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第7話 盾の代償

 ライナス・ベルが自ら英雄であることを否定した日から、王都セレンディアの空気は少し変わった。



 熱狂は薄れた。


 代わりに、重さが残った。



 星盾の兵。


 その呼び名は消えなかった。


 だが、以前のように眩しい響きではなくなった。



 人々は知ってしまった。



 彼は敵を百人斬った英雄ではない。


 神に選ばれた勇者でもない。


 星より遣わされた奇跡の人でもない。



 怖がる。


 逃げたいと思う。


 傷つく。


 間違える。


 命令も破る。



 ただ、それでも泣く子を置いていけない。



 その不完全さが、かえって人々を引き寄せた。



 王都の兵舎では、以前より大声で歌う者は減った。


 しかし、訓練の列から逃げ出す者も減った。



 槍を構える手は震えている。


 盾の列はまだ乱れる。


 夜になれば、悪夢で起きる兵もいる。



 それでも朝になると、彼らは練兵場へ戻った。



 怖いままでいい。


 一歩だけ残れ。



 その言葉は、命令ではなかった。


 だからこそ、兵士たちの足に残った。



 ノエル・アルバートは、その変化を記録していた。



 王都守備兵の訓練参加率、上昇。


 民兵の逃散、減少。


 兵士の家族による差し入れ、増加。


 星盾村避難民の再配置、進行。


 ヴェイン家より後方支援物資、到着。



 どれも、勝利ではない。



 だが、敗北だけでもない。



 この国は、まだ倒れていない。



 それが今のリステリアにとって、最大の成果だった。



 しかし、戦場は人の心だけで動かない。



 その報せが届いたのは、雨の降る朝だった。



 王城西翼の記録室に、泥まみれの斥候が運び込まれた。


 彼は片膝をつく前に崩れ、床に手をついた。


 息は荒く、外套には枝葉と血がこびりついている。



 ユリアンが慌てて水を差し出した。



 斥候はそれを一口だけ飲み、顔を上げた。



「ミル渓谷砦、包囲されました」



 ノエルの手が止まった。



 ミル渓谷砦。



 ルメル森の北端、細い谷道を押さえる古い砦である。


 大きな砦ではない。


 石壁も低く、兵舎も狭い。


 平時なら、地図の隅に小さく記される程度の場所だった。



 だが今は違う。



 ミル渓谷を抜ければ、帝国軍は灰羽街道を迂回して白橋の北側へ圧力をかけられる。


 大軍は通れない。


 だが、小部隊や斥候、補給妨害には十分な道だった。



 守っているのは、正規兵と民兵を合わせて五十ほど。


 星盾村から逃げた避難民の一部も、一時的にそこへ寄っていた。



 悪い場所ではない。


 だが、今守るには遠すぎた。



「帝国軍の数は」


 ノエルが問う。



「歩兵百五十ほど。弓兵あり。工兵も少数。包囲は完全ではありませんが、南の道は塞がれています」


「本隊か」


「違います。別働隊です。ですが動きが速い。砦を落とすだけなら、十分な数です」


 ノエルは地図を広げた。



 王都。


 白橋。


 ルメル森。


 ミル渓谷砦。



 位置を確認した瞬間、結論は見えた。



 救援に兵を出せば、王都防衛の準備が遅れる。


 白橋の補強に回すはずの人員も削られる。


 帝国の本隊がその隙を突けば、もっと大きな損害が出る。



 ミル渓谷砦は、見捨てるべきだった。



 それは冷酷な判断ではない。


 正しい判断だった。



 だからこそ、胸の奥が重くなる。



「ガレス将軍へ」


 ノエルは言った。


「すぐ軍議を」


 斥候は、まだ何か言いたげに顔を上げた。



「それと……」


「何だ」


「砦に、トマ・リードがいます」


 ユリアンの顔が強張った。



 ノエルは、わずかに目を伏せた。



 トマ・リード。


 ライナスの同郷の友人。


 アグニスの敗残兵。


