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第8話 悪役の記録官

 ミル渓谷砦の救出から三日、王都セレンディアには歌が戻らなかった。



 沈黙だけが、通りを歩いていた。



 星盾村の時とは違う。


 あの時、人々は失った村の代わりに、救われた命を数えることができた。


 泣く子を抱えて森へ逃げた兵の姿に、まだ希望を重ねることができた。



 だが、ミル渓谷砦では違った。



 救われた者がいる。


 それは事実だった。



 けれど、戻らなかった者もいる。


 その中に、トマ・リードの名があった。



 軽口を叩き、恐怖を笑いに変え、ライナス・ベルの本当の姿を知っていた若い兵。



 その名は、王都の兵舎で静かに広がった。



 誰も大声では語らなかった。


 ただ、飯の時に椀を一つ多く見てしまう者がいた。


 訓練の列で、空いた場所を見つめる者がいた。


 夜、誰かが冗談を言いかけて、途中で口を閉じることがあった。



 ライナスは、それらをすべて見ていた。



 見てしまっていた。



 彼は以前より口数が減った。


 訓練には出る。


 盾も持つ。


 逃げ出しはしない。



 だが、笑わなかった。



 誰かが彼を星盾の兵と呼ぶたびに、わずかに肩が震えた。



 ノエル・アルバートは、その変化を記録していた。



 ライナス・ベル、訓練継続。


 兵士間の支持、なお高い。


 ただし本人の消耗、顕著。


 ミル渓谷砦救出に関する兵士間の評価、二分。


 救出された民からは感謝。


 軍規を重んじる将校からは批判。


 貴族諸家の間に、ライナスの扱いを問う声、増加。



 最後の一文を書いたところで、ノエルは羽根ペンを止めた。



 来るべきものが来ている。



 英雄は、戦場でだけ危険なのではない。


 戦場から戻った後の方が、なお危険になる。



 ライナスは命令を破った。


 その結果、民を救った。


 その結果、兵を死なせた。



 功と罪が、同じ手の中にある。



 だからこそ、誰もが彼を利用できる。



 民は、彼を救いの象徴として見たい。


 兵は、彼を自分たちの弱さを許す旗として見たい。


 貴族は、彼を危険な火種として見たい。


 王家は、彼を国を支える柱として見たい。


 帝国は、彼をリステリアを割る楔として見たい。



 そしてライナス本人だけが、自分をただの兵士として見たいと願っている。



 それは、もう許されなくなっていた。



 その日の午後、王城の大広間で評議が開かれた。



 集まったのは、王女エリシア、老将ガレス、マルグリット・ヴェインをはじめとする有力貴族たち。


 そしてノエル。



 広間の空気は、戦場より冷たかった。



 戦場では、敵が前にいる。


 評議では、味方が正しい顔をして刃を抜く。



 最初に口を開いたのは、東部に領地を持つ伯爵だった。



「ライナス・ベルの行動は、称えるべきではない」


 彼は太った指で机を叩いた。


「命令を破り、兵を連れて砦へ向かった。これを許せば、今後すべての兵が自分の判断で戦場を動く」


 ガレスは黙っていた。



 その言葉は、軍の立場から見れば正しかった。



 別の貴族が続けた。



「民は彼を英雄視している。だからこそ危険です。命令違反を美談にすれば、王国軍の規律は崩れます」


「ですが、救われた民がいるのも事実です」


 エリシアが静かに言った。



 その声に、広間が一瞬だけ沈黙する。



 王女の言葉は感情ではない。


 国の言葉だった。



 マルグリット・ヴェインが扇を閉じたまま言った。



「殿下。問題は、彼が民を救ったことではありません」


「では、何ですか」


「彼の善意が、命令より強く見えてしまったことです」


 広間に重い沈黙が落ちた。



 マルグリットは続ける。



「ライナス・ベルは悪人ではありません。むしろ善良です。だから厄介なのです。民は悪人に従いません。けれど、善良な者には従ってしまう」


