第9話 白橋の前夜
帝国軍が、白橋へ向かっている。
その報せが王都セレンディアに届いた時、街は不思議なほど静かだった。
泣き叫ぶ者は少なかった。
怒鳴る者も少なかった。
荷をまとめて西へ逃げようとする者も、以前よりは少ない。
恐怖が消えたわけではない。
むしろ、恐怖は濃くなっていた。
アグニス砦は落ちた。
星盾村も落ちた。
ミル渓谷砦も落ちた。
帝国軍は一つずつ、確かにリステリアの骨を折ってきた。
次は白橋。
セイル川に架かる古い石橋。
建国王が追い詰められた場所。
名もなき盾持ち兵が、王を逃がすために残ったという伝説の地。
王都セレンディアを守る、最後の大きな防衛線だった。
そこを抜かれれば、王都の城壁は帝国軍の槌を受ける。
誰もが、それを知っていた。
だから王都は静かだった。
人は、本当に大きなものが迫る時、案外叫べない。
ただ、息を潜める。
王城の軍議室では、白橋周辺の地図が広げられていた。
老将ガレス・ヴォルンは、疲れた顔で駒を動かしている。
「帝国本隊は三日以内に白橋東岸へ到達する」
彼は言った。
「先遣隊はすでに周辺の浅瀬を探っている。工兵も確認された。正面突破だけではなく、仮橋か渡河も考えているな」
エリシア王女が問う。
「こちらの防備は」
「橋上に盾隊。西岸に弓兵。北側の浅瀬には杭と逆茂木。南は川幅が広いが、油断はできん。民兵は後方で予備。貴族私兵は左右翼に置く」
「持ちますか」
その問いに、ガレスはすぐには答えなかった。
沈黙の長さが、答えに近かった。
「持たせる」
老将は言った。
勝てる、とは言わない。
持たせる。
それが、この戦の全てだった。
ヴァルハルト帝国を滅ぼす必要はない。
帝国軍を完全に破る必要もない。
ただ、白橋で足を止める。
一日。
二日。
三日。
帝国の補給を伸ばし、北方戦線からの不穏な報せが帝国本国へ届き、王都攻略の費用が高すぎるとヴィクトル・アーベントに計算させる。
そのための戦だった。
マルグリット・ヴェインが、静かに扇を開いた。
「白橋で民兵を使うのですか」
「使う」
ガレスは短く答えた。
「正規兵だけでは数が足りん」
「逃げれば、橋上で崩れます」
「逃がさない配置にする」
「それは、死ねという配置ですわ」
「そうだ」
ガレスはマルグリットを見た。
「だが、全員を死なせる配置ではない。崩れる場所を作れば、もっと死ぬ」
マルグリットは反論しなかった。
彼女は戦場を知っているわけではない。
だが、数字は読める。
この戦で誰も死なない道などないことは、分かっていた。
エリシアは地図を見つめていた。
若い顔に、王族の仮面が乗っている。
その下で何を押し殺しているのか、誰も問えなかった。
「ノエルを呼びます」
彼女は言った。
広間が一瞬、凍った。
マルグリットが扇を止める。
「殿下」
「分かっています」
エリシアは静かに言った。
「彼は拘束中です。偽りの英雄を作り、王国を混乱させた罪で」
「ならば、なおさら」
「白橋で敗れれば、その罪を裁く国も残りません」
誰も言い返せなかった。
ガレスが低く息を吐く。
「使うのか」
「使います」
エリシアの声は揺れなかった。
「ノエル・アルバートを、白橋防衛に関する情報整理および布告作成のため、一時的に釈放します。戦後、改めて裁きを受けさせます」
マルグリットはしばらく王女を見ていた。
やがて、静かに言う。
「悪役を舞台へ戻すのですね」
「舞台が燃えているなら、役を選ぶ余裕はありません」
「民は納得しませんわ」
「民に知らせる必要はありません」
「隠し事は、後で高くつきます」
「存じています」
エリシアはそう答えた。
その顔は、以前より少しだけ王に近づいていた。
地下牢の扉が開いた時、ノエル・アルバートは座ったまま顔を上げた。
驚かなかった。
来ると分かっていたような顔だった。
「白橋ですか」
彼は言った。
近衛兵が眉をひそめる。
エリシアは牢の前に立った。
「帝国軍が動きました」
「予定より一日早いですね」
「分かっていたのですか」
「ヴィクトルなら、こちらがノエル・アルバートの処分で内側を向いている間に動きます。合理的です」
「あなたは、牢の中でも嫌なほど役に立ちますね」