 軽口ばかり叩くが、前線兵としての勘が鋭い若者。



 彼は負傷が癒えきらないまま、補給護衛としてミル渓谷砦へ送られていた。



 偶然ではない。


 王都の兵は足りない。


 使える者は、使わなければならない。



 それもまた、戦だった。



 軍議の結論は早かった。



 ガレス・ヴォルンは地図の上に置かれた駒を見下ろし、低く言った。



「大規模な救援は出せん」


 誰もすぐには反論しなかった。



 エリシア王女は、白い指で地図の端を押さえている。


 マルグリット・ヴェインは、扇を開かずに膝の上で重ねていた。


 ノエルは黙って、砦と王都の距離を測っていた。



「ミル渓谷砦は重要です」


 エリシアが言った。


「重要です」


 ガレスは認めた。


「だが、王都ほどではありません。白橋ほどでもない。ここで王都守備兵を削れば、帝国本隊が動いた時に受けられなくなる」


「砦の兵は」


「夜陰に乗じて脱出するよう伝令を出す。南道が塞がれているなら、北森へ抜ける。砦は放棄だ」


「避難民は」


「全員は無理だ」


 ガレスの声は苦かった。



 彼は見捨てることに慣れているわけではない。


 ただ、見捨てなければさらに多くが死ぬことを知っているだけだ。



 エリシアは目を伏せた。



「小規模な救出隊は」


「出せる。だが成功率は低い。帝国はそれを待っている可能性がある」


 ガレスは地図上の砦を指した。



「この包囲は、少し妙だ。数が中途半端だ。砦を急いで落とすなら、もっと工兵を入れる。完全に封じるなら、北の森も押さえる。これは、こちらが救援に出るかを見る布陣だ」


「罠」


 ノエルが言った。



「そうだ」


 ガレスは頷いた。



「奴らは、こちらの英雄譚を知っている。ライナス・ベルが見捨てられない兵だということもな。砦に避難民がいる。友人がいる。これを餌にすれば、誰かが動く」


 室内が重く沈んだ。



 帝国は正しい。



 ライナスを殺す必要はない。


 ライナスに、矛盾した選択をさせればいい。



 命令を守れば、見捨てた英雄になる。


 救いに行けば、命令を破る危険な英雄になる。



 どちらに転んでも、傷が残る。



 クラウスの刃が見えた気がした。



 マルグリットが静かに言った。



「ライナス・ベルには知らせない方がよろしいのでは?」


 エリシアが顔を上げる。



「隠すのですか」


「はい」


 マルグリットは冷静だった。



「彼が知れば、動くでしょう。彼自身が望まなくとも、周囲が動かします。英雄に救援を求める者が出る。兵士たちは彼の顔を見る。そうなれば、命令系統が揺らぎます」


「しかし、彼の友がいる」


「戦場には、誰かの友が常におります」


 冷たい言葉だった。



 だが、間違ってはいなかった。



 ノエルはマルグリットを見た。



 彼女は非情なのではない。


 国を割らないために、個人の情を切ろうとしている。



 ガレスも同じ考えだった。



「知らせるべきではない」


 老将は言った。


「兵に余計な選択肢を与えれば、軍は乱れる」



 エリシアはノエルを見た。



「あなたは」


 ノエルはすぐには答えなかった。



 ライナスに知らせない。


 それは軍事的には正しい。


 政治的にも正しい。


 情報戦としても、おそらく正しい。



 知らせれば、彼は苦しむ。


 動けば、多くが死ぬかもしれない。


 動かなければ、彼の中で何かが死ぬかもしれない。



 どちらが国にとって有益か。



 答えは見えていた。



「知らせるべきではありません」


 ノエルは言った。



 自分の声が、思ったより冷たく聞こえた。



 エリシアは目を伏せた。



「分かりました。伝令を出します。砦には脱出命令を。王都からの大規模救援は行わない」


 ガレスが頷いた。



 会議は終わった。



 正しい判断が下された。



 だからこそ、その判断はすぐに破られた。



