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第2話 星痕の盾

 王都セレンディアの朝は、いつもより静かだった。



 静かなのは、平穏だからではない。


 人々が声を潜めて、同じ噂を聞こうとしていたからだった。



 東門の布告板の前には、夜明け前から人が集まっていた。


 職人、商人、女中、兵士の妻、荷運びの男、神殿へ向かう老人。


 誰もが字を読めるわけではない。


 それでも、人は布告板の前に集まる。



 字を読める者が、声に出して読むからだ。



「東門より帰還した若き兵ライナス・ベル……」


 眼鏡をかけた織物商が、布告を読み上げた。


「戦火の中より幼子を救い、星痕の盾を携えて王都へ至る。その勇を王家は讃え、神殿は祈りを捧げるものとする……」



 読み終えた後、しばらく誰も口を開かなかった。



 やがて、老婆が呟いた。



「星痕の盾……」



 その声には、恐怖とは違う震えがあった。



 隣の若い母親が、抱いていた子を胸に寄せる。



「星盾の兵みたいだね」


「まだ、そうとは書いていない」


 商人が慎重に言った。


「王家は、そこまでは言っていない」



 だが、それは遅かった。



 人は、言われなかった言葉を勝手に補う。


 布告に星盾の兵とは書かれていない。


 しかし、星痕の盾と書かれている。


 幼子を救ったと書かれている。


 アグニス砦の方角から戻ったと書かれている。


 そして、王家が讃え、神殿が祈ると書かれている。



 ならば、そういうことなのではないか。



 誰かがそう考えた。


 誰かが口に出した。


 別の誰かが、さらに確からしい声で頷いた。



 噂は、いつもそのように生まれる。



 王城西翼の記録室で、ノエル・アルバートはその報告を聞いていた。



「広場では、すでに星盾の兵という言葉が出ています」


 ユリアン・クラインが、書き留めた紙を手にして言った。


「東門の布告板、中央市場、神殿前の井戸端。確認できただけで三か所です」


「速いな」


「止めますか」


「止められると思うか」


「……思いません」


「ならば、流れを変える方がいい」


 ノエルは机上の地図に目を落とした。



 王都セレンディアから東へ、灰羽街道が伸びている。


 そこを商人が通り、避難民が流れ、兵士の手紙が運ばれる。


 帝国軍もまた、その道を来る。



 道は剣より強いことがある。


 剣は人を殺す。


 道は言葉を運ぶ。



 そして言葉は、ときに剣より長く戦場に残る。



「布告は、もう一枚出す」


 ノエルは言った。


「内容は昨日のものと大きく変えない。事実の範囲から出るな」


「事実の範囲、ですか」


「ライナスが生きて戻った。子供を背負っていた。盾に星に見える傷がある。王女殿下が感謝した。ここまでは事実だ」


「星盾の兵とは書かない?」


「書かない」


 ユリアンは少し驚いた顔をした。


「使わないんですか」


「公式の布告が言い切れば、反論の的になる。こちらが言わず、民が勝手に言った方が強い」


「なぜです」


「自分で思いついた話を、人は疑いにくい」


 ユリアンは黙った。


 まだ納得はしていない。


 だが、その理屈が働いていることは理解している。


 それが、彼を苦しめていた。



 ノエルは次の紙を取った。



「兵士の家族へ出す手紙の文例を作る」


「文例?」


「前線の兵は、手紙が下手だ。疲れているし、怖がっている。だから書くべき型を渡す」


「内容は」


「アグニスで全てが失われたわけではない。東門に戻った兵がいた。幼子を救った者がいた。まだ王都には祈る理由がある。そう書かせる」


「それは、兵士本人の言葉ではありません」


「だが、兵士本人の恐怖を消す言葉にはなる」


 ユリアンは反論しかけ、やめた。



 記録室の外では、廊下を行き交う足音が絶えない。


 戦時の王城に、静かな場所などなかった。


 ただ、この部屋だけは違う種類の戦場になっていた。



 槍も剣もない。


 あるのは紙と、印章と、言葉だけだ。



 昼前、王女エリシアが記録室を訪れた。



 供は少ない。


 彼女は王女としてではなく、共犯者として来たのだと、ノエルはすぐに悟った。



「ノエル。布告は読みました」