「褒め言葉として受け取ります」
「褒めていません」
「皆、そう言います」
エリシアは近衛に扉を開けさせた。
鉄格子が軋む。
「一時的に釈放します。白橋防衛に関する情報整理、布告文、兵への伝達文を作成しなさい」
「条件は」
「戦後、再び拘束します」
「妥当です」
「逃げますか」
「逃げるには、私の悪名はまだ育ちきっていません」
エリシアは、ほんの一瞬だけ目を閉じた。
「ノエル」
「はい」
「私は、あなたを許したわけではありません」
「許されるつもりもありません」
「ですが、今はあなたが必要です」
「存じています」
「腹立たしいですね」
「よく言われます」
ノエルは立ち上がった。
数日牢にいたせいで、少し痩せて見えた。
だが目は変わっていない。
冷静で、皮肉で、人の心を戦場の一部として見る目。
エリシアはその目を、以前より少し恐れた。
そして以前より少し頼った。
王城西翼の記録室へ戻ると、ユリアン・クラインが立っていた。
机は整えられている。
紙は用途別に分けられ、各地の報告も時刻順に並んでいた。
ノエルの羽根ペンも、元の場所に置かれている。
ユリアンの目は赤かった。
「お帰りなさい、先生」
「一時的にだ」
「それでも、です」
「記録は」
「表と裏、両方続けています」
ノエルは少しだけ目を細めた。
「余計なことを」
「先生に似ました」
「それは不幸だ」
「僕もそう思います」
ユリアンはそう言って、初めて少し笑った。
ノエルは机に座る。
懐かしむ時間はない。
「白橋の兵数」
「正規兵八百、民兵千二百、貴族私兵合わせて六百。弓兵三百弱。実戦に耐える兵は、その半分以下です」
「帝国軍は」
「本隊五千以上。全てが白橋に投入されるわけではありませんが、正面だけで二千は来るとガレス将軍が」
「補給状況」
「帝国側は灰羽街道に補給拠点を三つ。こちらは王都から白橋までの輸送路を確保。ただし食料は長期戦に耐えません」
「北方戦線の報せは」
「不確定ですが、帝国北部で反乱の兆しあり。商人経由の情報なので信頼度は低いです」
「低くても使える」
ノエルは即座に言った。
ユリアンは頷き、紙を差し出す。
「セラさんが戻っています。灰羽街道の宿場で、帝国兵が北方の噂を気にしていると」
「彼女は生きて戻るのが上手いな」
「本人は、死んだら歌代を取り損ねるからと言っていました」
「彼女らしい」
ノエルは紙を並べた。
帝国は強い。
白橋の戦いでも、正しく攻めてくる。
正面に圧力をかけ、浅瀬を探り、工兵を使い、弓兵でこちらの盾隊を削るだろう。
ヴィクトル・アーベントは、英雄の噂に怯えて突撃するような男ではない。
だから、こちらは勝とうとしてはならない。
勝つのではない。
時間を奪う。
橋の石を壊しすぎず、渡りにくくする。
浅瀬に罠を作る。
夜間に少数で騒ぎを起こし、帝国軍を眠らせない。
北方反乱の噂を捕虜経由で流す。
帝国の補給隊に、占領後の負担を囁かせる。
そして王都には、まだ折れていないという姿を見せ続ける。
戦は剣だけでなく、帳簿と睡眠と噂で決まる。
ノエルは、それを知っていた。
「兵への演説が必要です」
ユリアンが言った。
「誰の」
「ライナスさんの」
ノエルの手が止まった。
ユリアンは続ける。
「白橋へ向かう前に、兵たちは彼の言葉を待っています」
「待たせるな」
「では」
「言葉を与える」
ノエルは新しい紙を取った。
ユリアンが少し不安そうに見る。
「先生が書くんですか」
「他に誰がいる」
「ライナスさん本人では」
「彼に任せれば、また私の台本を破る」
「その方が届くかもしれません」
「届きすぎる」
ノエルは言った。
ユリアンは黙った。
その意味は、もう分かった。
ライナスの本当の言葉は、人を動かしすぎる。
ミル渓谷でそれが起きた。
人は彼についていき、そして死んだ。
白橋の前夜に必要なのは、兵を奮い立たせることだ。
だが、熱狂させすぎてはいけない。
橋の上で死ぬための酔いではなく、命令の中で踏みとどまる冷静な勇気が必要だった。
だからノエルは書いた。
白橋は、我らの墓ではない。
白橋は、王都へ至る道を狭める石である。
我らはここで帝国を滅ぼすのではない。
ただ、帝国に思い知らせる。
