第2話 星痕の盾
王都セレンディアの朝は、いつもより静かだった。
静かなのは、平穏だからではない。
人々が声を潜めて、同じ噂を聞こうとしていたからだった。
東門の布告板の前には、夜明け前から人が集まっていた。
職人、商人、女中、兵士の妻、荷運びの男、神殿へ向かう老人。
誰もが字を読めるわけではない。
それでも、人は布告板の前に集まる。
字を読める者が、声に出して読むからだ。
「東門より帰還した若き兵ライナス・ベル……」
眼鏡をかけた織物商が、布告を読み上げた。
「戦火の中より幼子を救い、星痕の盾を携えて王都へ至る。その勇を王家は讃え、神殿は祈りを捧げるものとする……」
読み終えた後、しばらく誰も口を開かなかった。
やがて、老婆が呟いた。
「星痕の盾……」
その声には、恐怖とは違う震えがあった。
隣の若い母親が、抱いていた子を胸に寄せる。
「星盾の兵みたいだね」
「まだ、そうとは書いていない」
商人が慎重に言った。
「王家は、そこまでは言っていない」
だが、それは遅かった。
人は、言われなかった言葉を勝手に補う。
布告に星盾の兵とは書かれていない。
しかし、星痕の盾と書かれている。
幼子を救ったと書かれている。
アグニス砦の方角から戻ったと書かれている。
そして、王家が讃え、神殿が祈ると書かれている。
ならば、そういうことなのではないか。
誰かがそう考えた。
誰かが口に出した。
別の誰かが、さらに確からしい声で頷いた。
噂は、いつもそのように生まれる。
王城西翼の記録室で、ノエル・アルバートはその報告を聞いていた。
「広場では、すでに星盾の兵という言葉が出ています」
ユリアン・クラインが、書き留めた紙を手にして言った。
「東門の布告板、中央市場、神殿前の井戸端。確認できただけで三か所です」
「速いな」
「止めますか」
「止められると思うか」
「……思いません」
「ならば、流れを変える方がいい」
ノエルは机上の地図に目を落とした。
王都セレンディアから東へ、灰羽街道が伸びている。
そこを商人が通り、避難民が流れ、兵士の手紙が運ばれる。
帝国軍もまた、その道を来る。
道は剣より強いことがある。
剣は人を殺す。
道は言葉を運ぶ。
そして言葉は、ときに剣より長く戦場に残る。
「布告は、もう一枚出す」
ノエルは言った。
「内容は昨日のものと大きく変えない。事実の範囲から出るな」
「事実の範囲、ですか」
「ライナスが生きて戻った。子供を背負っていた。盾に星に見える傷がある。王女殿下が感謝した。ここまでは事実だ」
「星盾の兵とは書かない?」
「書かない」
ユリアンは少し驚いた顔をした。
「使わないんですか」
「公式の布告が言い切れば、反論の的になる。こちらが言わず、民が勝手に言った方が強い」
「なぜです」
「自分で思いついた話を、人は疑いにくい」
ユリアンは黙った。
まだ納得はしていない。
だが、その理屈が働いていることは理解している。
それが、彼を苦しめていた。
ノエルは次の紙を取った。
「兵士の家族へ出す手紙の文例を作る」
「文例?」
「前線の兵は、手紙が下手だ。疲れているし、怖がっている。だから書くべき型を渡す」
「内容は」
「アグニスで全てが失われたわけではない。東門に戻った兵がいた。幼子を救った者がいた。まだ王都には祈る理由がある。そう書かせる」
「それは、兵士本人の言葉ではありません」
「だが、兵士本人の恐怖を消す言葉にはなる」
ユリアンは反論しかけ、やめた。
記録室の外では、廊下を行き交う足音が絶えない。
戦時の王城に、静かな場所などなかった。
ただ、この部屋だけは違う種類の戦場になっていた。
槍も剣もない。
あるのは紙と、印章と、言葉だけだ。
昼前、王女エリシアが記録室を訪れた。
供は少ない。
彼女は王女としてではなく、共犯者として来たのだと、ノエルはすぐに悟った。
「ノエル。布告は読みました」
「悪文でしたか」
「悪い文ではありません。悪い意図はありましたが」
「意図のない文は、壁の染みと同じです」
エリシアは責めなかった。
彼女は机上の紙を見た。
兵士の手紙の文例。
神殿へ渡す説話の草案。
町ごとに変える布告の文面。
