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第9話 白橋の前夜

 帝国軍が、白橋へ向かっている。



 その報せが王都セレンディアに届いた時、街は不思議なほど静かだった。



 泣き叫ぶ者は少なかった。


 怒鳴る者も少なかった。


 荷をまとめて西へ逃げようとする者も、以前よりは少ない。



 恐怖が消えたわけではない。



 むしろ、恐怖は濃くなっていた。



 アグニス砦は落ちた。


 星盾村も落ちた。


 ミル渓谷砦も落ちた。



 帝国軍は一つずつ、確かにリステリアの骨を折ってきた。



 次は白橋。



 セイル川に架かる古い石橋。


 建国王が追い詰められた場所。


 名もなき盾持ち兵が、王を逃がすために残ったという伝説の地。



 王都セレンディアを守る、最後の大きな防衛線だった。



 そこを抜かれれば、王都の城壁は帝国軍の槌を受ける。



 誰もが、それを知っていた。



 だから王都は静かだった。



 人は、本当に大きなものが迫る時、案外叫べない。



 ただ、息を潜める。



 王城の軍議室では、白橋周辺の地図が広げられていた。



 老将ガレス・ヴォルンは、疲れた顔で駒を動かしている。



「帝国本隊は三日以内に白橋東岸へ到達する」


 彼は言った。


「先遣隊はすでに周辺の浅瀬を探っている。工兵も確認された。正面突破だけではなく、仮橋か渡河も考えているな」


 エリシア王女が問う。



「こちらの防備は」


「橋上に盾隊。西岸に弓兵。北側の浅瀬には杭と逆茂木。南は川幅が広いが、油断はできん。民兵は後方で予備。貴族私兵は左右翼に置く」


「持ちますか」


 その問いに、ガレスはすぐには答えなかった。



 沈黙の長さが、答えに近かった。



「持たせる」


 老将は言った。



 勝てる、とは言わない。



 持たせる。



 それが、この戦の全てだった。



 ヴァルハルト帝国を滅ぼす必要はない。


 帝国軍を完全に破る必要もない。


 ただ、白橋で足を止める。



 一日。


 二日。


 三日。



 帝国の補給を伸ばし、北方戦線からの不穏な報せが帝国本国へ届き、王都攻略の費用が高すぎるとヴィクトル・アーベントに計算させる。



 そのための戦だった。



 マルグリット・ヴェインが、静かに扇を開いた。



「白橋で民兵を使うのですか」


「使う」


 ガレスは短く答えた。


「正規兵だけでは数が足りん」


「逃げれば、橋上で崩れます」


「逃がさない配置にする」


「それは、死ねという配置ですわ」


「そうだ」


 ガレスはマルグリットを見た。



「だが、全員を死なせる配置ではない。崩れる場所を作れば、もっと死ぬ」


 マルグリットは反論しなかった。



 彼女は戦場を知っているわけではない。


 だが、数字は読める。



 この戦で誰も死なない道などないことは、分かっていた。



 エリシアは地図を見つめていた。



 若い顔に、王族の仮面が乗っている。


 その下で何を押し殺しているのか、誰も問えなかった。



「ノエルを呼びます」


 彼女は言った。



 広間が一瞬、凍った。



 マルグリットが扇を止める。



「殿下」


「分かっています」


 エリシアは静かに言った。


「彼は拘束中です。偽りの英雄を作り、王国を混乱させた罪で」


「ならば、なおさら」


「白橋で敗れれば、その罪を裁く国も残りません」


 誰も言い返せなかった。



 ガレスが低く息を吐く。



「使うのか」


「使います」


 エリシアの声は揺れなかった。



「ノエル・アルバートを、白橋防衛に関する情報整理および布告作成のため、一時的に釈放します。戦後、改めて裁きを受けさせます」


 マルグリットはしばらく王女を見ていた。



 やがて、静かに言う。