 ライナス・ベルがその報せを知ったのは、夕方だった。



 誰かが故意に伝えたわけではない。


 戦時の王都で、情報を完全に塞ぐことはできない。



 補給隊の兵が、医療院の裏で話していた。


 ミル渓谷砦。


 包囲。


 避難民。


 トマ・リード。



 その名を聞いた瞬間、ライナスは立ち止まった。



 兵たちは慌てて口を閉じた。


 だが遅かった。



 ライナスは何も言わず、その場を去った。



 彼が向かったのは、記録室だった。



 ノエルは、来ると分かっていた。



 扉が開く。



 ライナスは入ってきた。


 顔色は悪い。


 だが、目だけが異様に静かだった。



「ミル渓谷砦が包囲されたと聞きました」


「はい」


「トマがいると」


「います」


「なぜ、言ってくれなかったんですか」


「あなたが動くからです」


 ライナスは拳を握った。



「動いてはいけないんですか」


「いけません」


 ノエルは即答した。



「帝国の罠です。あなたが動くことを期待している。小規模な救出隊を出せば、途中で叩かれる可能性が高い。大規模に動けば、白橋防衛が遅れる」


「砦の人たちは」


「脱出命令を出します」


「間に合いますか」


「分かりません」


「トマは」


「分かりません」


 ライナスの表情が歪んだ。



「また、それですか」


「分かっているふりをして慰める方がよければ、そうします」


「ノエルさん」


「行ってはいけません」


 ノエルは強く言った。



「あなたは今、ただの兵士ではありません。あなたが動けば、人がついてくる。あなた一人の命では済まない」


「俺は英雄じゃありません」


「だからこそです」


 ライナスは黙った。



 ノエルは続けた。



「英雄なら、命令を破っても物語になる。あなたは自分が英雄ではないと民に告げた。だから、兵士として命令に従わなければならない」


「兵士なら、仲間を見捨てるんですか」


「時には」


「それが正しいんですか」


「正しい」


 ノエルは言った。



「少なくとも、国を守るためには」


 ライナスはしばらく俯いていた。



 やがて、静かに言った。



「俺は、怖いです」


「知っています」


「行きたくない」


「なら、行くな」


「でも、行かなかったら」


 声が震えた。



「俺は、もう自分を信じられません」



 ノエルは何も言えなかった。



 ライナスは顔を上げる。



「俺は英雄じゃないって言いました。怖い兵士だって言いました。それでも立つって言いました」


「だから命令の中で立ちなさい」


「命令の中に、トマはいません」


「います。軍全体の中に」


「違う」


 ライナスは首を振った。



「俺にとって、トマは地図の駒じゃない」


 その言葉は、ノエルの胸を刺した。



 地図の駒。



 彼は毎日、それを動かしている。


 王都。


 白橋。


 砦。


 兵。


 民。



 駒として見なければ、国は守れない。


 だが、駒としてしか見なければ、人は守れない。



「行けば、死ぬかもしれません」


 ノエルは言った。


「あなたも、ついていく者も」


「はい」


「それでも」


「はい」


 ライナスの声は震えていた。



 だが、答えは揺れなかった。



「俺は、行きます」


 ノエルは目を閉じた。



 止めるべきだった。


 兵を呼び、拘束すべきだった。


 王家の命令として禁じるべきだった。



 それが正しい。



 だが、彼は一瞬遅れた。



 その一瞬で、ライナスは背を向けた。



「すみません」


 そう言って、記録室を出て行った。



 ノエルは立ち尽くした。



 ユリアンが震える声で言う。



「先生、止めないんですか」


「止めるべきだ」


「では」


「もう遅い」


 ノエルは机に手をついた。



 ライナスは一人では行かない。