灰羽街道を往来する商人への通行許可証。
王女の目が、わずかに細くなる。
「もう、ここまで」
「遅いくらいです」
「神殿も使うのですね」
「神殿が言えば、噂に骨が入ります」
「神の名を借りるのは危険です」
「神は沈黙しています。沈黙は、利用されるためにあります」
ユリアンが息を呑んだ。
だがエリシアは怒らなかった。
「あなたは、神を信じていないのですか」
「信じていません」
「星盾の伝説も?」
「信じていません」
「では、なぜ使うのです」
「民が信じているからです」
エリシアはしばらく黙った。
窓の外では、城下の鐘が鳴っている。
いつもの時刻の鐘だ。
けれど今日の鐘は、昨日より長く響いて聞こえた。
「私は、王家の名を貸すと言いました」
エリシアは静かに言った。
「ですが、忘れないでください。王家の名は、民を集める旗です。同時に、民を殺す刃にもなります」
「承知しています」
「英雄の噂が広がれば、兵は奮い立つでしょう。けれど、命令より英雄を信じるようになれば、軍は割れます」
「ガレス将軍にも同じことを言われました」
「なら、二度聞く価値のある警告です」
ノエルは軽く頭を下げた。
王女は正しい。
ガレスも正しい。
ユリアンの迷いも正しい。
皆が正しいからこそ、国は簡単には動かない。
正しい考えは、しばしば互いに邪魔をする。
ノエルの仕事は、その邪魔を切ることだった。
正しさではなく、必要で。
「ライナス・ベルは、どうしていますか」
エリシアが尋ねた。
「医療院に。熱があるそうです。外傷は多いですが、命に別状はありません」
「彼に、説明は?」
「まだです」
「本人の同意なしに進めるのですか」
「同意を得れば、彼は断ります」
「それでも聞くべきです」
「聞けば、殿下は彼の拒絶を無視できますか」
エリシアの表情が硬くなった。
ノエルは続けた。
「彼は善良です。だから拒みます。自分は英雄ではない、と。事実、その通りです。彼は敵を倒していない。隊を救っていない。ただ子供を背負って逃げてきただけです」
「それを、あなたは英雄にする」
「はい」
「残酷ですね」
「国を救う道具は、たいてい誰かにとって残酷です」
エリシアは目を伏せた。
王女である彼女には、それが分かっていた。
徴兵令を出す者は、自分の手で兵を殺さない。
だが、兵が死ぬ原因を作る。
税を上げる者は、自分の手で農民の鍋を空にしない。
だが、鍋の中身を奪う。
政治とは、遠くの誰かに血を流させる技術でもある。
だからエリシアは、ノエルを止めなかった。
「ライナスに会います」
「私も同行します」
「いいえ」
エリシアは首を振った。
「まずは、私が会います。王家としてではなく、あの子を救ってくれた礼を言うために」
ノエルは少しだけ意外に思った。
彼女は若い。
だが、未熟ではない。
民に見せる姿と、人に向ける姿を分けられる。
それは王族に必要な才だった。
医療院は、王城の北棟にあった。
平時なら貴族の老人や訓練で怪我をした近衛が使う場所だ。
今は敗残兵で埋まっていた。
血と薬草と濡れた革の匂いが混ざっている。
呻き声、祈りの声、医師の怒声。
そこに英雄はいなかった。
いるのは、痛みに耐える人間だけだった。
ライナス・ベルは、部屋の隅の寝台に横たわっていた。
額に布を当てられ、左腕に包帯を巻かれている。
折れた盾は寝台の横に置かれていた。
誰かが丁寧に泥を拭ったらしく、星形の傷が昨日よりはっきり見えた。
エリシアが近づくと、ライナスは慌てて起き上がろうとした。
「そのままで」
王女は言った。
「命令です」
ライナスは中途半端な姿勢で止まり、それからぎこちなく寝台へ戻った。
「王女殿下……」
「あなたに礼を言いに来ました」
「礼なんて、そんな」
「子を一人救った。それは、礼を言うに値します」
ライナスは目を伏せた。
「俺は、他の人を救えませんでした」
その声は小さかった。
だが、医療院の騒がしさの中でも、妙にはっきり聞こえた。
「砦には、まだ人がいました。走れない人もいた。怪我をして、助けを呼んでいた人も。俺は……全部、置いてきました」
エリシアはすぐには慰めなかった。