「悪役を舞台へ戻すのですね」


「舞台が燃えているなら、役を選ぶ余裕はありません」


「民は納得しませんわ」


「民に知らせる必要はありません」


「隠し事は、後で高くつきます」


「存じています」


 エリシアはそう答えた。



 その顔は、以前より少しだけ王に近づいていた。



 地下牢の扉が開いた時、ノエル・アルバートは座ったまま顔を上げた。



 驚かなかった。



 来ると分かっていたような顔だった。



「白橋ですか」


 彼は言った。



 近衛兵が眉をひそめる。



 エリシアは牢の前に立った。



「帝国軍が動きました」


「予定より一日早いですね」


「分かっていたのですか」


「ヴィクトルなら、こちらがノエル・アルバートの処分で内側を向いている間に動きます。合理的です」


「あなたは、牢の中でも嫌なほど役に立ちますね」


「褒め言葉として受け取ります」


「褒めていません」


「皆、そう言います」


 エリシアは近衛に扉を開けさせた。



 鉄格子が軋む。



「一時的に釈放します。白橋防衛に関する情報整理、布告文、兵への伝達文を作成しなさい」


「条件は」


「戦後、再び拘束します」


「妥当です」


「逃げますか」


「逃げるには、私の悪名はまだ育ちきっていません」


 エリシアは、ほんの一瞬だけ目を閉じた。



「ノエル」


「はい」


「私は、あなたを許したわけではありません」


「許されるつもりもありません」


「ですが、今はあなたが必要です」


「存じています」


「腹立たしいですね」


「よく言われます」


 ノエルは立ち上がった。



 数日牢にいたせいで、少し痩せて見えた。


 だが目は変わっていない。



 冷静で、皮肉で、人の心を戦場の一部として見る目。



 エリシアはその目を、以前より少し恐れた。


 そして以前より少し頼った。



 王城西翼の記録室へ戻ると、ユリアン・クラインが立っていた。



 机は整えられている。


 紙は用途別に分けられ、各地の報告も時刻順に並んでいた。


 ノエルの羽根ペンも、元の場所に置かれている。



 ユリアンの目は赤かった。



「お帰りなさい、先生」


「一時的にだ」


「それでも、です」


「記録は」


「表と裏、両方続けています」


 ノエルは少しだけ目を細めた。



「余計なことを」


「先生に似ました」


「それは不幸だ」


「僕もそう思います」


 ユリアンはそう言って、初めて少し笑った。



 ノエルは机に座る。



 懐かしむ時間はない。



「白橋の兵数」


「正規兵八百、民兵千二百、貴族私兵合わせて六百。弓兵三百弱。実戦に耐える兵は、その半分以下です」


「帝国軍は」


「本隊五千以上。全てが白橋に投入されるわけではありませんが、正面だけで二千は来るとガレス将軍が」


「補給状況」


「帝国側は灰羽街道に補給拠点を三つ。こちらは王都から白橋までの輸送路を確保。ただし食料は長期戦に耐えません」


「北方戦線の報せは」


「不確定ですが、帝国北部で反乱の兆しあり。商人経由の情報なので信頼度は低いです」


「低くても使える」


 ノエルは即座に言った。



 ユリアンは頷き、紙を差し出す。



「セラさんが戻っています。灰羽街道の宿場で、帝国兵が北方の噂を気にしていると」


「彼女は生きて戻るのが上手いな」


「本人は、死んだら歌代を取り損ねるからと言っていました」


「彼女らしい」


 ノエルは紙を並べた。



 帝国は強い。


 白橋の戦いでも、正しく攻めてくる。


 正面に圧力をかけ、浅瀬を探り、工兵を使い、弓兵でこちらの盾隊を削るだろう。


 ヴィクトル・アーベントは、英雄の噂に怯えて突撃するような男ではない。



 だから、こちらは勝とうとしてはならない。



 勝つのではない。


 時間を奪う。