 ノエルは彼女を見た。



 マルグリットの目は冷たい。


 だが、そこに私欲だけがあるわけではない。



 彼女は本当に国の戦後を見ている。



「戦が続く間は、彼の名が兵を立たせるでしょう」


 マルグリットは言った。


「しかし戦が終わった後、彼の名は何を立たせますか。王家への忠誠ですか。それとも、王家を超えた民の熱ですか」


 誰もすぐには答えなかった。



 彼女の問いは正しい。



 ライナスが望まなくとも、人は旗を作る。


 旗は、いずれ誰かの手に握られる。



「提案があります」


 マルグリットはエリシアへ向き直った。


「ライナス・ベルを王家直属の保護下に置く。形式としては、療養および戦時功労者の保護。その間、軍務から外し、民衆の前に出すことを制限する」


「拘束と同じでは」


 エリシアの声がわずかに低くなる。



「言葉を選べば、保護です」


「実質は」


「必要なら、拘束です」


 マルグリットは目を伏せなかった。



「今ならまだ間に合います。彼を罰しすぎれば民が反発する。称えすぎれば軍が割れる。ならば、傷ついた英雄を休ませるという名目で遠ざけるのが最善です」


 伯爵が頷いた。



「それがよい。加えて、記録官ノエル・アルバートの布告にも調査が必要です。そもそも、この星盾騒動は宮廷の文書から始まった」


 視線がノエルに集まった。



 ノエルは動かなかった。



 来た。



 ようやく、刃が自分の喉に届いた。



 別の貴族が言った。



「星痕の盾、星盾の兵、王家の祈り。すべて意図的に民を煽るものだったのではないか」


「民を煽ることで、兵の士気を保ったのも事実です」


 エリシアが言う。



「殿下。それは認めます」


 マルグリットが返した。


「ですが、道具は使い終えた後、片づけなければなりません。炎で暖を取るのはよい。けれど、家に燃え移る前に消す必要があります」


 その言葉に、ガレスが低く唸った。



「ライナスは道具ではない」


 広間の空気が揺れた。



 老将の声は、怒鳴り声ではない。


 だが、石のように重かった。



「命令を破った。処罰は必要だ。だが、あの若造は兵だ。最後まで逃げずに戻った兵だ。貴族の都合で箱にしまう飾りではない」


 マルグリットは静かに頷いた。



「将軍閣下のお言葉は理解します。私も彼を侮っているわけではありません」


「では、なぜ縛る」


「尊重しているからです」


 彼女はそう言った。



「本人が望まなくとも、彼は人を動かします。その力を放置することは、彼自身を危険に晒す。民に担がれ、貴族に狙われ、帝国に利用される。縛らずに守る方法があれば、ぜひ伺いたいですわ」


 ガレスは返せなかった。



 武人は戦場で兵を守れる。


 だが、政治の中で英雄を守る方法は持っていない。



 沈黙の中で、ノエルが口を開いた。



「方法はあります」


 全員が彼を見た。



 エリシアも。


 ガレスも。


 マルグリットも。



 ノエルはゆっくりと立ち上がった。



「ライナス・ベルを、英雄ではなく被害者にすればよい」


 広間に、鋭い沈黙が落ちた。



 マルグリットの目が細くなる。



「続けて」


「星盾の兵という物語は、彼が望んだものではありません。彼は最初から拒んでいた。自分は英雄ではないと繰り返していた。それを無視し、彼を利用した者がいる」


「それは誰ですの」


 マルグリットは、答えを知ったうえで尋ねた。



 ノエルは淡々と答えた。



「私です」



 ユリアンが息を呑んだ。


 広間の端で記録を取っていた彼の手が止まる。



 エリシアが小さく言った。



「ノエル」


「事実です」


 ノエルは王女を見ずに続けた。



「ライナス・ベルは、偶然生き残った兵に過ぎなかった。子を救ったことは事実。盾に星形の傷があったことも事実。ですが、それを星盾信仰と結びつけ、布告に意味を持たせ、吟遊詩人を使い、神殿の説話を整え、兵士の手紙の文例を作ったのは私です」