 必ず誰かがついていく。


 止めれば止めるほど、噂になる。



 星盾の兵が友を救うために拘束された。


 王家は英雄を縛った。


 ノエルはライナスを道具として使い、友を見捨てさせた。



 その毒は、帝国が流すより深く回る。



 ノエルは地図を見た。



 止められないなら、被害を減らすしかない。



「ガレス将軍へ」


 ノエルは言った。


「ライナスが動きます」


 ユリアンの顔が青ざめる。



「どうするんですか」


「命令違反として止める。表向きは」


「表向き?」


「裏で、最小限の道を用意する」



 ノエルは地図上のルメル森を指した。



「正面道は使わせない。森の斥候を三名。弓兵二名。志願者は十名まで。目的は砦の救援ではなく、脱出路の確保」


「それは、許されるんですか」


「許されない」


 ノエルは答えた。



「だから、記録には残すな」


 ユリアンは息を呑んだ。



「先生」


「何だ」


「それは、嘘ですか」


「違う」


 ノエルは言った。



「これは、罪だ」



 夜、ライナスは王都を出た。



 彼は一人のつもりだった。



 だが東門の影には、すでに人がいた。



 星盾村撤収に参加した槍兵。


 アグニスの敗残兵。


 山岳斥候。


 弓兵。


 そして、隊長フィン・ラウ。



 フィンは腕を組み、冷たい目でライナスを見た。



「命令違反だ」


「はい」


「俺は、お前を止めに来た」


「はい」


「そして、止められなかった場合に備えて道案内をすることになった」


 ライナスは目を見開いた。



「誰が」


「聞くな。俺も聞いていない」


 フィンは短く言った。



「救える人数だけ救う。砦は守らない。敵と正面から戦わない。お前が勝手に飛び出したら、今度は殴ってでも止める」


「はい」


「返事だけはいいな」


 その言葉に、数人の兵が小さく笑った。



 笑いはすぐ消えた。



 全員、分かっている。


 これは英雄の遠征ではない。


 命令の外に出る、危険な救出行だった。



 ライナスは彼らを見回した。



「来なくていいです」


 誰も動かなかった。



 アグニスの敗残兵の一人が言った。



「怖いままでいいんだろ」


 別の兵が続けた。



「なら、怖いまま行く」


 ライナスは唇を噛んだ。



 自分の言葉が、人を連れてきてしまった。



 そのことが、重かった。



 王都の城壁の上で、ノエルは彼らを見送っていた。



 隣にガレスが立っている。



「俺は知らん」


 老将は低く言った。


「王都守備兵の一部が夜間偵察に出た。それだけだ」


「承知しました」


「戻ったら、全員処罰する」


「はい」


「戻ればな」


 ノエルは何も答えなかった。



 ガレスは東の闇を見つめた。



「あの若造は、兵としては問題だらけだ」


「はい」


「だが、友を見捨てられん兵を、俺は嫌いにはなれん」


 老将の声は、ひどく苦かった。



「だからこそ、死なせたくない」


 ノエルは初めて、ガレスの横顔を見た。



 彼もまた、割り切れていない。



 正しい命令を出す者も、心が石でできているわけではない。



 ミル渓谷への道は、月のない闇に沈んでいた。



 隊は灰羽街道を避け、ルメル森の中を進んだ。



 先導する斥候は速い。


 枝を折らず、泥に深い足跡を残さず、音を殺して歩く。



 ライナスは何度も足を取られた。


 息が上がる。


 盾が重い。


 背中に汗が流れる。



 それでも、遅れるたびに誰かが手を貸した。



 誰も彼を英雄として扱わなかった。



 足手まといになりかければ小声で叱る。


 枝を踏めば睨む。


 息が荒ければ口を押さえる。



 それが、ライナスにはありがたかった。



 夜明け前、彼らはミル渓谷砦を見下ろす尾根に着いた。



 砦は谷の底にあった。



 低い石壁。


 細い門。


 背後には崖。


