祖喰いの話
その夜、セイルはなかなか寝つけなかった。
ヴェントの言葉が、頭の中を巡っている。素質。中央。魔法院。どれも自分の人生には縁のなかった言葉だ。なのに、それが今、扉の向こうで自分を待っている。
寝床で天井を見上げていると、隣からハルダの声がした。
「眠れないのかい」
「……ばあちゃんも、起きてたのか」
「年寄りは、眠りが浅くてね」
しばらく、沈黙があった。囲炉裏の燠が、かすかに赤い。やがてハルダが低い声で言った。
「祖喰いの話を、してやろうか」
セイルは、暗がりの中で目をしばたたいた。祖喰い。子供の頃、何度も聞かされた、古い物語の名だ。
「子守唄がわりにかい」セイルは小さく笑った。「もう、子供じゃないよ」
「子供じゃないから、してやるのさ」
ハルダの声には、いつもと違う調子があった。セイルは黙って続きを待った。
「むかしむかし――」と、ハルダは語り出した。まるで、何百回も繰り返してきた節をなぞるように。「世がまだ、神秘の時代と呼ばれていた頃。空には、竜がいた」
竜。物語の中だけの、巨大な災いの獣。
「竜ってのは、はじめから竜だったわけじゃない。もとは、ただの生き物だったとも、人だったとも言う。それが、世の根っこにある“もとの形”――祖型ってやつに、近づきすぎた。近づいて、近づいて、とうとう呑まれちまった。呑まれて、人でも獣でもない、竜になった」
セイルは、知らず寝床の上で半身を起こしていた。祖型。ハルダのまじないの言葉にも出てくる言葉だ。
「その竜を討った英雄がいた。名を、ヴァルダ。人は、祖喰いと呼んだ」
「祖喰い」セイルはその名を口の中で転がした。「変な名だ」
「変だろう」ハルダはかすかに笑ったようだった。「祖を喰らう、と書く。竜が祖型に呑まれるなら、ヴァルダは逆だった。祖型のほうを、喰らった。喰らって、自分の力にした。だから、竜と互角に戦えた。神授の剣を手に、竜の喉笛を断ったと言う」
神授の剣。神から授かった、名のある武器。物語には、いつもそういうものが出てくる。
「だがね」と、ハルダの声が、ふと低くなった。「祖喰いの話には、続きがある。あんまり、語られない続きがね」
セイルは寝床の中で身じろぎした。
「竜を討つには、竜のそばまで降りていかなきゃならない。祖型の、すぐそこまで。近づきすぎれば、もう戻れない。……つまりね、セイル。竜を討てる英雄ってのは、自分も竜になりかけてたんじゃないか――そう語り継がれてきたのさ。英雄と竜は、紙一枚の裏表だとね」
暗がりの中で、セイルは息をひそめた。ただの古い物語だ。そうは分かっているのに、指先が、いつのまにか毛布を握っていた。
「で、ヴァルダはどうなったんだい?」
「さあねえ」
ハルダの答えは、あっけなかった。
「そこから先は、語る者によって違う。竜を討って、英雄のまま静かに死んだ、と言う者もいる。竜を討った代償に、自分も竜になって、どこかへ消えた、と言う者もいる。……どれが本当かなんて、誰も知らない。何しろ、神秘の時代の話だ。今となっちゃ、どこまでが本当で、どこからが作り話か、見分けもつかないよ」
見分けもつかない。
その言葉だけが、なぜか、セイルの胸に残った。
「なんで」セイルは暗がりに問うた。「今、その話を?」
ハルダは、すぐには答えなかった。燠の赤が、ひとつ、小さく爆ぜた。
「……さあ、なんでだろうね」やがて、ハルダは言った。とぼけるような声だった。「ただ、おまえが遠くへ行くなら。一つくらい、この村の古い話を、覚えていってほしかっただけさ」
遠くへ行くなら。
ハルダは、もう察している。セイルが、行くことを。口にはせずとも、決めていることを。
セイルは、何も言えなかった。
「もうお休み」ハルダは、寝返りを打った。背を向けて。「明日のことは、明日決めればいい」
囲炉裏の燠が、ゆっくりと灰に沈んでいく。
セイルは暗い天井を見上げたまま、長いこと眠れずにいた。祖喰い。竜。紙一枚の裏表。言葉は暗がりに溶けていったのに、なぜか、眠りはやってこなかった。
まるで、ずっと昔から知っていた話を、もう一度聞かされたように。