 橋の石を壊しすぎず、渡りにくくする。


 浅瀬に罠を作る。


 夜間に少数で騒ぎを起こし、帝国軍を眠らせない。


 北方反乱の噂を捕虜経由で流す。


 帝国の補給隊に、占領後の負担を囁かせる。


 そして王都には、まだ折れていないという姿を見せ続ける。



 戦は剣だけでなく、帳簿と睡眠と噂で決まる。



 ノエルは、それを知っていた。



「兵への演説が必要です」


 ユリアンが言った。



「誰の」


「ライナスさんの」


 ノエルの手が止まった。



 ユリアンは続ける。



「白橋へ向かう前に、兵たちは彼の言葉を待っています」


「待たせるな」


「では」


「言葉を与える」


 ノエルは新しい紙を取った。



 ユリアンが少し不安そうに見る。



「先生が書くんですか」


「他に誰がいる」


「ライナスさん本人では」


「彼に任せれば、また私の台本を破る」


「その方が届くかもしれません」


「届きすぎる」


 ノエルは言った。



 ユリアンは黙った。



 その意味は、もう分かった。



 ライナスの本当の言葉は、人を動かしすぎる。



 ミル渓谷でそれが起きた。


 人は彼についていき、そして死んだ。



 白橋の前夜に必要なのは、兵を奮い立たせることだ。


 だが、熱狂させすぎてはいけない。



 橋の上で死ぬための酔いではなく、命令の中で踏みとどまる冷静な勇気が必要だった。



 だからノエルは書いた。



 白橋は、我らの墓ではない。


 白橋は、王都へ至る道を狭める石である。


 我らはここで帝国を滅ぼすのではない。


 ただ、帝国に思い知らせる。


 この小国を呑み込むには、あまりに骨が多いと。



 ユリアンはその文を読み、静かに言った。



「これは、先生の言葉です」


「そうだ」


「ライナスさんは言いません」


「言わせる」


「またですか」


 ノエルはペンを止めた。



「今回は、必要だ」


「今までも、そう言っていました」


「そうだ」


 ユリアンは唇を噛んだ。



「先生は、ライナスさんを守るために悪役になったんですよね」


「そのつもりだった」


「なら、どうしてまた彼を使うんですか」


「白橋で負ければ、守る相手も国もなくなる」


 ノエルの声は冷たかった。



 しかし、その冷たさの奥に疲れがあった。



「ユリアン。私はライナスを守りたい。だが、ライナスだけを守ることはできない。王都も、兵も、民も、王女も、ガレスも、全てが同じ橋の上にいる」


「だから、また嘘を」


「違う」


 ノエルは書きかけの紙を見た。



「今度は嘘ではない。だが、彼の言葉でもない」


「それが一番危ういです」


 ユリアンは言った。



 ノエルは、少しだけ目を伏せた。



「成長したな」


「喜べません」


「私もだ」


 その日の夕方、ライナス・ベルが記録室に来た。



 謹慎は解かれていない。


 形式上は、彼はまだ処罰中だった。



 だが、白橋が迫る今、誰も彼を兵舎に閉じ込めておくことはできなかった。



 彼は以前より痩せていた。


 目の下に影がある。


 だが、背の盾はしっかりと括られていた。



 ノエルは紙を差し出した。



「明日の出陣前、兵たちに読んでください」


 ライナスは受け取った。



 ゆっくりと目を通す。



 その間、記録室は静かだった。



 ユリアンは息を潜めている。



 読み終えたライナスは、紙を畳まなかった。


 返しもしなかった。



 ただ、じっと見つめていた。



「良い文だと思います」


 彼は言った。



 ノエルは少しだけ眉を動かした。



「意外ですね」


「本当に、良い文です。何をすればいいか、分かりやすい。勝つんじゃなくて、時間を稼ぐ。帝国に思い知らせる。白橋を墓にしない」


「なら」