 南の道には帝国兵の篝火が並んでいる。



 完全包囲ではない。


 北側の森は薄い。


 だが、そこには弓兵を伏せるには十分な斜面がある。



 フィンはすぐに配置を見た。



「正面は無理だ。北の排水路を使う」


「排水路?」


 ライナスが聞く。



 斥候の一人が頷いた。



「古い砦には、雨水を逃がす石穴がある。人一人が腹ばいで通れるかどうかだが、子供と負傷兵を出すには使える」


「知っていたんですか」


「地元民は知っている。帝国兵は知らないか、知っていても軽視している」


 フィンが短く指示を出す。



「斥候二名が砦へ入る。中の者に脱出準備をさせる。弓兵は南道へ火矢。数を多く見せる。槍兵は北斜面で受ける。長く戦うな。出したら下がる」


「俺は」


「排水路の出口で受けろ。お前の顔を見れば、中の者が動く」


 ライナスは頷いた。



 また、姿を見せるだけ。



 だが今回は、その意味が違う。



 砦の中にはトマがいる。



 生きているかは、分からない。



 作戦は静かに始まった。



 斥候が闇に溶ける。


 しばらくして、砦の北壁の下で小さな合図があった。



 中へ入れた。



 次に、南道へ火矢が放たれた。



 乾いた草束に火がつき、煙が上がる。


 帝国兵が動く。


 太鼓が鳴る。


 号令が飛ぶ。



 帝国の反応は速かった。



 混乱はしたが、崩れない。


 盾を上げ、火元へ兵を送る。


 同時に、北側へも数名の斥候を回す。



 やはり、待っていた。



 フィンが舌打ちした。



「早い。北に来るぞ」


 排水路の出口で、石が内側から押された。



 最初に出てきたのは、子供だった。



 泥まみれで、泣く力も残っていない。



 ライナスは抱き上げ、後ろの兵へ渡した。



 次に老人。


 次に負傷兵。


 次に女。



 砦の中から、人が少しずつ吐き出される。



 狭い。


 遅い。


 時間が足りない。



 帝国兵の声が近づく。



 弓兵が矢を放った。


 槍兵が低い柵のように並ぶ。



 ライナスは必死に人を引き出した。



 一人。


 また一人。



 手が泥で滑る。


 爪が割れる。


 腕が痺れる。



 それでも引き出す。



 やがて、排水路の奥から聞き慣れた声がした。



「おい、詰まるな! 尻から出るな、頭から出ろ! 生まれ直す気か!」


 ライナスは息を呑んだ。



「トマ!」


 泥まみれの顔が、穴から出てきた。



 トマ・リードは、額から血を流しながら笑った。



「よう、星盾様。迎えが遅いぞ」


「生きてた」


「勝手に殺すな。俺はしぶといって言っただろ」


 ライナスは彼の腕を掴み、引き出した。



 トマは立ち上がろうとして、膝をついた。


 腹に布が巻かれている。


 血が滲んでいた。



「その傷」


「かすり傷だ」


「嘘だ」


「じゃあ、少し深いかすり傷だ」


 ライナスは何か言おうとした。



 だが、フィンの声がそれを切った。



「敵が来る! 撤収準備!」


 北斜面に帝国兵が現れた。



 盾を構え、慎重に距離を詰めてくる。


 彼らは焦っていない。


 数で押せると分かっている。



 フィンはすぐに判断した。



「出せる者はここまでだ。穴を塞げ。撤収する」


 ライナスが振り向いた。



「まだ中に」


「いる」


 フィンは言った。


「だが、もう間に合わない」


「でも」


「全員残るか、出せた者を逃がすかだ」


 ライナスは言葉を失った。



 その時、排水路の中から声がした。



 中に残った兵士の声だった。



「行け!」


 石の向こうから、かすれた声が響く。



「こっちはもう無理だ! 塞げ! 早くしろ!」


 ライナスは動けなかった。



 トマが彼の肩を掴んだ。



「ライナス」


「でも」


「全部は無理だ」


 その言葉は、刃だった。



