底に触れる手
中心の流れに意識を向けたその瞬間から。
底のものの引きが変わった。
さっきまではただ、まっすぐな力だった。引きずり込もうとする無慈悲な奔流。だが今は――違った。引きが甘くなっていた。
誘うように。
底のものは眠ったまま、セイルの存在に気づいていた。そして引きずり込むのではなく――迎え入れようとしていた。
おいでと。
言葉ではなかった。だがそう伝わってきた。途方もなく古く大きいものが、深い眠りの底から半身を起こすように。こちらへおいで。お前はここへ来るべきものだ。お前のいるべき場所はここだと。
セイルの肌がざわついた。
その誘いは――恐ろしいほど優しかった。
幻が視えた。
底のものが見せているのか。それとも自分の奥から湧くのか。分からなかった。だが、視えた。
底に降りれば。もう何も苦しまずに済む。視えすぎて人と隔たることも。化け物と畏れられることも。持つ者と持たざる者の川に引き裂かれることも。三方に裂かれることも。すべて終わる。底に沈めば。ただ深い安らぎの中に溶けて。視る者でも視られるものでもなく。ただ流れの一部になって。
楽になれる。
その甘さが、セイルの半身を浸した。
ああとセイルは思った。
これが――近づきすぎた者が堕ちる理由だった。
オルセンの研究室で深みに引きずり込まれかけたとき。あれはただの力ずくの引きだと思っていた。だが違った。深く触れた者には。底のものはこうして、優しく誘うのだ。苦しみを終わらせてやろうと。安らぎをやろうと。
ヴェルグリントも。観相派の堕ちた者も。みなこの優しさに負けたのかもしれない。喰らう側だった者が、喰らわれる側へ転じる。その境目にはこんな甘い誘いが待っていた。抗うのが難しいほどの。
半身が底へ傾いた。あと少し。あと少し力を抜けば。この甘さに身を委ねれば。すべての苦しみから解き放たれる。
だが――そのとき。
遠くで声が聞こえた。
石の奥に踏み込んだ薄れゆく意識の、そのいちばん外側で。誰かの声が。
まじないの声だった。低い、古い言葉の連なり。ハルダの声。竈の前で唱えていたあのまじない。石が眠るようにと。村に災いが来ぬようにと。役に立たぬと知りながら、それでも絞り出していたあの声。
その声がなぜか底の甘さの中まで届いた。
セイルははっとした。
傾いていた半身を引き戻した。
忘れるところだった。
底に沈めば。確かに楽になる。だが――それは村を捨てることだった。ハルダを。ティナを。あの何でもない夜の営みを。底のものが見せる安らぎは、自分一人の安らぎだった。自分が楽になる代わりに。村は目覚めた底のものに呑まれる。
甘い誘いのその裏で。底のものはただ、自分を引きずり込もうとしていただけだった。喰らうために。優しさは餌だった。喰らう者が獲物に見せる最後の優しさ。
セイルは底のものを視た。
もう誘いには乗らなかった。だが――引き返しもしなかった。底のいちばん際に。触れるぎりぎりのところに。半身を浸したまま、踏みとどまった。
触れて――越えない。
その一線にセイルは立っていた。
底のものに触れなければ、中心の流れは視えない。畳む方法も視えない。だから触れる。だが越えれば呑まれる。底のものになる。だから越えない。触れて越えない。その針の先のような際に。
甘さはまだ足元から立ち上っていた。おいでと。優しく。だがセイルはその甘さを視ながら。それに呑まれずに。ただ視続けた。底のものの引きの構造を。中心の流れと底の繋がりを。
どうすればこれを畳めるのか。底に触れたまま。だが底にならずに。
その答えは――まだ視えなかった。だが触れているこの際でなら。いつか視えるはずだった。越えさえしなければ。呑まれさえしなければ。
ハルダのまじないの声が。まだ遠くで低く続いていた。
その声が錨のように、セイルを底の甘さから繋ぎ止めていた。村へ。地上へ。ただのセイルでいられる最後の岸へ。
まだ落ちない、とセイルは思った。まだ視ている側にいる。底の際で。甘さに半身を浸しながら。それでももう半身は、ハルダの声のほうへ。
その危うい均衡の中で。セイルは必死に視続けた。畳む方法を。差し出すべきものを。底のいちばん深いところに隠された、ただ一つの道を。
あと少しで。それが視えそうだった。触れて越えないこの際の、その先に。




