ハルダの灯
石が黒い石柱に戻っていく。
その光が薄れていくのを背に。セイルは斜面を下り始めた。半身を底に置いたまま。重い足取りで。
村はまだ静まりかえっていた。夜明けの薄明かりの中で。家々の戸は固く閉ざされていた。誰も出てこなかった。何が起きたのか、誰も知らぬまま。
だが――一つだけ。
灯りがともっていた。
自分の家の竈の灯りだった。
まだ夜も明けきらぬのに。土間の竈に小さな火が入っていた。そのほのかな橙の光が、戸の隙間から漏れていた。
セイルはその灯りを見て足を止めた。
ハルダだと分かった。
昨夜眠れぬまま見たあの背。竈の前にしゃがんで、低い言葉を唱えていたあの姿。あれからずっと――ハルダは祈り続けていたのだ。一晩中。石が臨界へ向かうその間ずっと。
セイルはそっと戸口に近づいた。
中を視た。
ハルダがいた。竈の前に。痩せた背を丸めて。まだ唱えていた。古いまじないの言葉を。だがその声は、もうほとんど声になっていなかった。掠れた、息の漏れるような。それでも唇は動き続けていた。
石が眠るようにと。村に災いが来ぬようにと。
セイルはハルダの命の流れを視た。
細っていた。ひどく。一晩祈り続けたその力が。残り少ない命を絞って、絞って。まじないに変えていた。中身も知らぬただの音の連なりに。役に立たぬと知りながら。
届かないとセイルは思った。
ハルダの祈りは。石には届かなかった。神には届かなかった。石を鎮めたのは、まじないではなかった。自分が底に半身を降ろしたからだった。ハルダの祈りは――何の力にもならなかった。
なのに。ハルダは祈った。一晩中。命を絞って。
なぜとセイルは思いかけて――そして分かった。
ハルダは知っていたのだ。自分の祈りが届かぬことを。神がこの辺境の村を見てなどいないことを。まじないに石を鎮める力などないことを。ばあさまのそのまたばあさまから継いできたそれが、ただの音の連なりに過ぎぬことを。
知っていてなお。祈った。
それは――諦めないということだった。
神が助けないなら。力ある者が来ないなら。せめて自分のできることを。たとえそれが何の力にもならなくても。痩せた体でできるただ一つのことを。祈ることを。灯をともすことを。
力なき者の抵抗だった。
神にすがるのではなかった。神がいないと知りながら。それでも人としてできることをする。座して待つのではなく。竈に火を入れ。唇を動かし。残った命の最後の一滴まで。村のために。
セイルは悟った。
自分が石の前でしたことと。ハルダが竈の前でしていることは。同じだった。神は助けない。だから人が打つ。力ある自分が底に半身を降ろしたように。力なきハルダは竈の前で、祈りを絞った。形は違っても。根は同じものだった。
セイルは戸口で立ち尽くした。
声をかけようとした。だが――かけられなかった。ハルダのその祈りを。最後の灯を。途切れさせたくなかった。
ハルダのまじないの声が。底の甘さの中まで届いて、自分を引き戻した。あの声だった。錨を地上に繋ぎ止めたあの声。ハルダは知らずに――自分の孫を底から引き戻していた。役に立たぬと思っていたその祈りで。
届いていた、とセイルは思った。ハルダの祈りは。石には届かなくても。神には届かなくても。自分には――届いていた。底のいちばん深いところまで。
力にはならなかった。だが灯にはなった。底の闇の中で迷う者を地上へ呼び戻す灯に。
ハルダの唇が。ゆっくりと動きを止めた。
祈りを唱え終えたのか。それとも――力が尽きたのか。痩せた背がわずかに傾いだ。竈の橙の火が、その丸い背を照らしていた。
セイルははっとして。戸を開けようとした。
ばあちゃんと。
その灯のような祈りをともし続けた人が。今その火を燃やし尽くそうとしていることを。セイルは視ていた。細る命の流れが。ほとんど消えかけているのを。
戸に手をかけた。土間のハルダのもとへ。駆け寄ろうとした。
石は眠った。村は救われた。だが――その代償をもう一つ。この土間の灯が、静かに払おうとしていた。神は助けなかった。人が打った。そして打った者の一人が。今その役目を終えようとしていた。




