三方に裂かれて
その夜セイルは眠れなかった。
北の峠に学問の影。西の祠に神秘の手。その狭間に村があり、村の真ん中に自分がいた。
窓の外で斜面の石が青く脈打っていた。その光が家の壁にまで薄く差していた。臨界が近い。あと一日。あるいは半日もないのかもしれない。
その限られた時の中で。自分は決めなければならなかった。三つの道のどれかを。
学問へ行くか。
グレゴルの手を取れば、村は見逃される。そう言っていた。代わりに自分は国家の檻の中で観測される。命の流れを視る生きた器として。解剖され、計られ、記録される。そして石は――いずれこじ開けられ、底のものが目を覚ます。
神秘へ行くか。
カインの手を取れば、結界に守られ器として迎えられる。再来として。だが石は神秘の手で開かれる。やはり底のものが呼び覚まされる。そして自分は誰かの物語の続きにされる。失われた接続者の生まれ変わりという幻に。
どちらの道も底のものを目覚めさせた。どちらの道も、自分を自分でないものに変えた。
では三つ目。
どちらにも与せず。たった一人であの石と向き合う。
考えただけで笑いたくなった。魔力もない。力もない。術一つ使えない落第者が。二つの巨大な力を敵に回し、暴走しかける石を一人で止める。できるわけがなかった。呑まれれば、底のものに引きずり込まれる。竜種化の淵どころではない。世界の底へ。
どの道も行き止まりだった。
学問へ行けば消える。神秘へ行けば消える。一人で立てば、呑まれて消える。
三方に引かれて。そのどれもが自分を消す道だった。
セイルは暗い天井を見上げた。逃げ場はどこにもなかった。三つの道のどれを選んでも。最後にはセイル・ロウラントという自分がいなくなる。
土間のほうからかすかな物音がした。
セイルはそっと起き上がった。ハルダがいた。痩せた背を丸めて。竈の前にしゃがんで。何か低い言葉を唱えていた。
古いまじないの言葉だった。意味はもう誰も知らない。ばあさまのそのまたばあさまから継いできた、ただの音の連なり。石が眠るようにと。村に災いが来ぬようにと。
役に立たぬと、ハルダ自身知っていた。それでも唱えていた。痩せた体で。残った力を絞って。
セイルはその背を視た。
ハルダの内にはもうほとんど力が残っていなかった。命の流れが細く、頼りなく揺れていた。それでもその細い流れを絞って、絞って。村のために祈っていた。何の力もないと知りながら。
セイルは声をかけずにまた横になった。
ハルダのまじないの声が低く続いていた。子守唄のように。その声を聞きながら、セイルはふと思った。
村は――何も知らなかった。
北に学問。西に神秘。二つの巨大な力がすぐそこまで迫っていることを。石が臨界へ近づいていることを。底に途方もないものが眠っていることを。村人は何一つ知らずにいた。
いや、知らないからこそ。村はいつもの夜を過ごしていた。家畜は怯えていたが、それでも囲いの中で眠っていた。井戸は濁っていたが、それでも誰かが水を汲んでいた。竈には火が入り、誰かが明日の糧を煮ていた。ハルダがまじないを唱えていた。
巨大な力の奪い合いのただ中で。それでも村は煮炊きをし、眠り、祈っていた。ささやかな、ありふれた夜の営みを。
そのありふれた営みが。
なぜかセイルの胸を締めつけた。
学問の檻でも神秘の祠でも味わえない何か。ただ火が燃え、人が眠り、老人が祈る。それだけの何でもない夜。村でただ垂れ流して苦しんで、化け物と呼ばれていたあのころには気づきもしなかった何か。
守りたいとふと思った。
この何でもない夜を。煮炊きの匂いを。家畜の寝息を。ハルダのまじないの声を。明日もその次の日も続いていく、このささやかな営みを。
だが――三方のどの道も。それを守れなかった。学問へ行けば、村は見逃されても底のものが目覚める。神秘へ行けば同じ。一人で立てば、呑まれて何も守れない。
守りたいのに。守る道がどこにもない。
セイルはまた眠れぬまま夜を過ごした。
三方に裂かれたまま。どの道も行き止まりで。それでも守りたいものだけは、はっきりと胸の中にあった。
ハルダのまじないの声が、いつしか止んでいた。老人は竈の前で座ったまま、うとうととしていた。その安らかな寝顔を、セイルは闇の中で視た。
明日この人は。この村は。どうなるのだろう。
答えはまだなかった。三つの道はどれも塞がれていた。だが夜が明ければ。石は臨界を迎える。そのときまでに、自分は何かを決めなければならなかった。
裂かれた胸のいちばん奥で。まだ形にならない何かが。守りたいというその一点を軸に、ゆっくりと回り始めていた。それが何になるのか。セイルにはまだ視えなかった。
窓の外で石が青く脈打ち続けていた。臨界へ向かって。夜明けへ向かって。そして――まだ見ぬ選択へ向かって。