 ざわめきが広間に広がった。



 多くの者が知っていた。


 薄々は気づいていた。


 だが、本人の口から出ると重みが違った。



「あなたは」


 伯爵が声を上げた。


「王家の許可なく、そのようなことを?」


 ノエルは一瞬だけエリシアを見た。



 彼女の顔は硬い。



 ここで王女の名を出せば、王家も傷つく。


 エリシアは共犯者だ。


 だが、彼女を共犯者として記録に残せば、王家の旗が揺らぐ。



 旗が揺らげば、国が揺らぐ。



 だからノエルは言った。



「私の独断です」


 エリシアの指が、わずかに震えた。



 ガレスが目を細める。



 マルグリットだけが、すべてを理解した顔をしていた。



「つまり」


 彼女は静かに言った。


「あなたは、偽りの英雄を作り、王都の民と兵を意図的に誘導したと認めるのですか」


「認めます」


「王家の名を利用したことも?」


「認めます」


「ライナス・ベルの名誉と人格を、本人の同意なく利用したことも?」


「認めます」


 広間がざわめいた。



 ノエルは、そのすべてを受け止めた。



 これでよい。



 ライナスを危険な英雄にしてはならない。


 ならば、彼を騙され、利用され、それでも逃げなかった兵にすればいい。



 民の怒りは、行き場を求める。


 その行き場を、自分に集める。



 王家は、騙された形にすれば傷が浅い。


 ガレスは、兵の規律を守れる。


 マルグリットは、戦後秩序の危険を少し減らせる。


 ライナスは、英雄を望んだ者ではなく、英雄にされた者として守れる。



 誰も完全には救われない。



 だが、最悪よりはましだ。



 エリシアが立ち上がった。



「ノエル・アルバート」


 その声は震えていなかった。



 王女の声だった。



「あなたの発言は、王家の権威と軍の規律に関わる重大なものです。事実確認が終わるまで、あなたを拘束します」


 ノエルは頭を下げた。



「承知しました」


 ユリアンが思わず声を上げた。



「殿下!」


 エリシアは彼を見た。



 その目は、痛みを帯びていた。


 だが、揺れなかった。



「記録官見習いユリアン・クライン。あなたは記録を続けなさい」


「でも」


「続けなさい」


 ユリアンは唇を噛んだ。



 彼は分かってしまった。


 これは茶番ではない。


 必要な芝居でもある。


 だが芝居であっても、牢に入る者の寒さは本物だ。



 近衛兵がノエルの左右に立った。



 ガレスが低い声で言った。



「記録官」


「はい」


「お前は、本当に厄介な男だ」


「よく言われます」


「褒めていない」


「存じています」


 ガレスはそれ以上何も言わなかった。



 マルグリットはノエルに近づいた。



「見事な逃げ道ですわね」


「どなたの」


「皆の。あなた以外の」


「それなら成功です」


「ですが、気をつけなさい」


 彼女は声を落とした。



「悪役は、最後まで悪役として扱われますわよ」


「途中で許される悪役ほど、物語に不要なものはありません」


 マルグリットは初めて、わずかに苦い笑みを浮かべた。



「あなたとは、やはり話が合いそうで嫌ですわ」


「同感です」


 ノエルは連れて行かれた。



 その日の夕方、王都には新しい布告が出された。



 宮廷記録官ノエル・アルバート、戦時下において独断で星盾信仰を利用し、ライナス・ベルの名を英雄として流布させた疑いにより拘束。


 王家は事実確認を行う。


 ライナス・ベルは、その計画において利用された一兵士であり、彼自身の功罪については軍規に従い別途判断する。


 ミル渓谷砦救出における命令違反については処罰を検討。


 同時に、救出された民の命と、後衛として散った兵たちの功は記録される。