 ライナスは分かっていた。


 それでも聞きたくなかった。



 トマは続けた。



「お前、また全部背負おうとしてる。無理だ。人間一人の背中は、そんなに広くない」


「トマ」


「出せた奴を逃がせ。今はそれをやれ」


 ライナスは唇を噛んだ。



 血の味がした。



「穴を塞げ!」


 フィンが命じた。



 兵士たちが石を戻す。



 内側から、もう一度声がした。



「王都を頼む!」



 石が閉じた。



 ライナスは、それを見ていることしかできなかった。



 撤収はすぐに始まった。



 だが帝国兵の動きは速かった。



 北斜面からの追撃が迫る。


 避難民と負傷兵を連れた一行は、思うように進めない。



 フィンが命令を飛ばす。



「弓兵、交互に撃て! 斥候、右の沢へ誘導! 槍兵は後尾!」



 ライナスはトマに肩を貸した。



「歩けるか」


「誰に言ってる」


「顔が白い」


「元から美白だ」


「馬鹿言うな」


「馬鹿言ってないと、倒れる」


 トマは笑った。



 だが、その息は浅い。



 追撃の矢が飛んだ。



 後ろの兵が倒れる。


 槍兵が引きずる。


 また遅れる。



 森の入口まで、あと少し。



 そこまで入れば、斥候が道を散らせる。


 帝国兵は深追いしにくくなる。



 だが、そこへ至る狭い岩道で、敵の小隊が回り込んでいた。



 帝国の指揮官は、読んでいたのだ。



 逃げるならここを通る。


 負傷者を連れていれば、道を選べない。



 敵もまた、最善を打っていた。



 フィンの顔が険しくなる。



「正面に十数名。後ろに追撃。挟まれる」


「どうする」


 槍兵が問う。



「突破する」


 フィンは即答した。


「だが時間が要る」


 その時、トマがライナスの肩から離れた。



「俺が止める」


 ライナスは振り向いた。



「何言ってる」


「聞こえなかったか? 俺が止めるって言った」


「無理だ」


「無理じゃない。少しならできる」


 トマは落ちていた槍を拾った。



 腹の傷から血が滲む。



「お前は避難民を連れて行け」


「嫌だ」


「子供みたいに言うな」


「嫌だ!」


 ライナスの声が森に響いた。



 トマは少しだけ驚いた顔をした。


 それから、いつものように笑った。



「お前、そんな声出せたんだな」


「行くな」


「行くんじゃない。残るんだ」


「同じだ」


「違う」


 トマはライナスの胸を拳で軽く叩いた。



「お前は、置いていけない奴だ。俺は、置いていかせる奴になる」


「そんなの」


「役割分担だ」


 ライナスの目に涙が浮かんだ。



「俺は英雄じゃない」


「知ってる」


「お前を置いていけない」


「それも知ってる」


 トマの声が少しだけ優しくなった。



「でもさ、ライナス」


 彼は言った。



「お前は英雄じゃないよ。だけど俺たちにとっては、それで十分だったんだ」


 ライナスは息を止めた。



 以前聞いた言葉だった。



 だが今、その意味が違って聞こえた。



「俺は、お前が強いから来たんじゃない。お前が怖がりでも来るって知ってたから来た。だから、今度は俺が残る」


「トマ」


「お前が逃がした人たちを、ちゃんと王都まで連れていけ」


 フィンが叫ぶ。



「時間がない!」


 トマはライナスを押した。



 傷のある体とは思えない強さだった。



「行け!」


 ライナスは動けなかった。



 トマが怒鳴った。



「一歩だけ残れって言ったのはお前だろ!」


 ライナスの体が震えた。



「俺はここに一歩残る。お前は前に一歩行け!」



 その言葉で、ライナスはようやく動いた。



 動いてしまった。



 フィンが避難民を導く。


 ライナスは泣きながら、子供を抱え、負傷兵を支え、前へ進んだ。



 背後で、トマの声が響く。



「来いよ、帝国さん! こっちは腹に穴が空いてて機嫌が悪いんだ!」