この小国を呑み込むには、あまりに骨が多いと。
ユリアンはその文を読み、静かに言った。
「これは、先生の言葉です」
「そうだ」
「ライナスさんは言いません」
「言わせる」
「またですか」
ノエルはペンを止めた。
「今回は、必要だ」
「今までも、そう言っていました」
「そうだ」
ユリアンは唇を噛んだ。
「先生は、ライナスさんを守るために悪役になったんですよね」
「そのつもりだった」
「なら、どうしてまた彼を使うんですか」
「白橋で負ければ、守る相手も国もなくなる」
ノエルの声は冷たかった。
しかし、その冷たさの奥に疲れがあった。
「ユリアン。私はライナスを守りたい。だが、ライナスだけを守ることはできない。王都も、兵も、民も、王女も、ガレスも、全てが同じ橋の上にいる」
「だから、また嘘を」
「違う」
ノエルは書きかけの紙を見た。
「今度は嘘ではない。だが、彼の言葉でもない」
「それが一番危ういです」
ユリアンは言った。
ノエルは、少しだけ目を伏せた。
「成長したな」
「喜べません」
「私もだ」
その日の夕方、ライナス・ベルが記録室に来た。
謹慎は解かれていない。
形式上は、彼はまだ処罰中だった。
だが、白橋が迫る今、誰も彼を兵舎に閉じ込めておくことはできなかった。
彼は以前より痩せていた。
目の下に影がある。
だが、背の盾はしっかりと括られていた。
ノエルは紙を差し出した。
「明日の出陣前、兵たちに読んでください」
ライナスは受け取った。
ゆっくりと目を通す。
その間、記録室は静かだった。
ユリアンは息を潜めている。
読み終えたライナスは、紙を畳まなかった。
返しもしなかった。
ただ、じっと見つめていた。
「良い文だと思います」
彼は言った。
ノエルは少しだけ眉を動かした。
「意外ですね」
「本当に、良い文です。何をすればいいか、分かりやすい。勝つんじゃなくて、時間を稼ぐ。帝国に思い知らせる。白橋を墓にしない」
「なら」
「でも、俺の言葉じゃありません」
ノエルは黙った。
ライナスは顔を上げる。
「俺は、もう誰かの言葉を読んで立つことはできません」
「あなたの言葉は、人を動かしすぎる」
「知っています」
「ミル渓谷で、それを思い知ったはずです」
「はい」
ライナスの顔に痛みが走った。
トマの名は、そこにあった。
「だからこそ、明日は自分の言葉で話します」
「なぜです」
「誰かを酔わせないためです」
ノエルは目を細めた。
ライナスは続けた。
「俺が英雄みたいな言葉を読めば、皆は死ぬことを格好いいことだと思うかもしれない。あなたの文は正しい。でも、俺が読むと違う意味になる」
「では、何を話すつもりですか」
「分かりません」
「分からない?」
「はい」
「白橋の前夜に、分からない言葉へ兵を預けるのですか」
「そうです」
ノエルの声が低くなった。
「それは無責任です」
「はい」
「兵が崩れれば、王都が落ちます」
「はい」
「あなたは、自分が何を背負っているのか分かっていますか」
「分かっていません」
ライナスは正直に言った。
「全部分かっていたら、たぶん立てません」
ノエルは息を止めた。
ライナスは手の中の紙を見た。
「ノエルさん。俺はあなたを恨んでいます」
「正常です」
「でも、感謝もしています」
「異常です」
「そうかもしれません」
ライナスは小さく笑った。
「あなたが俺を作った。だから、俺はここまで来てしまった。でも、ここから先は、俺が選びます」
彼は紙を両手で持った。
ユリアンが小さく息を呑む。
ライナスは、ノエルの書いた最後の演説台本を破った。
乾いた音がした。
一度。
もう一度。
紙は四つに裂け、床に落ちた。
ノエルは動かなかった。
怒ることもできた。
止めることもできた。
だが、何も言わなかった。
ライナスは頭を下げた。
「すみません」
「謝るくらいなら破らないことです」
「それは、できません」
「でしょうね」
ノエルは、床に落ちた紙片を見た。
自分の言葉が破られた。
だが、不思議と怒りはなかった。
むしろ、どこかで安堵していた。
作った英雄が、作った者の手を離れる。
それは怖い。
だが、そうでなければ本物にはならない。
「ライナス」