「でも、俺の言葉じゃありません」


 ノエルは黙った。



 ライナスは顔を上げる。



「俺は、もう誰かの言葉を読んで立つことはできません」


「あなたの言葉は、人を動かしすぎる」


「知っています」


「ミル渓谷で、それを思い知ったはずです」


「はい」


 ライナスの顔に痛みが走った。



 トマの名は、そこにあった。



「だからこそ、明日は自分の言葉で話します」


「なぜです」


「誰かを酔わせないためです」


 ノエルは目を細めた。



 ライナスは続けた。



「俺が英雄みたいな言葉を読めば、皆は死ぬことを格好いいことだと思うかもしれない。あなたの文は正しい。でも、俺が読むと違う意味になる」


「では、何を話すつもりですか」


「分かりません」


「分からない?」


「はい」


「白橋の前夜に、分からない言葉へ兵を預けるのですか」


「そうです」


 ノエルの声が低くなった。



「それは無責任です」


「はい」


「兵が崩れれば、王都が落ちます」


「はい」


「あなたは、自分が何を背負っているのか分かっていますか」


「分かっていません」


 ライナスは正直に言った。



「全部分かっていたら、たぶん立てません」


 ノエルは息を止めた。



 ライナスは手の中の紙を見た。



「ノエルさん。俺はあなたを恨んでいます」


「正常です」


「でも、感謝もしています」


「異常です」


「そうかもしれません」


 ライナスは小さく笑った。



「あなたが俺を作った。だから、俺はここまで来てしまった。でも、ここから先は、俺が選びます」


 彼は紙を両手で持った。



 ユリアンが小さく息を呑む。



 ライナスは、ノエルの書いた最後の演説台本を破った。



 乾いた音がした。



 一度。


 もう一度。



 紙は四つに裂け、床に落ちた。



 ノエルは動かなかった。



 怒ることもできた。


 止めることもできた。


 だが、何も言わなかった。



 ライナスは頭を下げた。



「すみません」


「謝るくらいなら破らないことです」


「それは、できません」


「でしょうね」


 ノエルは、床に落ちた紙片を見た。



 自分の言葉が破られた。



 だが、不思議と怒りはなかった。



 むしろ、どこかで安堵していた。



 作った英雄が、作った者の手を離れる。



 それは怖い。



 だが、そうでなければ本物にはならない。



「ライナス」


 ノエルは言った。



「はい」


「明日、兵に死ねとは言わないでください」


「言いません」


「勝てるとも言わないでください」


「言えません」


「自分を英雄だと言わないでください」


「絶対に言いません」


「なら、好きにしなさい」


 ライナスは少しだけ目を見開いた。



「いいんですか」


「止めても、あなたは話すでしょう」


「はい」


「なら、記録するだけです」


 ライナスは静かに頷いた。



 彼が出て行った後、ユリアンが床の紙片を拾った。



「先生」


「何だ」


「怒っていないんですか」


「怒っている」


「そう見えません」


「私も成長したらしい」


 ノエルは椅子にもたれた。



「ユリアン」


「はい」


「明日の演説は、最初から最後まで記録しろ。一語も逃すな」


「はい」


「表の記録にも、裏の記録にもだ」


 ユリアンは顔を上げた。



「いいんですか」


「私の台本ではない。ならば、残す価値がある」


 その夜、白橋へ向かう兵たちは王都の外に集められた。



 広い野営地には、無数の火が灯っている。



 正規兵。


 民兵。


 貴族私兵。


 山岳斥候。


 弓兵。


 星盾村の避難民から志願した者。


 アグニスの敗残兵。



 装備は不揃いだった。


 顔色も悪い。


 震えている者もいた。