慰めが届かない傷もある。
無理に塞げば、膿むだけだ。
「それでも、あなたは一人を救った」
「一人だけです」
「一人を救えない者に、十人は救えません」
ライナスは黙った。
その顔には、救われた者の安堵ではなく、生き残った者の罪悪感があった。
「王都で、俺のことが変に言われていると聞きました」
ライナスは寝台の脇の盾を見た。
「星盾の兵だとか、アグニスの火を越えてきたとか。違います。俺は、そんな立派なものじゃありません。逃げてきただけです」
「その話は、私も聞いています」
「止めてください」
ライナスは顔を上げた。
若い目だった。
恐怖を知ったばかりの目だった。
「お願いします。俺は英雄じゃありません。あんなふうに言われたら、死んだ人たちに申し訳が立たない」
エリシアは、そこで初めて表情を揺らした。
ライナスは愚かではない。
むしろ、正しく理解している。
噂は死者の上に立つ。
生き残った者が英雄にされる時、その陰には帰れなかった者がいる。
「あなたの言葉は、ノエルにも伝えます」
「ノエル?」
「記録官です。あなたのことを記録した者」
ライナスは戸惑ったように瞬いた。
「俺のことを、どうして」
「この国には、今、あなたのような者が必要だからです」
「俺のような?」
「怖くても、誰かを置いていけなかった者です」
ライナスは何かを言おうとしたが、言葉にならなかった。
エリシアは立ち上がる。
「休みなさい。あなたに背負わせるものは、軽くありません。ですが、今はまだ傷を治すことだけを考えなさい」
「殿下」
ライナスが呼び止めた。
「本当に、止めてもらえませんか。俺は……そんな人間じゃないんです」
エリシアは答えなかった。
答えれば、嘘になる。
その日の夕刻、ノエルは王都南門近くの酒場へ向かった。
そこは兵士、荷運び、商人、旅芸人が集まる場所だった。
情報は王城の机上で作れる。
だが、広がるかどうかは酒場で決まる。
扉を開けると、濁った熱気が流れてきた。
安酒の匂い。
濡れた外套の匂い。
焼いた豆と古い油の匂い。
隅では兵士が黙って杯を傾け、別の卓では商人が声を潜めて東の街道の話をしている。
その中央で、一人の女が小さな竪琴を爪弾いていた。
栗色の髪を肩で結び、旅装束の上に鮮やかな布を巻いている。
笑えば人好きのする顔だが、目だけは笑っていない。
客の財布と心の動きを、同時に見ている目だった。
セラ・ミルド。
吟遊詩人であり、噂売りであり、金次第で道も変える女。
ノエルが近づくと、セラは演奏を止めずに言った。
「宮廷の匂いがするね」
「酒場で匂うとは、私も落ちたものです」
「落ちたんじゃない。仕事しに来た顔だ」
「歌を一つ買いたい」
「恋歌?」
「戦の歌だ」
「高いよ」
「国が払う」
「なら、もっと高いね」
ノエルは向かいに座った。
セラは軽く弦を鳴らす。
「東門の兵の話?」
「耳が早い」
「耳で飯を食べてるからね。子供を背負って帰ってきた若い兵。盾に星の傷。星盾村の近くの生まれ。王女様が礼を言った。ここまでは聞いた」
「十分だ」
「で、どこまで盛る?」
「盛らない」
セラは初めて手を止めた。
それから、少しだけ笑った。
「宮廷の人間が酒場まで来て、盛らないって?」
「核になる事実が小さい。大きな嘘を乗せれば潰れる」
「分かってるじゃない」
「だから、歌にするのは事実だけでいい」
「事実だけじゃ、人は泣かないよ」
「泣かせる必要はない。顔を上げさせればいい」
セラは黙ってノエルを見た。
彼女は軽い女ではなかった。
軽く見せることで、重い場所を歩いてきた女だった。
「どんな歌にしたいの」
「強い英雄の歌ではない」
「じゃあ?」
「逃げた兵の歌だ」
セラの眉が動く。
「面白いね」
「彼は逃げた。敵を倒していない。だが、泣いていた子供を置いて逃げられなかった」
「弱いのに?」
「弱いからだ」
セラはゆっくりと竪琴の弦を撫でた。
「強い人が立つ歌は、強い人にしか届かない」
彼女は言った。
「弱い人が立つ歌なら、弱い人が聴く」
「その通りだ」
「でも、酒場では少し足さないと届かないよ。人は正確な話より、覚えやすい話を持ち帰る」
「どこまで足す」