ノエルは言った。
「はい」
「明日、兵に死ねとは言わないでください」
「言いません」
「勝てるとも言わないでください」
「言えません」
「自分を英雄だと言わないでください」
「絶対に言いません」
「なら、好きにしなさい」
ライナスは少しだけ目を見開いた。
「いいんですか」
「止めても、あなたは話すでしょう」
「はい」
「なら、記録するだけです」
ライナスは静かに頷いた。
彼が出て行った後、ユリアンが床の紙片を拾った。
「先生」
「何だ」
「怒っていないんですか」
「怒っている」
「そう見えません」
「私も成長したらしい」
ノエルは椅子にもたれた。
「ユリアン」
「はい」
「明日の演説は、最初から最後まで記録しろ。一語も逃すな」
「はい」
「表の記録にも、裏の記録にもだ」
ユリアンは顔を上げた。
「いいんですか」
「私の台本ではない。ならば、残す価値がある」
その夜、白橋へ向かう兵たちは王都の外に集められた。
広い野営地には、無数の火が灯っている。
正規兵。
民兵。
貴族私兵。
山岳斥候。
弓兵。
星盾村の避難民から志願した者。
アグニスの敗残兵。
装備は不揃いだった。
顔色も悪い。
震えている者もいた。
誰も、これから勝利の戦へ向かうとは思っていない。
ただ、白橋で止める。
そのために集まっていた。
ガレスは壇の横に立っていた。
エリシアは白い外套をまとい、その後ろに控えている。
マルグリットもいる。
セラは兵の間に紛れ、竪琴を抱えていた。
そしてノエルは、少し離れた影の中に立っていた。
表向きには、彼はまだ罪人だ。
この場にいることも、公にはされない。
だが、ユリアンだけは隣にいた。
記録板を抱え、震える手でペンを構えている。
ライナス・ベルが壇に上がった。
歓声はなかった。
以前なら、星盾の兵と誰かが叫んだだろう。
今は違う。
兵士たちは知っている。
彼は英雄ではない。
本人がそう言った。
だからこそ、皆が彼を見ていた。
ライナスは壇の上で、しばらく黙っていた。
火の光が、傷だらけの盾を照らしている。
星形の傷。
星盾村で増えた矢傷。
ミル渓谷でついた血の跡。
その盾は、もう綺麗な象徴ではなかった。
重い記録だった。
ライナスは口を開いた。
「俺は、何を言えばいいのか分かりません」
最初の一言で、兵たちが静まり返った。
「ノエルさんが、良い言葉を書いてくれました。白橋は墓じゃない。帝国に、この国を呑み込むには骨が多いと思い知らせる。そういう話でした」
影の中で、ノエルは目を伏せた。
ライナスは続ける。
「正しいと思います。でも、俺がそれを読むと、たぶん嘘になります」
彼は兵たちを見回した。
「俺は、白橋に立つのが怖いです」
誰も笑わなかった。
「帝国兵は強いです。アグニスで見ました。星盾村でも、ミル渓谷でも見ました。あいつらは馬鹿じゃない。油断もしない。俺たちが歌っている間に、ちゃんと道を測って、橋を見て、兵糧を運んでいます」
それは、演説としては異様だった。
敵を弱く言わない。
自軍を強く言わない。
勝利を約束しない。
だが、兵たちは聞いていた。
彼らも分かっていたからだ。
帝国は強い。
それを嘘で隠される方が、怖かった。
「俺は、皆に死ねと言えません」
ライナスの声は震えていた。
「国のために死ねとも、王都のために死ねとも、星盾のために死ねとも言えません。俺は、そんなことを言える人間じゃありません」
エリシアが静かに目を伏せた。
ガレスは腕を組んだまま、動かない。
「でも」
ライナスは息を吸った。
「俺は、逃げるなとも言えません」
兵士たちの間に、小さなざわめきが走った。
「逃げたい気持ちは分かります。俺も逃げたい。今すぐ逃げたい。白橋になんか行きたくない。トマがいない場所で、また誰かを置いていくのが怖い」
トマの名が出た瞬間、アグニスの敗残兵たちが顔を上げた。
「俺は、全部を救えませんでした。アグニスでも、星盾村でも、ミル渓谷でも。助けられた人がいる。でも、助けられなかった人もいます」
ライナスの手が、盾の縁を握る。
「たぶん、白橋でもそうです」
その言葉は残酷だった。
しかし、誰も目を逸らさなかった。
