。
家を出て、セイルはまず村の宿へ向かった。
ヴェントは、宿の前で発つ支度を整えていた。セイルの姿を認めると、その手が止まる。何も問わずに、ただ続きを待つ目だった。
「……行くよ」セイルは言った。「あんたと、中央へ」
ヴェントは、すぐには返事をしなかった。視線が、一瞬だけ遠くへ向く。それから、小さく息を吐いて、頷いた。
「分かった」とだけ、ヴェントは言った。「支度はいいか」
「持つものなんて、ない」
「そうか」ヴェントは、かすかに笑った。「なら、行こう。……急ぐ旅じゃない。先に済ませることがあるなら、待つ」
セイルは、頷いた。
村のはずれで、ティナが待っていた。
籠も背負わず、ただ朝の風の中に立っている。セイルが今朝、村を出ること――それを、もう知っているらしかった。
「ほんとに行くんだ」ティナは唇をとがらせた。「ひどいよ。黙って消えるつもりだったの?」
「……なんで、知ってるんだ」
「ハルダばあちゃんだよ」ティナは、村のほうを顎でしゃくった。「昨日の夜、わざわざうちに来てさ。あの子は明日、村を出るかもしれない。もし出ていくなら、ちゃんと見送ってやっとくれ――って」
セイルは、言葉を失った。
昨夜。ヴェントが訪ねてきた、あの夜。自分がまだ何も決めかねていたあのときに、ハルダはもう、孫が行くと悟っていたのだ。そして、夜のうちに、ティナのところまで足を運んでいた。あの足で、この寒さの中を。
「冗談だよ、ひどいってのは」ティナは笑った。いつもの、からからとした笑い。だが、その笑い声だけが少し上ずっていた。「あんたが村にいたって、もう、ろくなことにならないもんね。みんな、あんたのこと、こわがってるし」
その言葉に、棘はなかった。ただ、本当のことを言っているだけだった。ティナは、嘘をつけない。だから、慰めも言わない。それが、かえって救いだった。
「ティナ」セイルは言った。「ばあちゃんを、頼む。おれがいなくなったら、あの人、一人だ」
「言われなくたって」ティナは胸を張った。「ハルダばあちゃんのことは、村のみんなで見るよ。あんたが心配することじゃない」
みんなで見る。村のみんなで。
その「みんな」の中に、もう自分は入っていない。セイルは何も言わなかった。
「……じゃあ、行くね」ティナが言った。それから、ふと真顔になって、付け加えた。「あのさ。もし、向こうで――どうしても駄目になったら。帰ってきても、いいんだからね。あたしは、こわがったりしないから」
セイルは、しばらくティナの顔を見た。それから、静かに目を逸らした。
「ありがとう」
それだけ言って、セイルは背を向けた。
長く話せば、決心が鈍る。だから、歩いた。
村の出口で、ヴェントが待っていた。ティナとの別れに、口を挟むつもりはなかったらしい。セイルが追いつくと、彼は黙って歩き出した。余計なことは何も言わない。セイルも、黙って並んだ。
斜面を下りきったところで、セイルは一度だけ、振り返った。
朝靄の中に、灰櫟村が沈んでいる。風に乗って、霜の匂いがした。今朝、目を覚ましたときに嗅いだのと、同じ匂いだった。小さくて、貧しくて、自分を「視る石みたいな子」と呼んだ村。
それでも、自分の村だった。
村はずれの斜面のてっぺんに、あの石が立っているのが、かすかに見えた。今はもう、何も光ってはいない。ただの、黒ずんだ石柱に戻っている。
セイルは、石に背を向けた。そして、二度と振り返らずに、中央への道を歩き始めた。