「火の中を歩いた、は駄目?」
「駄目だ。砦の火は見ているかもしれないが、歩いたとは言えない」
「帝国兵を三人倒した」
「駄目だ」
「盾の星が光った」
「絶対に駄目だ」
「固いねえ」
「魔法は起きない。奇跡も起きない。起きたことに、人が意味を見つけるだけだ」
セラは、今度ははっきり笑った。
「気に入った」
「仕事を受けるか」
「受ける。題は?」
「星盾の兵」
「それ、公式には言ってないんでしょ」
「だから歌が言う」
「悪い男だね」
「よく言われる」
「褒めてないよ」
セラは弦を鳴らした。
短い旋律だった。
まだ形にはなっていない。
だが、酒場の数人が自然と顔を向けた。
彼女は小さく歌い始めた。
東の雨より、ひとり戻る。
鎧は欠けて、剣は折れ。
けれど背には、泣く子を負い。
腕には星の、傷つく盾。
ノエルは黙って聞いた。
上手い。
事実だけではない。
だが、嘘にも踏み込みすぎていない。
聞いた者が、自分で続きを想像できる余白がある。
セラは歌を止めた。
「こんなところ?」
「十分だ」
「まだ一番だけだよ」
「一番で広がる歌が、良い歌だ」
「分かってるねえ、宮廷さん」
ノエルは小袋を置いた。
セラは中身を確かめ、満足げに頷く。
「どこで歌えばいい」
「今夜はここ。明日は中央市場。三日後には灰羽街道へ出てほしい」
「危ない道だよ」
「だから高く払った」
「足りないね」
「戻ったら倍」
「戻れなかったら?」
「神殿で祈らせる」
「最悪の冗談だ」
「戦時です」
セラは小袋を懐にしまった。
「いいよ。歌ってあげる。ただし、私の歌は私のものだ。あんたの台本通りには歌わない」
「その方がいい」
「いいの?」
「民に刺さる言葉は、宮廷より酒場の方が知っている」
セラは少しだけ真顔になった。
「嘘の歌でも、聴いた人が明日を生きられるなら、それはもう半分本物だよ」
「残り半分は?」
「歌い手の取り分」
ノエルは初めて少しだけ笑った。
その夜、王都の南門近くの酒場で、星盾の兵の歌が歌われた。
初めは、誰も大きな反応をしなかった。
兵士たちは杯を見つめ、商人は勘定を続け、荷運びたちは疲れた肩を回していた。
だが、二度目のサビで、一人が顔を上げた。
三度目で、誰かが口ずさんだ。
四度目で、店の隅にいた若い兵士が泣いた。
それは勝利の歌ではなかった。
帝国を打ち倒す歌でも、英雄が百人を斬る歌でもなかった。
逃げた兵が、泣く子を置いていけなかった歌だった。
だから、兵士たちは聞いた。
自分も逃げたかったからだ。
逃げてもなお、何か一つだけは抱えて戻れるかもしれないと、思いたかったからだ。
翌日、神殿では老司祭が説話を変えた。
「星は、強き者だけを選ぶのではありません」
老司祭は祭壇の前で語った。
「時に、震える手に盾を持たせる。涙を知る者に、涙する民を託す。東より戻った若き兵のために祈りましょう。彼のためだけではない。恐れながらも立とうとする、すべての者のために」
神殿の隅で、ノエルはその言葉を聞いていた。
悪くない。
老司祭は、星盾の兵とは言わなかった。
だが、誰もがそう聞いた。
これでいい。
昼には、兵士の手紙が城下から各地へ運ばれ始めた。
王都はまだ落ちていない。
東門に、子供を救った兵が戻った。
盾に星の傷があった。
俺も、もう少し踏みとどまる。
その言葉は、すべての兵が自分で考えたものではない。
だが、書いた時、彼らの手は少しだけ震えを止めた。
夕方、ライナス・ベルが記録室に連れてこられた。
熱は下がっていた。
だが顔色は悪い。
包帯を巻いた腕を庇うようにして立ち、ノエルを見る目には怯えと怒りが混じっていた。
「あなたが、ノエルさんですか」
「ノエル・アルバートです」
「俺のことを、書いた人ですか」
「そうです」
「やめてください」
ライナスは、ほとんど間を置かずに言った。
ユリアンが顔を上げる。
ノエルは椅子に座ったまま、ライナスを見た。
「何を」
「俺を英雄みたいに言うのをです」
「英雄とは書いていません」
「でも、みんなそう言っています」
「民が勝手に言っている」
「あなたが、そう言わせたんでしょう」
ノエルは少しだけ目を細めた。