「俺たちは、全員を救えないかもしれません。王都も、無傷では済まないかもしれません。今日ここにいる人の中にも、明日戻れない人がいるかもしれません」
夜風が、火を揺らした。
「それでも」
ライナスは顔を上げた。
「俺たちが今逃げたら、もっと多くの人が逃げる場所を失います」
誰かが息を呑んだ。
「王都には、星盾村から逃げた人がいます。アグニスから逃げた人がいます。ミル渓谷から逃げた人がいます。まだ歩けない人がいます。子供がいます。年寄りがいます。俺たちが白橋で一歩残れば、その人たちが一歩遠くへ逃げられるかもしれない」
ライナスは、ゆっくりと言った。
「俺たちの一歩は、誰かの明日になるかもしれない」
その言葉は、静かに野営地へ落ちた。
派手ではない。
勇ましくもない。
だが、兵士たちの足元に染みた。
「だから俺は、白橋に立ちます」
ライナスは言った。
「英雄だからじゃありません。怖くないからでもありません。勝てると信じているからでもありません」
彼は傷だらけの盾を持ち上げた。
「俺が一歩残れば、誰かが一歩逃げられるかもしれない。そう思うから立ちます」
兵たちは黙っていた。
「皆に、死んでほしくありません」
ライナスの声が震えた。
「でも、皆に頼みます」
彼は頭を下げた。
「怖いままでいい。震えたままでいい。泣いてもいい。俺もそうです」
そして顔を上げる。
「明日、白橋で、一歩だけ残ってください」
沈黙。
長い沈黙。
やがて、槍の石突きが地面を叩いた。
どん。
誰かが続いた。
どん。
また一人。
どん。
音は、野営地全体に広がっていった。
どん。
どん。
どん。
以前よりも低く。
以前よりも重く。
歓声ではない。
熱狂でもない。
死に酔う音でもない。
生きて戻りたい者たちが、それでも一歩残ると決める音だった。
ガレスが、静かに目を閉じた。
「悪くない」
彼は呟いた。
マルグリットは扇を閉じたまま、ライナスを見ていた。
「危ういですわ」
エリシアが聞く。
「また、それですか」
「ええ」
マルグリットの声は、以前より少しだけ柔らかかった。
「ですが、今夜だけは、その危うさに国が支えられています」
セラは竪琴を鳴らさなかった。
歌にするには早すぎると思った。
これはまだ歌ではない。
明日、生き残った者がいれば、いつか歌になる。
影の中で、ノエルはユリアンに言った。
「書けたか」
「はい」
ユリアンの声は震えていた。
「一語も逃していません」
「よろしい」
「先生」
「何だ」
「この演説は、何と題しますか」
ノエルは少し考えた。
星盾の兵、白橋に立つ。
それでは違う。
英雄ではない者、兵に語る。
それでも足りない。
ライナスの言葉は、英雄の言葉ではない。
命令でもない。
祈りでもない。
ただ、恐れる者が恐れる者へ向けて差し出した手だった。
「こう書け」
ノエルは言った。
「白橋の前夜、ライナス・ベル、一歩を乞う」
ユリアンは頷き、その題を書いた。
夜が更ける。
兵たちは火のそばで眠ろうとした。
眠れない者もいた。
家族へ手紙を書く者もいた。
黙って盾を磨く者もいた。
ライナスは一人、野営地の端で白橋の方角を見ていた。
そこへノエルが歩いてきた。
近衛は少し離れた場所で止まる。
罪人と英雄ではない兵士。
その二人が、夜の端で並んだ。
「良い演説でした」
ノエルが言った。
ライナスは少し驚いた顔をした。
「あなたに褒められると、落ち着きません」
「私も落ち着きません」
「台本を破ったのに」
「破られる程度の台本でした」
「そんなことはありません。良い文でした」
「なら、なぜ破ったのです」
「俺が読むには、立派すぎました」
ノエルは少しだけ笑った。
「あなたはいつも、私の文章を台無しにする」
「すみません」
「褒めています」
「分かりにくいです」
「よく言われます」
二人はしばらく黙った。
遠くで、兵士が槍の石突きで地面を軽く叩く音がした。
眠れない誰かが、自分を落ち着かせているのだろう。
ライナスが言った。
「ノエルさん」
「はい」
「明日、俺は死ぬかもしれません」
「はい」
「あなたも、そう思っていますか」
「思っています」
「正直ですね」
「嘘をつく場面ではありません」
ライナスは小さく頷いた。