 布告板の前で、人々は混乱した。



「ノエルって誰だ」


「記録官らしい」


「じゃあ、星盾の兵は作り物だったのか」


「でも、ライナスが子供を救ったのは本当だろ」


「本人は英雄じゃないって言ってた」


「なら、騙されたのはあの兵も同じなのか」



 噂は、また形を変え始めた。



 星盾の兵は嘘だった。


 しかしライナスは嘘をついていなかった。


 嘘をついたのは宮廷の記録官。


 ライナスは巻き込まれた。


 それでも彼は逃げなかった。



 ノエルの狙い通りだった。



 そして、狙い通りであることが、ユリアンには悔しかった。



 記録室で、ユリアンは一人、散らばった紙を整理していた。



 先生の机。


 先生の羽根ペン。


 先生の書いた布告案。


 星盾の兵の最初の記録。


 ライナスの演説の草稿。


 ミル渓谷砦の報告。



 どれも、まだ温度が残っているように見えた。



 セラ・ミルドが、窓から入ってきた。



「扉から入ってください」


 ユリアンは涙声で言った。



「泣き顔の少年を見る時は、窓からの方が風情があるかなって」


「最低です」


「宮廷さんに似てきたね」


 ユリアンは顔をしかめた。



 セラは机上の布告を見た。



「やったね、あの人」


「何をですか」


「自分を燃やして、火事の向きを変えた」


 ユリアンは拳を握った。



「先生は、全部自分の独断だと言いました」


「違うの?」


「違います」


 ユリアンは言った。



「王女殿下も知っていた。ガレス将軍も途中から認めていた。セラさんだって歌った。僕だって書いた。なのに、先生だけが」


「そうだね」


「なぜ、止めなかったんですか」


「止めて止まる人?」


 セラの問いに、ユリアンは何も言えなかった。



 セラは机に腰を掛けた。



「ノエルは悪党だけど、馬鹿じゃない。ああするしかライナスを守れなかったんだよ」


「ライナスさんを?」


「このままだと、あの子は英雄として縛られるか、命令違反者として潰されるか、貴族に取り込まれるか、帝国に壊されるかだった」


「だから、被害者にした」


「そう。利用された兵士にした。本人が望んでいない英雄にされた、かわいそうで、でも逃げなかった兵士に」


 ユリアンは涙を拭いた。



「そんなの、ずるいです」


「うん」


「先生だけ、悪者になるなんて」


「うん」


「僕は、記録しなきゃいけないんですか」


「それが君の仕事でしょ」


 セラの声は、珍しく優しかった。



「ただし、表の記録と裏の記録は分けな」


 ユリアンは顔を上げた。



「裏の記録?」


「ノエルが消したがる方。本当は誰が何を知っていたのか。誰が迷ったのか。誰が嘘に手を貸したのか。誰が救われて、誰が傷ついたのか」


「それを残して、どうするんですか」


「いつか誰かが読むかもしれない」


「読まれなかったら」


「それでも、書いた人は知ってる」


 ユリアンは机上の紙を見た。



 表の記録では、ノエルは危険な記録官になる。


 偽りの英雄を作り、王国を混乱させた男。



 だが、それだけではない。


 彼は国を救うために嘘をついた。


 ライナスを利用した。


 そして最後には、ライナスを守るために自分を悪役にした。



 それを誰も書かなければ、本当に消えてしまう。



「書きます」


 ユリアンは言った。



 セラは笑った。



「いい記録官になるよ、君」


「先生みたいにはなりたくありません」


「それもいいね」


 一方、ライナスは医療院で布告を読んでいた。



 何度も。


 何度も。



 ノエル・アルバート、拘束。



 ライナス・ベルは、その計画において利用された一兵士であり。



 その一文で、彼の手は止まった。