 誰も、これから勝利の戦へ向かうとは思っていない。



 ただ、白橋で止める。



 そのために集まっていた。



 ガレスは壇の横に立っていた。


 エリシアは白い外套をまとい、その後ろに控えている。


 マルグリットもいる。


 セラは兵の間に紛れ、竪琴を抱えていた。



 そしてノエルは、少し離れた影の中に立っていた。



 表向きには、彼はまだ罪人だ。


 この場にいることも、公にはされない。



 だが、ユリアンだけは隣にいた。


 記録板を抱え、震える手でペンを構えている。



 ライナス・ベルが壇に上がった。



 歓声はなかった。



 以前なら、星盾の兵と誰かが叫んだだろう。


 今は違う。



 兵士たちは知っている。



 彼は英雄ではない。


 本人がそう言った。



 だからこそ、皆が彼を見ていた。



 ライナスは壇の上で、しばらく黙っていた。



 火の光が、傷だらけの盾を照らしている。



 星形の傷。


 星盾村で増えた矢傷。


 ミル渓谷でついた血の跡。



 その盾は、もう綺麗な象徴ではなかった。



 重い記録だった。



 ライナスは口を開いた。



「俺は、何を言えばいいのか分かりません」


 最初の一言で、兵たちが静まり返った。



「ノエルさんが、良い言葉を書いてくれました。白橋は墓じゃない。帝国に、この国を呑み込むには骨が多いと思い知らせる。そういう話でした」


 影の中で、ノエルは目を伏せた。



 ライナスは続ける。



「正しいと思います。でも、俺がそれを読むと、たぶん嘘になります」


 彼は兵たちを見回した。



「俺は、白橋に立つのが怖いです」


 誰も笑わなかった。



「帝国兵は強いです。アグニスで見ました。星盾村でも、ミル渓谷でも見ました。あいつらは馬鹿じゃない。油断もしない。俺たちが歌っている間に、ちゃんと道を測って、橋を見て、兵糧を運んでいます」


 それは、演説としては異様だった。



 敵を弱く言わない。


 自軍を強く言わない。


 勝利を約束しない。



 だが、兵たちは聞いていた。



 彼らも分かっていたからだ。



 帝国は強い。



 それを嘘で隠される方が、怖かった。



「俺は、皆に死ねと言えません」


 ライナスの声は震えていた。



「国のために死ねとも、王都のために死ねとも、星盾のために死ねとも言えません。俺は、そんなことを言える人間じゃありません」


 エリシアが静かに目を伏せた。



 ガレスは腕を組んだまま、動かない。



「でも」


 ライナスは息を吸った。



「俺は、逃げるなとも言えません」


 兵士たちの間に、小さなざわめきが走った。



「逃げたい気持ちは分かります。俺も逃げたい。今すぐ逃げたい。白橋になんか行きたくない。トマがいない場所で、また誰かを置いていくのが怖い」


 トマの名が出た瞬間、アグニスの敗残兵たちが顔を上げた。



「俺は、全部を救えませんでした。アグニスでも、星盾村でも、ミル渓谷でも。助けられた人がいる。でも、助けられなかった人もいます」


 ライナスの手が、盾の縁を握る。



「たぶん、白橋でもそうです」


 その言葉は残酷だった。



 しかし、誰も目を逸らさなかった。



「俺たちは、全員を救えないかもしれません。王都も、無傷では済まないかもしれません。今日ここにいる人の中にも、明日戻れない人がいるかもしれません」


 夜風が、火を揺らした。



「それでも」


 ライナスは顔を上げた。



「俺たちが今逃げたら、もっと多くの人が逃げる場所を失います」


 誰かが息を呑んだ。



「王都には、星盾村から逃げた人がいます。アグニスから逃げた人がいます。ミル渓谷から逃げた人がいます。まだ歩けない人がいます。子供がいます。年寄りがいます。俺たちが白橋で一歩残れば、その人たちが一歩遠くへ逃げられるかもしれない」