「もし俺が死んだら」
「記録します」
「格好よくしないでください」
「難しい注文です」
「お願いします」
ライナスは真剣だった。
「俺は、最後まで怖かったと書いてください。逃げたかったと。英雄なんかじゃなかったと」
「それでは、民が納得しません」
「それでも」
ライナスは白橋の方を見る。
「その方が、俺を見て立った人たちに近いと思います」
ノエルは黙った。
ライナスの言葉は、相変わらず扱いにくい。
だが、正しい。
「分かりました」
ノエルは言った。
「あなたが死んだら、怖がりの兵士として記録します」
「ありがとうございます」
「ただし」
「ただし?」
「後世の吟遊詩人が、それを守るとは限りません」
ライナスは困ったように笑った。
「セラさんなら、盛りますね」
「確実に」
「困ります」
「諦めなさい。あなたはもう、半分ほど民のものです」
ライナスはため息をついた。
「半分で済みますか」
「今夜の演説で、七割ほどになりました」
「言わなければよかった」
「言わなければ、もっと後悔したでしょう」
「はい」
ライナスは静かに答えた。
しばらくして、彼はノエルを見た。
「ノエルさんは、明日どこにいるんですか」
「王都と白橋の間です。伝令の整理、布告の準備、捕虜経由の噂の処理」
「戦場には来ないんですか」
「私は剣を持てません」
「知っています」
「それに、私が橋に立っても邪魔です」
「それも知っています」
「では、なぜ聞くのです」
ライナスは少し迷った。
「あなたにも、どこかに立っていてほしいと思ったんです」
ノエルは答えなかった。
その言葉は、不意打ちだった。
ライナスは続けた。
「俺は、あなたが嫌いです」
「何度目でしょうか」
「でも、あなたが作った嘘がなければ、俺はここにいませんでした」
「その方が良かったかもしれません」
「まだ、それは分かりません」
ライナスは白橋の方を見た。
「明日、分かるかもしれません」
ノエルは夜空を見上げた。
星が出ていた。
彼は相変わらず、星を信じていない。
死んだ英雄の魂など、空にはない。
あるのは遠い光だけだ。
だが地上では、人がその光に意味を与える。
ならば、明日の白橋で何が起きるのか。
それを決めるのは星ではない。
震える足で、橋に立つ人間たちだ。
「ライナス」
ノエルは言った。
「はい」
「逃げても構いません」
ライナスは驚いたように彼を見た。
ノエルは続ける。
「本当に駄目だと思ったら、逃げなさい。死んで完成する伝説など、私は好みません」
「記録官なのに?」
「記録官だからです。死者は書きやすい。生きている者は面倒です」
「俺は面倒ですか」
「非常に」
ライナスは、少しだけ笑った。
「じゃあ、できるだけ面倒なまま戻ります」
「そうしてください」
二人は、それ以上話さなかった。
夜明け前、白橋へ向かう軍が動き出した。
槍の列。
盾の列。
弓兵の荷車。
負傷者用の空の荷車。
水樽。
矢束。
王家の旗。
各貴族家の旗。
そして、星痕の盾を背負った一人の兵士。
ライナスは先頭ではない。
指揮官でもない。
王族でも貴族でもない。
ただ、橋に立つ兵の一人として歩いた。
それでも兵士たちは、彼の背を見た。
怖いままでいい。
一歩だけ残れ。
誰かが小さく呟いた。
別の誰かが頷いた。
王都の城壁の上で、エリシアは軍を見送った。
マルグリットは、その隣で黙っていた。
ガレスはすでに白橋へ向かっている。
ノエルは記録室へ戻り、白紙を一枚置いた。
題だけを書く。
白橋の戦い。
その下は、まだ空白だった。
この空白を埋めるのは、ノエルではない。
ガレスの采配。
エリシアの覚悟。
マルグリットの支援。
セラの歌。
ユリアンの記録。
そしてライナスの一歩。
多くの人間の選択が、これからそこに刻まれる。
ノエルは羽根ペンを持ち、窓の外を見た。
東の空が白み始めている。
白橋の向こうから、帝国が来る。
王都には、英雄はいなかった。
だが今、橋へ向かう兵たちの中に、一人だけ、英雄ではないと言い続ける若者がいる。
その若者の背を見て、兵たちは歩いている。
ならば、もう十分だった。
伝説が始まる時、本人だけはいつも、それを伝説だと知らない。