この若者は鈍くない。
素朴ではある。
だが、馬鹿ではない。
自分が何かに使われていることを、正確に感じ取っている。
「そうです」
ノエルは認めた。
ライナスの顔が歪んだ。
「なんでですか」
「必要だからです」
「誰に」
「国に」
「俺は国なんて救えません」
「救えとは言っていません」
「じゃあ、何をしろって言うんですか」
「立っていればいい」
ライナスは黙った。
その沈黙は、怒りの前触れだった。
「俺は、立ってなんかいませんでした」
彼は絞り出すように言った。
「アグニスで、俺は逃げました。隊長がまだ声を出していた。トマも、別の門へ走っていった。誰が生きているのかも分からない。俺は怖くて、子供を背負って、森に逃げたんです」
「知っています」
「なら、どうして」
「それでも戻ったからです」
「戻るしかなかったんです。王都しか行く場所がなかった」
「途中で子供を捨てることもできた」
ライナスは言葉を失った。
そして、怒った。
「そんなこと、できるわけないでしょう」
「だから、あなたを選んだ」
記録室が静まり返った。
ユリアンも、羽根ペンを持ったまま動けなかった。
ノエルは続ける。
「ライナス・ベル。私はあなたが強いから選んだのではありません。敵を倒したからでも、戦術を知っているからでもない。あなたは怖がった。逃げた。震えた。それでも、泣いている子供を置いていけなかった」
「それだけです」
「それだけが、今の王都には必要です」
「違う」
ライナスは首を振った。
「みんな勘違いしてる。俺のことを見たら分かります。俺は普通の兵士です。剣だって上手くない。盾だって壊れた。敵が来たら、また逃げるかもしれない」
「そのままでいい」
「よくない!」
ライナスの声が初めて大きくなった。
「俺を信じた人が死んだら、どうするんですか。俺がいるから大丈夫だって思って、それで逃げ遅れたら。俺は、そんな責任を取れません」
「取らなくていい」
「じゃあ、誰が取るんですか」
「私です」
ライナスはノエルを睨んだ。
「あなたが死ぬんですか」
ノエルは答えなかった。
ライナスの言葉は正しい。
責任を取ると言う者は、たいてい死ぬ者ではない。
命を払うのは、別の誰かだ。
ノエルは、その不公平を否定できなかった。
「あなたは最低です」
ライナスは言った。
ユリアンが息を呑む。
だがノエルは頷いた。
「おそらく」
「俺は協力しません」
「構いません」
「え?」
「あなたに英雄らしく振る舞えとは言いません。嘘をつけとも言いません。聞かれたら事実を話しなさい。怖かった。逃げたかった。子供を置いていけなかった。それだけでいい」
「それを、あなたが勝手に変えるんでしょう」
「変えます」
「やっぱり最低だ」
「はい」
ライナスは拳を握った。
怒りよりも、恐怖の方が強いように見えた。
戦場で命を狙われる恐怖ではない。
自分が自分でなくなる恐怖。
それは、ある意味で戦場より残酷だった。
「俺は英雄じゃない」
ライナスは言った。
「何度でも言います。俺は、そんな人間じゃありません」
「なら、何度でも言いなさい」
ノエルは静かに返した。
「その言葉さえ、いつか誰かが必要とする」
ライナスは理解できないという顔をした。
そして、理解したくないという顔をした。
彼はそのまま記録室を出て行った。
扉が閉まった後、ユリアンが小さく言った。
「先生」
「何だ」
「今のは、ひどいです」
「知っている」
「本当に、彼を道具にするんですか」
「もうしている」
「止まれないんですか」
ノエルは机上の紙を見た。
布告。
手紙。
説話。
歌詞。
それらは、すでに王都の外へ流れ始めている。
噂は川に似ている。
指で押さえて止められるのは、湧き出した最初だけだ。
一度流れになれば、人の手では戻せない。
「止めるなら、昨日だった」
ノエルは言った。
その夜、ライナス・ベルの名は王都の三つの酒場で歌われた。
翌朝には、中央市場の女たちがその歌を口ずさんだ。
昼には、神殿帰りの老人が子供たちに星盾の兵の話をした。
夕方には、灰羽街道を西へ向かう商人の荷馬車に、その噂が積まれていた。
アグニス砦は落ちた。