 軽口だった。



 最後まで、彼らしい軽口だった。



 槍がぶつかる音。


 盾を叩く音。


 短い悲鳴。


 誰かの怒号。



 ライナスは振り返らなかった。



 振り返れば、戻ってしまう。



 戻れば、トマの残った意味が死ぬ。



 だから、振り返らなかった。



 森に入ると、斥候たちは道を三つに分けた。


 帝国兵は追撃を躊躇した。


 深い森の中で、地元の斥候を相手にする危険を理解していたからだ。



 リステリア側は勝ったわけではない。



 ミル渓谷砦は落ちた。


 残った兵もいた。


 救えなかった者もいた。


 そしてトマ・リードは戻らなかった。



 夜明け近く、救出隊は王都へ帰還した。



 東門に着いた時、ライナスは子供を一人抱えていた。


 アグニスの時と同じように。


 星盾村の時と同じように。



 だが、顔は違っていた。



 彼はもう、ただ困惑している若者ではなかった。


 傷つき、何かを失った兵士の顔をしていた。



 門兵が声をかける。



「ライナス……」


 ライナスは答えなかった。



 子供を母親へ渡す。


 負傷者を医療院へ運ばせる。


 それから、門の内側で膝をついた。



 背の盾が地面に落ちた。



 星形の傷。


 矢傷。


 泥。


 血。



 ライナスはその盾を見つめ、初めて声を上げて泣いた。



 王城では、すぐに報告が上がった。



 ミル渓谷砦、陥落。


 避難民および負傷兵二十七名を救出。


 救出隊、死者六名。


 行方不明四名。


 トマ・リード、後衛として残り、生死不明。


 状況より戦死と推定。



 ノエルはその報告を読んだ。



 何度も読んだ。



 文字は変わらなかった。



 トマ・リード、戦死と推定。



 ユリアンは泣いていた。



 ノエルは泣かなかった。



 泣けなかった。



 彼はこの救出を止めなかった。


 むしろ、被害を減らすためとはいえ道を用意した。



 その結果、救われた命がある。


 同時に、死んだ命がある。



 どちらも事実だった。



 ガレスが記録室に入ってきた。



 老将の顔は硬い。



「全員、処罰する」


 彼は言った。



 ノエルは頷いた。



「当然です」


「ライナスもだ」


「はい」


「だが、処罰の前に休ませる」


 ノエルは顔を上げた。



 ガレスは視線を逸らさなかった。



「あれは命令違反だ。だが、戻った者たちは、あの若造がいなければ動かなかったと言っている」


「処罰を軽くするのですか」


「軍の規律は曲げん」


 ガレスは低く言った。



「だが、兵の功も消さん。両方記録しろ」


 ノエルは少しだけ目を伏せた。



「承知しました」


 ガレスは続けた。



「それと、トマ・リードの名を忘れるな」


「もちろんです」


「あの若造だけの物語にするな。残った者も、死んだ者も、全部書け」


 ノエルは、今度こそ深く頷いた。



「書きます」


 ガレスはそれだけ言い、出て行った。



 午後、王都に布告が貼られた。



 ミル渓谷砦は落ちた。


 王国軍の一部は命令に反し、救出行動を行った。


 その行動は軍規に照らし、後日裁かれる。



 だが、その行動により、避難民および負傷兵二十七名が救出された。


 後衛として残ったトマ・リード以下数名は、追撃を防ぎ、救出された者たちの退避を支えた。


 彼らの名を、王国は記録する。



 布告の前で、民は黙っていた。



 今回は、歌がすぐには生まれなかった。



 軽く歌える出来事ではなかった。



 セラでさえ、その夜は竪琴を鳴らさなかった。



 ライナスは医療院の裏庭にいた。



 座ったまま、折れた盾を抱えている。



 ノエルが近づいても、顔を上げなかった。



「トマのことを、書きました」


 ノエルは言った。



 ライナスは答えない。