 利用された。



 確かにそうだった。



 ノエルは自分を利用した。


 折れた盾を使い、子供を救った話を使い、星盾の信仰を使った。


 何度も怒った。


 何度も最低だと言った。



 それなのに。



「なんで」


 ライナスは呟いた。



 なぜ、自分を被害者にする。


 なぜ、すべてを一人で背負う。



 あの人は、最低だった。


 冷たかった。


 嘘をついた。


 人の心を道具みたいに扱った。



 でも。



 ミル渓谷へ向かう道は、誰が用意したのか。


 救出された民の数を、誰が正確に記録したのか。


 トマの名を、誰が布告に残したのか。


 自分が英雄ではないと言った時、誰が止めずに広場を用意したのか。



 ライナスは、ようやく気づいた。



 ノエルは自分を道具にした。


 だが、道具として壊れた後に捨てる気なら、こんなことはしない。



 彼は守ろうとしている。



 不器用で、最悪で、誰にも感謝されないやり方で。



 ライナスは立ち上がった。



 医師が止めるのも聞かず、王城の地下牢へ向かった。



 近衛兵は最初、通そうとしなかった。


 だがライナスが黙って立ち続けると、困ったように互いの顔を見た。



 今の彼を乱暴に追い返せる者は少ない。



 結局、短い面会だけが許された。



 地下牢は寒かった。



 石壁には湿気が滲み、灯りは少ない。


 奥の牢に、ノエルは座っていた。



 いつもの外套はなく、簡素な服に変えられている。


 それでも背筋は伸びていた。



「来ると思っていました」


 ノエルは言った。



 ライナスは鉄格子の前に立った。



「どうしてですか」


「あなたは、聞かずにいられない人です」


「違います」


 ライナスの声は震えていた。



「どうして、あんな布告を出したんですか」


「事実だからです」


「全部が?」


「必要な程度には」


「また、それですか」


 ライナスは鉄格子を握った。



「俺は利用されました。でも、あなた一人のせいじゃない。王女殿下も、将軍も、セラさんも、皆関わっていた。俺だって、途中から自分で選びました」


「それでは、あなたを守れない」


 ノエルは静かに言った。



 ライナスは息を呑んだ。



「守る?」


「あなたは今、危険です。民に愛され、兵に信じられ、貴族に警戒され、帝国に狙われている。英雄として立てば壊される。命令違反者として裁けば民が荒れる。ならば、利用された兵士として一度、あなたを物語の中心から外す必要があった」


「俺は、そんなこと頼んでません」


「頼まれれば、しませんでした」


「あなたはいつもそうです」


「はい」


 ライナスは唇を噛んだ。



 怒りたい。


 責めたい。


 最低だと言いたい。



 だが、言葉が出なかった。



「俺は、あなたが嫌いです」


 ようやく出たのは、その言葉だった。



 ノエルは頷いた。



「正常です」


「でも」


 ライナスの目が赤くなる。



「あなたがいなかったら、俺はたぶん、最初の東門で終わっていました。逃げてきただけの兵で、誰にも見られず、どこかで震えて終わっていた」


「その方が幸せだったかもしれません」


「そうかもしれません」


 ライナスは鉄格子を握る手に力を込めた。



「でも、俺を見て立った人がいます。俺の言葉で残った人がいます。トマも……俺がいたから歩けたって言いました」


 ノエルは目を伏せた。



「その代償も、あなたは知ったはずです」


「はい」


「なら、降りなさい」


 ライナスは顔を上げた。



「今なら、まだ降りられる。私は悪役になります。あなたは利用された兵士です。民は同情し、貴族は扱いやすくなったと思い、軍は処罰を軽くできる。あなたは療養という名で前線から外れられる」