 ライナスは、ゆっくりと言った。



「俺たちの一歩は、誰かの明日になるかもしれない」



 その言葉は、静かに野営地へ落ちた。



 派手ではない。


 勇ましくもない。


 だが、兵士たちの足元に染みた。



「だから俺は、白橋に立ちます」


 ライナスは言った。



「英雄だからじゃありません。怖くないからでもありません。勝てると信じているからでもありません」


 彼は傷だらけの盾を持ち上げた。



「俺が一歩残れば、誰かが一歩逃げられるかもしれない。そう思うから立ちます」


 兵たちは黙っていた。



「皆に、死んでほしくありません」


 ライナスの声が震えた。



「でも、皆に頼みます」


 彼は頭を下げた。



「怖いままでいい。震えたままでいい。泣いてもいい。俺もそうです」


 そして顔を上げる。



「明日、白橋で、一歩だけ残ってください」


 沈黙。



 長い沈黙。



 やがて、槍の石突きが地面を叩いた。



 どん。



 誰かが続いた。



 どん。



 また一人。



 どん。



 音は、野営地全体に広がっていった。



 どん。


 どん。


 どん。



 以前よりも低く。


 以前よりも重く。



 歓声ではない。


 熱狂でもない。


 死に酔う音でもない。



 生きて戻りたい者たちが、それでも一歩残ると決める音だった。



 ガレスが、静かに目を閉じた。



「悪くない」


 彼は呟いた。



 マルグリットは扇を閉じたまま、ライナスを見ていた。



「危ういですわ」


 エリシアが聞く。



「また、それですか」


「ええ」


 マルグリットの声は、以前より少しだけ柔らかかった。



「ですが、今夜だけは、その危うさに国が支えられています」


 セラは竪琴を鳴らさなかった。



 歌にするには早すぎると思った。



 これはまだ歌ではない。



 明日、生き残った者がいれば、いつか歌になる。



 影の中で、ノエルはユリアンに言った。



「書けたか」


「はい」


 ユリアンの声は震えていた。



「一語も逃していません」


「よろしい」


「先生」


「何だ」


「この演説は、何と題しますか」


 ノエルは少し考えた。



 星盾の兵、白橋に立つ。



 それでは違う。



 英雄ではない者、兵に語る。



 それでも足りない。



 ライナスの言葉は、英雄の言葉ではない。


 命令でもない。


 祈りでもない。



 ただ、恐れる者が恐れる者へ向けて差し出した手だった。



「こう書け」


 ノエルは言った。



「白橋の前夜、ライナス・ベル、一歩を乞う」



 ユリアンは頷き、その題を書いた。



 夜が更ける。



 兵たちは火のそばで眠ろうとした。


 眠れない者もいた。


 家族へ手紙を書く者もいた。


 黙って盾を磨く者もいた。



 ライナスは一人、野営地の端で白橋の方角を見ていた。



 そこへノエルが歩いてきた。



 近衛は少し離れた場所で止まる。


 罪人と英雄ではない兵士。


 その二人が、夜の端で並んだ。



「良い演説でした」


 ノエルが言った。



 ライナスは少し驚いた顔をした。



「あなたに褒められると、落ち着きません」


「私も落ち着きません」


「台本を破ったのに」


「破られる程度の台本でした」


「そんなことはありません。良い文でした」


「なら、なぜ破ったのです」


「俺が読むには、立派すぎました」


 ノエルは少しだけ笑った。



「あなたはいつも、私の文章を台無しにする」


「すみません」


「褒めています」


「分かりにくいです」


「よく言われます」


 二人はしばらく黙った。



 遠くで、兵士が槍の石突きで地面を軽く叩く音がした。


 眠れない誰かが、自分を落ち着かせているのだろう。



 ライナスが言った。



「ノエルさん」


「はい」


「明日、俺は死ぬかもしれません」


「はい」


「あなたも、そう思っていますか」


「思っています」


「正直ですね」


「嘘をつく場面ではありません」


 ライナスは小さく頷いた。



「もし俺が死んだら」


「記録します」


「格好よくしないでください」


「難しい注文です」


「お願いします」


 ライナスは真剣だった。



「俺は、最後まで怖かったと書いてください。逃げたかったと。英雄なんかじゃなかったと」


「それでは、民が納得しません」


「それでも」