「彼の名は残ります」


「名前が残れば」


 ライナスが初めて口を開いた。



「死んでもいいんですか」


 ノエルは黙った。



 返す言葉がなかった。



「俺が行かなければ、トマは死ななかったかもしれない」


「砦で死んだかもしれません」


「それは、慰めですか」


「事実の可能性です」


「嫌な言い方ですね」


「はい」


 ライナスは盾を握りしめた。



「俺が立つと、人がついてくる」


「はい」


「俺が行くと、人が死ぬ」


「はい」


「じゃあ、俺はどうすればいいんですか」


 その問いは、子供のようだった。



 だが、答えは大人にも出せない。



 ノエルはしばらく黙った。



 そして言った。



「選ぶしかありません」


「何を」


「誰を救い、誰を救えないか」


 ライナスの肩が震えた。



「そんなの、選べません」


「選ばなければ、戦場が勝手に選びます」


「俺は、そんなものになりたくなかった」


「知っています」


「だったら、どうして俺を選んだんですか」


 ライナスが顔を上げた。



 泣き腫らした目だった。



「どうして、俺だったんですか」


 ノエルは答えようとして、止まった。



 折れた盾に星の傷があったから。


 子供を救ったから。


 星盾村の近くの生まれだったから。


 民が必要としていたから。



 理由はいくらでもある。



 だが、それらは答えにならなかった。



「私が、あなたを利用したからです」


 ノエルは言った。



 ライナスは目を伏せた。



「そうですね」


 その声には、怒りよりも疲れがあった。



「でも、今日行くと決めたのは俺です」


 ライナスは盾を抱え直した。



「それが一番、きついです」


 ノエルは何も言えなかった。



 ライナスは、自分の選択で人を死なせた。


 それを理解してしまった。



 英雄とは、誰かを救う者ではない。


 救えなかった者の名も背負う者だ。



 その重さを、彼は初めて知った。



 夜、記録室でユリアンは清書をしていた。



 何度も涙を拭いながら、それでも手を止めなかった。



「先生」


「何だ」


「この話は、英雄譚になりますか」


 ノエルは窓の外を見た。



 王都には歌がない。


 今夜だけは、誰も軽々しく歌えない。



 それでいいと思った。



「なるだろう」


 ノエルは言った。


「だが、すぐにはならない」


「なぜですか」


「痛すぎるからだ」


 ユリアンはペンを止めた。



 ノエルは続けた。



「人は、痛みをそのままでは語れない。時間を置き、涙を乾かし、意味を与えて、ようやく語れるようになる」


「では、今は」


「記録する」


 ノエルは言った。



「歌にする前に、事実を残す」



 ユリアンは頷き、紙に向き直った。



 ライナス・ベル、命令に反しミル渓谷砦救出へ向かう。


 その行動により民二十七名を救う。


 同時に、兵六名を失う。


 トマ・リード、後衛として残り、帰還せず。



 ユリアンの手が震えた。



 ノエルは、その震えを止めなかった。



 記録は、震える手で書かれるべき時がある。



 翌朝、兵舎の片隅で、小さな声が生まれた。



 歌ではない。



 誰かが、トマの軽口を真似しただけだった。



「怖いまま行くんだろ。なら、怖いまま飯を食え」



 それを聞いた兵が、泣きながら笑った。



 笑いはすぐに消えた。



 だが、消えきらなかった。



 トマ・リードは死んだ。


 けれど、その軽口は残った。



 ライナスはその声を遠くで聞いていた。



 彼は笑わなかった。


 泣きもしなかった。



 ただ、盾を持って立ち上がった。



 以前より、その盾は重かった。



 だが彼は、もう手放せなかった。

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