 ノエルは静かに言った。



「降りなさい、ライナス。これは命令ではありません。初めて、私の願いとして言います」


 ライナスは何も言えなかった。



 逃げられる。



 それは甘い言葉だった。



 もう盾を持たなくていい。


 星盾の兵と呼ばれなくていい。


 誰かを選ばなくていい。


 誰かの死を背負わなくていい。



 トマのいない兵舎に戻らなくていい。


 白橋へ向かわなくていい。


 帝国兵の足音を聞かなくていい。



 ライナスは目を閉じた。



 怖い。



 逃げたい。



 今までで一番、逃げたかった。



 だが、浮かぶ顔があった。



 東門で背負った子供。


 星盾村で抱えた少女。


 ミル渓谷から引き出した老人。


 槍を持って笑ったトマ。



 そして、兵舎で言った自分の言葉。



 怖いままでいい。


 一歩だけ残れ。



「無理です」


 ライナスは言った。



 ノエルの目がわずかに揺れた。



「なぜ」


「俺が降りたら、俺を信じて一歩残った人たちが、もう立てなくなるかもしれない」


「また、それですか」


 ノエルの声には、初めて苦味が混じった。



「ええ」


 ライナスは小さく笑った。


 泣きそうな笑みだった。



「あなたが作った言葉じゃありません。俺が言った言葉です」


 ノエルは黙った。



 ライナスは続けた。



「俺は英雄じゃありません。今もそう思っています。でも、もうただの兵士にも戻れません」


「後悔します」


「もうしています」


「もっとします」


「でしょうね」


「死ぬかもしれません」


「怖いです」


「それでも」


「それでも、立ちます」


 地下牢に沈黙が落ちた。



 ノエルは、鉄格子の向こうの若者を見た。



 最初に東門で見た時、彼はただの敗残兵だった。


 泥にまみれ、震え、子供を背負って戻ってきただけの若者。



 今も、その本質は変わらない。



 強くなったわけではない。


 剣の腕が伸びたわけでもない。


 恐怖を克服したわけでもない。



 だが、彼は逃げる理由を知ったうえで、残る理由を選ぶようになった。



 それを人は、何と呼ぶのか。



 ノエルにはまだ分からなかった。



「ノエルさん」


 ライナスが言った。



「俺、あなたを助けます」


「不要です」


「でしょうね」


「本当に不要です。私が悪役でなければ、あなたが守れない」


「それでも、助けたいと思いました」


「思うだけにしてください」


 ライナスは少しだけ笑った。



「あなたって、本当に最低ですね」


「はい」


「でも」


 彼は鉄格子から手を離した。



「トマの名前を書いてくれて、ありがとうございました」


 ノエルは答えなかった。



 ライナスは頭を下げ、牢を離れた。



 足音が遠ざかる。



 ノエルは一人、石壁にもたれた。



 しばらくして、彼は小さく息を吐いた。



「降りろと言ったのに」


 誰にともなく呟く。



 その声は、地下牢の湿った空気に吸われた。



 翌朝、王都では処分が発表された。



 ライナス・ベルおよびミル渓谷救出に参加した兵たちには、軍規違反として謹慎と減俸が命じられた。


 ただし、救出された民の証言と現場指揮官フィン・ラウの報告により、厳罰は避けられた。


 後衛として散ったトマ・リードらには、王国兵としての記録と遺族への補償が与えられることになった。



 そしてノエル・アルバートは、引き続き拘束された。



 表向きには、偽りの英雄を作り、王国を混乱させた危険な記録官として。



 その布告を読んだ民は怒り、困惑し、また語り始めた。



 悪いのは記録官だ。


 ライナスは利用された。


 でも、ライナスが救ったのは本当だ。


 怖いまま立つと言ったのも本当だ。


 なら、俺たちは何を信じればいい。



 答えは簡単ではなかった。



 だからこそ、深く残った。



 王城の地下では、ノエルが自分の名が汚れていく音を聞いていた。



 王城の上では、エリシアがその汚名を許可した自分の罪を抱えていた。



 記録室では、ユリアンが表の記録と裏の記録を二つに分けて書き始めた。



 酒場では、セラがまだ歌わなかった。



 兵舎では、ライナスが傷だらけの盾を持ち上げた。



 星形の傷。


 矢傷。


 泥。


 血。



 そのすべてが、以前より重い。



 だが、今の彼には分かっていた。



 この盾は、自分一人のものではない。



 トマの軽口も。


 救えなかった者の声も。


 ノエルの嘘も。


 民の祈りも。


 すべてが、この傷に重なっている。



 ライナスは盾を背負い、兵舎の外へ出た。



 空には、昼の光があった。



 星は見えない。



 それでも人は、見えないものを信じて歩く。



 彼はまだ英雄ではない。



 だが、もう逃げるだけの兵士でもなかった。

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