 ライナスは白橋の方を見る。



「その方が、俺を見て立った人たちに近いと思います」


 ノエルは黙った。



 ライナスの言葉は、相変わらず扱いにくい。


 だが、正しい。



「分かりました」


 ノエルは言った。


「あなたが死んだら、怖がりの兵士として記録します」


「ありがとうございます」


「ただし」


「ただし?」


「後世の吟遊詩人が、それを守るとは限りません」


 ライナスは困ったように笑った。



「セラさんなら、盛りますね」


「確実に」


「困ります」


「諦めなさい。あなたはもう、半分ほど民のものです」


 ライナスはため息をついた。



「半分で済みますか」


「今夜の演説で、七割ほどになりました」


「言わなければよかった」


「言わなければ、もっと後悔したでしょう」


「はい」


 ライナスは静かに答えた。



 しばらくして、彼はノエルを見た。



「ノエルさんは、明日どこにいるんですか」


「王都と白橋の間です。伝令の整理、布告の準備、捕虜経由の噂の処理」


「戦場には来ないんですか」


「私は剣を持てません」


「知っています」


「それに、私が橋に立っても邪魔です」


「それも知っています」


「では、なぜ聞くのです」


 ライナスは少し迷った。



「あなたにも、どこかに立っていてほしいと思ったんです」


 ノエルは答えなかった。



 その言葉は、不意打ちだった。



 ライナスは続けた。



「俺は、あなたが嫌いです」


「何度目でしょうか」


「でも、あなたが作った嘘がなければ、俺はここにいませんでした」


「その方が良かったかもしれません」


「まだ、それは分かりません」


 ライナスは白橋の方を見た。



「明日、分かるかもしれません」


 ノエルは夜空を見上げた。



 星が出ていた。



 彼は相変わらず、星を信じていない。


 死んだ英雄の魂など、空にはない。


 あるのは遠い光だけだ。



 だが地上では、人がその光に意味を与える。



 ならば、明日の白橋で何が起きるのか。


 それを決めるのは星ではない。



 震える足で、橋に立つ人間たちだ。



「ライナス」


 ノエルは言った。



「はい」


「逃げても構いません」


 ライナスは驚いたように彼を見た。



 ノエルは続ける。



「本当に駄目だと思ったら、逃げなさい。死んで完成する伝説など、私は好みません」


「記録官なのに?」


「記録官だからです。死者は書きやすい。生きている者は面倒です」


「俺は面倒ですか」


「非常に」


 ライナスは、少しだけ笑った。



「じゃあ、できるだけ面倒なまま戻ります」


「そうしてください」


 二人は、それ以上話さなかった。



 夜明け前、白橋へ向かう軍が動き出した。



 槍の列。


 盾の列。


 弓兵の荷車。


 負傷者用の空の荷車。


 水樽。


 矢束。


 王家の旗。


 各貴族家の旗。



 そして、星痕の盾を背負った一人の兵士。



 ライナスは先頭ではない。


 指揮官でもない。


 王族でも貴族でもない。



 ただ、橋に立つ兵の一人として歩いた。



 それでも兵士たちは、彼の背を見た。



 怖いままでいい。


 一歩だけ残れ。



 誰かが小さく呟いた。



 別の誰かが頷いた。



 王都の城壁の上で、エリシアは軍を見送った。


 マルグリットは、その隣で黙っていた。


 ガレスはすでに白橋へ向かっている。



 ノエルは記録室へ戻り、白紙を一枚置いた。



 題だけを書く。



 白橋の戦い。



 その下は、まだ空白だった。



 この空白を埋めるのは、ノエルではない。



 ガレスの采配。


 エリシアの覚悟。


 マルグリットの支援。


 セラの歌。


 ユリアンの記録。


 そしてライナスの一歩。



 多くの人間の選択が、これからそこに刻まれる。



 ノエルは羽根ペンを持ち、窓の外を見た。



 東の空が白み始めている。



 白橋の向こうから、帝国が来る。



 王都には、英雄はいなかった。



 だが今、橋へ向かう兵たちの中に、一人だけ、英雄ではないと言い続ける若者がいる。



 その若者の背を見て、兵たちは歩いている。



 ならば、もう十分だった。



 伝説が始まる時、本人だけはいつも、それを伝説だと知らない。

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