けれど、星痕の盾を持つ兵が戻った。
王都は危ない。
けれど、まだ星は見捨てていない。
誰も、はっきりそうとは言わなかった。
だが誰もが、そう聞きたがった。
そして、聞きたがる言葉は、必ず広まる。
ノエルは王城の窓から、夜の王都を見下ろしていた。
暗い屋根の間に、灯りが点々と残っている。
いつもなら消えているはずの時間に、まだ人が起きている。
怯えて眠れないのか。
それとも、誰かの歌を聞いているのか。
どちらでもよかった。
膝を抱えて震えるだけの夜よりは、ましだった。
背後で、ユリアンが新しい報告を読み上げる。
「中央市場にて、星盾の兵の歌を確認。南門の兵舎にて、ライナス・ベルの名を用いた冗談と祈りを確認。神殿前にて、星痕の盾を模した木札を売る露店を確認」
「早すぎるな」
「止めますか」
「露店は止めろ。安っぽくなる」
「そこですか」
「英雄は売り物になった瞬間、軽くなる」
ユリアンは呆れたようにノエルを見た。
ノエルは気にしなかった。
「他には」
「兵舎で、若い兵たちが言っていたそうです」
「何を」
「アグニスから戻った奴がいるなら、自分たちも白橋までは逃げずにいよう、と」
ノエルは黙った。
それは小さな変化だった。
戦況を覆すものではない。
帝国軍の進軍を止める力もない。
ただ、兵が一歩だけ逃げるのを遅らせるかもしれない。
ノエルが欲しかったのは、それだった。
一歩。
その一歩が十人に広がれば、隊が残る。
隊が残れば、防衛線が一日保つ。
一日保てば、帝国の補給は一日余計に伸びる。
北方からの報せが一日早く届くかもしれない。
講和の条件が一枚変わるかもしれない。
戦とは、そういうものだ。
英雄の一太刀で決まるほど、現実は優しくない。
だが、英雄の噂で兵の足が一歩止まることはある。
それで十分だった。
その時、記録室の扉が叩かれた。
入ってきた近衛士官の顔は硬かった。
「ノエル殿。東方より正式な伝令です」
「アグニスか」
「はい」
士官は濡れた書簡を差し出した。
封蝋は割れている。
何人もの手を経て、ようやく王都へ届いたものだった。
ノエルは書簡を開いた。
短い報告だった。
アグニス砦、陥落。
守備隊長、戦死。
残存兵、四散。
帝国軍、灰羽街道を掌握しつつあり。
予想していたことだった。
だからといって、痛みが減るわけではない。
ユリアンの顔が青ざめた。
ガレスにはすぐ報告が行くだろう。
王女にも。
そして、いずれ民にも。
だが今、王都にはもう一つの話が流れている。
アグニスは落ちた。
だが、星痕の盾は戻った。
敗北と希望。
この二つを同じ日に王都へ入れることができた。
ノエルは書簡を閉じた。
「布告を用意する」
ユリアンが震える声で聞く。
「砦の陥落を、発表するんですか」
「する」
「民は混乱します」
「隠せば、もっと混乱する」
「では、どう書きますか」
ノエルは窓の外を見た。
王都の夜空には、星が出ていた。
相変わらず遠く、冷たく、何も救わない光だった。
だが、人はそれを見上げる。
「こう書け」
ノエルは言った。
「アグニス砦は落ちた。多くの勇士が王国の盾となり、東の地に眠った」
ユリアンはペンを走らせる。
「続けて」
「しかし、その盾は砕けても、意志は王都へ届いた。星痕の盾を携えし兵、ライナス・ベルの帰還がその証である」
ユリアンの手が止まった。
「先生」
「何だ」
「これは、もう完全に……」
「嘘か」
「いえ」
ユリアンは唇を噛んだ。
「全部が嘘ではないから、余計に怖いです」
ノエルは頷いた。
「そうだ。全部が嘘なら、誰も信じない」
彼は静かに言った。
「真実を少し混ぜるから、人は信じる」
翌朝、アグニス砦陥落の布告が王都に貼られた。
泣き崩れる者がいた。
怒鳴る者がいた。
壁を殴る者もいた。
だが、誰も完全には膝を折らなかった。
布告の最後に、その名があったからだ。
ライナス・ベル。
星痕の盾を携え、王都へ戻った若き兵。
彼が何者であるかを、まだ誰も知らない。
本人でさえ、知らない。
ただ王都だけが、彼を必要とし始めていた。
そしてそのことを、ライナスだけがまだ受け入れられずにいた。




