誰も知らない夜明け
夜が明けた。
斜面の石は黒い石柱に戻っていた。半年前村を発つときに見たあのままの。青い光も脈動も消えていた。ただの黒ずんだ石。何事もなかったかのように、朝靄の中に立っていた。
村も静かだった。井戸の濁りは引き始めていた。家畜の怯えも収まっていた。あれほど村を覆っていた異変が嘘のように退いていく。
救われたとセイルは思った。膝をついたまま黒い石を見上げて。
救った。
だが――その手応えを分かち合える者はどこにもいなかった。
北の峠からグレゴルが下りてきた。
石がただの石に戻ったのを確かめるように。その顔には初めてはっきりとした落胆が浮かんでいた。
「……臨界が消えた」グレゴルは呟いた。「観測すべき現象が丸ごと無くなった。石はただの石柱に戻り、何の反応も示さん。――何が起きた」
「おれが止めた」セイルは言った。「石が灯るのを視て止めた」
「どうやって」
「説明できない」セイルは首を振った。「術じゃない。記述もできない。ただ――視て流れをほどいて閉じた。それだけだ」
グレゴルは長いあいだセイルを見つめた。その目が何かを測ろうとして――そして諦めた。
「記録のしようがない」グレゴルは低く言った。「観測機もなく、術式もなく、ただ一人の人間が『視て止めた』。そんなものは報告書に書けん。書いたところで誰も信じん。――つまり」
グレゴルは踵を返した。
「ここで起きたことは何もなかった。そういうことになる」
セイルの胸にその言葉が冷たく落ちた。
なかったことにされる。村を救ったことも。底のものを眠らせ続けたことも。自分が何を差し出したかも。すべて記録に残らず、誰にも知られず。
「だが」グレゴルは去り際に足を止めた。「石はまた灯るかもしれん。あの底のものが眠っている限り。そのときは――また来る。君を迎えに」
それだけ言って灰色の列は北の峠へ消えていった。
西の祠からはカインが見ていた。
グレゴルが去るのを見届けてからカインは静かにセイルに近づいた。隣にヨナがいた。
「見事だった」カインは言った。穏やかな声に、感嘆と、それから深い惜しみが滲んでいた。「誰にもできぬことを、お前は一人で成した。失われた接続者の――いや」
カインは言い直した。
「セイル・ロウラント、お前が成した」
その言葉に、セイルはわずかに目を見開いた。再来でも器でもなく。初めてこの男が自分の名を、ただの名として呼んだ。
「だが」カインは続けた。「お前は誰にも理解されぬ場所を選んだ。学問はお前を記述できぬ。神秘はお前を物語にできぬ。村は――お前が何をしたかすら知らぬ。お前はたった一人で、狭間に立っている。それがどれほど孤独なことか」
「分かってる」セイルは言った。
「いつかその孤独に耐えきれなくなったら」カインは静かに言った。「鍵は開けておく。前にも言ったとおりに」
カインは踵を返した。ヨナが最後にセイルを見た。その目にはもう、羨望はなかった。ただ一人の人間を見送る、静かな目だけがあった。
「……あんたはあんただった」ヨナはぽつりと言った。「最後まで」
神秘の手も西の古道へ引いていった。
二つの力が去って村に朝が満ちた。
だが村の者たちは家から出てこなかった。
戸の陰からおそるおそる様子をうかがうばかりだった。よそ者たちが去ったのは分かる。石が静かになったのも分かる。だがなぜそうなったのか、彼らは知らなかった。知っているのはただ一つ。
あの子が帰ってから石が騒ぎ、よそ者が来て、そして――去った。
祟りを呼んだ子。よそ者を連れてきた子。村を騒ぎに巻き込んだ子。
その目は変わらなかった。セイルが村を救ったことを誰も知らない。知りようもない。彼らにとってセイルは最後まで、気味の悪い視る石みたいな子のままだった。
守ったとセイルは思った。この人たちを。この村を。
なのにこの人たちはおれが守ったことを知らない。
それでいいと自分に言い聞かせた。分かってもらうために視たのではない。守るために視たのだ。――だが、その「それでいい」はひどく寒かった。
家に戻ると、ハルダが土間に倒れていた。
セイルは駆け寄った。ハルダはまだ息があった。だがその体は、紙のように軽くなっていた。
「ばあちゃん!」
「……石は」ハルダはかすれた声で訊いた。「眠ったかい」
「眠った」セイルは言った。「もう灯らない。おれが止めた」
ハルダの皺の刻まれた顔にかすかな安堵が浮かんだ。
「そうかい」老人は呟いた。「なら……いいんだ」
ハルダは昨夜ひとり、土間で祈っていたのだという。石が眠るようにと。中身も知らぬただの言葉を。ばあさまのそのまたばあさまから継いできたあの祈りを。役に立たぬと知りながら。村を覆う異変の中で、痩せた体に残った力のすべてを使って。
その力が――尽きていた。
「ばあちゃん、しゃべるな」セイルはハルダの手を握った。骨ばって冷たい手。あの朝、自分を送り出したあの手だった。
「セイル」ハルダはその手を握り返した。思いがけず強く。「おまえは……おまえだよ。何を視ても。何になっても。……忘れるんじゃないよ」
あの朝と同じ言葉だった。
「忘れない」セイルは言った。涙がこぼれた。「忘れないよばあちゃん」
ハルダは小さく頷いた。それからゆっくりと目を閉じた。
石の畏れを継いできた最後の語り部が。石が眠りに戻ったのを見届けて。静かに、その長い役目を終えた。
朝靄の中で誰も知らない夜明けが白んでいった。




