錨になる
堰が静まったその瞬間。
セイルは二つになった。
一つは地上にいた。斜面の石の前で膝をついて。霜の匂いのする辺境の朝の中に。もう一つは――底にいた。世界のいちばん深い底の際に。錨のように降ろされたまま。底のものの引きを受け止め続けて。
その二つが。同じ一人の自分だった。
錨になるというのは。
降ろして終わりではなかった。
底のものは眠りに戻った。だが――完全に消えたわけではなかった。眠ったまま、まだわずかに引いていた。石へではなく。今は自分へ。その引きを受け止め続ける限り、石は灯らない。底のものは目覚めない。
だがそれは。受け止めるのをやめれば。また引きは石へ戻るということでもあった。
だから――降ろし続ける。錨を。これからずっと。底の引きを自分の半身で受けて、逃がして。眠りを繋ぎ止めて。
一度きりの行為ではなかった。終わらない代償だった。
セイルは底に置いた半身を視た。
そこにはもう、底の冷たさが染み込んでいた。世界の底の途方もない古さと暗さが。視る者であった自分の半分が。視られるものの側へ半分傾いだまま。固着していた。
オルセンが言っていた。喰らう者が喰らわれる側へ転じる。英雄と竜種は紙一重。その一線を。自分は踏んだ。半分だけ。落ちきりはしなかった。だが――もう踏む前の自分でもなかった。
半身が底に。半身が地上に。その引き裂かれた状態が。これからの自分の常態だった。
怖くなかったと言えば嘘だった。
底の冷たさが半身を侵していた。このままいつか。残りの半身も底に引かれていくのではないか。錨を降ろし続けるうちに。少しずつ、少しずつ。底のものに近づいて。いつか――落ちきってしまうのではないか。
ヴェルグリントのように。観相派の堕ちた者のように。喰らう者から喰らわれる者へ。
その恐怖は消えなかった。むしろこれから一生付き合うものになった。
だが――セイルはそれでも錨を降ろし続けた。
なぜならここで引き上げれば。底のものはまた石を引く。村が終わる。ハルダが。ティナが。あの何でもない夜の営みが。だから降ろし続けるしかなかった。怖くても。半身を底に抱えたまま。
地上の半身が薄れゆく意識で村を視た。
ハルダの痩せた背。ティナのまっすぐな目。ロウが、ゴルド爺が。怯えながら、それでも逃げずに斜面を見上げている者たち。
この人たちがいた。だから錨になれた。
もし底の引きだけが世界のすべてだったら。とうに落ちていた。底の甘さに負けて。だが地上に繋ぎ止めるものがあった。守りたい何かが。だから半身は底に置いても。もう半身はこちらに留まれた。
錨は――底へ降りていくものではなかった。底へ降ろしながら、なお船を地上に繋ぎ止めるものだった。底へ落ちきってしまえば、それはただの沈んだ石だった。錨ではない。地上に繋ぐものがあって初めて。錨は錨だった。
セイルを繋ぎ止めていたのは。村だった。ハルダのまじないの声。ティナの言葉。あの夜の煮炊きの匂い。
膝をついたまま。
セイルは自分の両手を視た。
地上の半身の手。まだここにあった。霜の冷たさを感じる人の手。だがその奥に。底の冷たさも流れていた。もう混じり合っていた。人のものと底のものが。分かちがたく。
喰らう者と喰らわるる者相分かちがたし。
ヴェスパ翁の見せたあの古い断片の言葉が。今、自分の手の中にあった。ヴァルダもこうだったのだろうか。祖型を喰らった英雄も。半身を底に置いて。地上に踏みとどまろうとしながら。
分からなかった。だが――もう自分は。ヴァルダの伝説を遠い他人事として聞く者ではなかった。同じ淵の縁に。半身を浸した一人になっていた。
それでもとセイルは思った。
落ちきりはしない。
半身が底にあっても。もう半身はここにある。ハルダのいるここに。ティナのいるここに。守ったこの村の朝の中に。
そのもう半身がある限り。自分はまだ視る側にいられる。錨でありながら。船でいられる。底に触れながら、底にならずに。
その危うい均衡を。これから一生保ち続ける。それが――差し出したものの正体だった。命でも魔力でもなく。安らかにただのセイルでいられる、その権利を。永遠に。
高い代償だった。だが村は救われた。なら安いとは言えずとも。引き受けるに足る代償だった。
斜面の石の青い光が。ゆっくりと薄れていった。
黒いただの石柱へと。戻っていく。脈動が止んでいく。底の引きはもう石へは向かわなかった。すべて自分が受けていた。
セイルは膝をついたまま。動けずにいた。半身を底に。半身を地上に。引き裂かれたまま。だが――倒れはしなかった。
錨は降りた。船は繋がれた。村は救われた。
そして自分はもうただのセイルではなかった。




