三方の岐れ
夜明け前、石がこれまでで最も強く明るんだ。
青い光はもはや斜面を越えて、村の家々の壁にまで届いていた。脈動は速く、高くなっていた。臨界が目前に迫っていた。あと一日。あるいは半日もないのかもしれない。
そしてその光に呼ばれるように二つの力が動いた。
北の峠から、灰色の列が下りてきた。西の祠から、鍵守の一団が進み出た。どちらも斜面の石を目指して。石が完全に灯るその瞬間に、奪い取るために。
セイルは斜面の石の前に立っていた。二つの力に挟まれて。
「もう待てん」
北から来たグレゴルが淡々と言った。
「石が灯る。臨界だ。ここで確保せねば、観測の機を逃す。――ロウラント君。最後の機会だ。我々とともに来い。さもなくば、力ずくで石ごと確保する。村の被害は不問とは言わん」
「させはしない」
西からカインが応じた。穏やかな声に初めて苛烈な刃が覗いていた。
「この石は神秘のものだ。失われた祖型への扉。学問の檻になど渡さぬ。セイル――こちらへ来なさい。お前と石は我々が守る」
二つの力が斜面の上でにらみ合った。
グレゴルの背後で、学問の術式が組み上がっていく。整然と、隙なく。カインの背後で、古い呪句が低く紡がれていく。血の匂いのする神秘の力が。
奪い合いが始まろうとしていた。
そしてセイルは視た。
二つの力がぶつかり合うたびに――石の脈動が跳ね上がるのを。学問の術が石に触れるたび、神秘の呪が石を引くたび、臨界が早まっていく。彼らは石を奪い合うことで、自分たちの欲しいものを自分たちの手で暴走させていた。
止めなければ。
だが――どうやって。
セイルの中で三つの声が引き合っていた。
学問へ委ねるか。グレゴルの手を取れば、村は見逃される。石は国家の檻の中で観測される。底のものは――いずれこじ開けられ、目を覚ますだろう。そして自分は生きた観測器として解剖される。
神秘へ委ねるか。カインの手を取れば、結界に守られ器として迎えられる。石は神秘の手で開かれる。底のものは――やはりいずれ呼び覚まされる。そして自分は、再来という誰かの物語の続きになる。
どちらも底のものを目覚めさせる。どちらも自分を何かの道具にする。
では――三つ目。
どちらにも与せず。自分であの石を視て。臨界を読み解いて。閉じる。
無謀だった。魔力もない。力もない。二つの巨大な力を敵に回し、たった一人で暴走しかける石と向き合う。呑まれれば、底のものに引きずり込まれる。竜種化の淵どころではない、あの世界の底へ。
できる保証などどこにもなかった。
「セイル」
声に振り返った。
斜面の下に村の者たちがいた。ハルダが。ティナが。ロウが、ゴルド爺が。逃げ出すべき危機の中で、彼らは逃げずにセイルを見上げていた。
ハルダの皺の刻まれた顔。あの朝、骨ばった手で約束させた言葉がよみがえった。
――向こうで何を知っても何になってもおまえはおまえだよ。
ティナのまっすぐな目。斜面で怒りながら言った言葉が。
――あんたはあんただよ。化け物でも英雄でもない。
そうだとセイルは思った。
自分はヴァルダの名残りかもしれない。境界石が育んだ何かかもしれない。底のものと同じ根を持つ化け物かもしれない。――それはいまだに分からない。誰も教えてくれない。自分でも、分からない。
だが。
自分が何の名残りであろうと。何でできていようと。
何を視て何のために視るかは――自分が決める。
グレゴルでもカインでもない。底のものでもない。誰かの物語の続きとしてではなく。自分の意志で。
その答えだけは、はっきりと自分の手の中にあった。
セイルは石に向き直った。
背後でグレゴルとカインがにらみ合っている。二つの力が今にもぶつかろうとしている。石の脈動が限界へ迫っていく。
「やめろ」セイルは二人に叫んだ。「奪い合うな。あんたたちがぶつかるたびに、石が早まってる。臨界が来れば――あんたたちの欲しいものは手に入らない。底のものが目を覚ます。誰の手にも負えなくなる」
グレゴルがわずかに術を止めた。カインが呪句を止めた。
「では」グレゴルが冷たく問うた。「どうしろと言うのだ」
「おれが視る」セイルは言った。「おれが石を視て、臨界を止める。あんたたちは手を出すな」
「お前が」カインが目を細めた。「一人で。あの底に触れて――無事でいられると思うのか」
「思わない」セイルは言った。震えていた。だが退かなかった。「無事じゃ済まないかもしれない。でも――おれ以外に視える者はいない。誰かがやらなきゃならない。だったら、おれがやる」
誰も助けに来ないのは分かっていた。神は辺境のこの村を見てなどいない。グレゴルもカインも、自分の欲のためにしか動かない。
助けは来ない。
なら――人がやるしかない。視えるただ一人の人間が。
セイルは石に手を伸ばした。
逃げるのでも流されるのでもなく。初めて自分の意志で、あの石のいちばん奥へ踏み込むために。