「悪文でしたか」


「悪い文ではありません。悪い意図はありましたが」


「意図のない文は、壁の染みと同じです」


 エリシアは責めなかった。



 彼女は机上の紙を見た。


 兵士の手紙の文例。


 神殿へ渡す説話の草案。


 町ごとに変える布告の文面。


 灰羽街道を往来する商人への通行許可証。



 王女の目が、わずかに細くなる。



「もう、ここまで」


「遅いくらいです」


「神殿も使うのですね」


「神殿が言えば、噂に骨が入ります」


「神の名を借りるのは危険です」


「神は沈黙しています。沈黙は、利用されるためにあります」


 ユリアンが息を呑んだ。


 だがエリシアは怒らなかった。



「あなたは、神を信じていないのですか」


「信じていません」


「星盾の伝説も?」


「信じていません」


「では、なぜ使うのです」


「民が信じているからです」


 エリシアはしばらく黙った。



 窓の外では、城下の鐘が鳴っている。


 いつもの時刻の鐘だ。


 けれど今日の鐘は、昨日より長く響いて聞こえた。



「私は、王家の名を貸すと言いました」


 エリシアは静かに言った。


「ですが、忘れないでください。王家の名は、民を集める旗です。同時に、民を殺す刃にもなります」


「承知しています」


「英雄の噂が広がれば、兵は奮い立つでしょう。けれど、命令より英雄を信じるようになれば、軍は割れます」


「ガレス将軍にも同じことを言われました」


「なら、二度聞く価値のある警告です」


 ノエルは軽く頭を下げた。



 王女は正しい。


 ガレスも正しい。


 ユリアンの迷いも正しい。


 皆が正しいからこそ、国は簡単には動かない。


 正しい考えは、しばしば互いに邪魔をする。



 ノエルの仕事は、その邪魔を切ることだった。


 正しさではなく、必要で。



「ライナス・ベルは、どうしていますか」


 エリシアが尋ねた。


「医療院に。熱があるそうです。外傷は多いですが、命に別状はありません」


「彼に、説明は?」


「まだです」


「本人の同意なしに進めるのですか」


「同意を得れば、彼は断ります」


「それでも聞くべきです」


「聞けば、殿下は彼の拒絶を無視できますか」


 エリシアの表情が硬くなった。



 ノエルは続けた。



「彼は善良です。だから拒みます。自分は英雄ではない、と。事実、その通りです。彼は敵を倒していない。隊を救っていない。ただ子供を背負って逃げてきただけです」


「それを、あなたは英雄にする」


「はい」


「残酷ですね」


「国を救う道具は、たいてい誰かにとって残酷です」


 エリシアは目を伏せた。



 王女である彼女には、それが分かっていた。


 徴兵令を出す者は、自分の手で兵を殺さない。


 だが、兵が死ぬ原因を作る。


 税を上げる者は、自分の手で農民の鍋を空にしない。


 だが、鍋の中身を奪う。


 政治とは、遠くの誰かに血を流させる技術でもある。



 だからエリシアは、ノエルを止めなかった。



「ライナスに会います」


「私も同行します」


「いいえ」


 エリシアは首を振った。


「まずは、私が会います。王家としてではなく、あの子を救ってくれた礼を言うために」


 ノエルは少しだけ意外に思った。



 彼女は若い。


 だが、未熟ではない。


 民に見せる姿と、人に向ける姿を分けられる。


 それは王族に必要な才だった。



 医療院は、王城の北棟にあった。



 平時なら貴族の老人や訓練で怪我をした近衛が使う場所だ。


 今は敗残兵で埋まっていた。



 血と薬草と濡れた革の匂いが混ざっている。


 呻き声、祈りの声、医師の怒声。


 そこに英雄はいなかった。



 いるのは、痛みに耐える人間だけだった。



 ライナス・ベルは、部屋の隅の寝台に横たわっていた。


 額に布を当てられ、左腕に包帯を巻かれている。


 折れた盾は寝台の横に置かれていた。


 誰かが丁寧に泥を拭ったらしく、星形の傷が昨日よりはっきり見えた。



 エリシアが近づくと、ライナスは慌てて起き上がろうとした。



「そのままで」


 王女は言った。


「命令です」


 ライナスは中途半端な姿勢で止まり、それからぎこちなく寝台へ戻った。



「王女殿下……」


「あなたに礼を言いに来ました」


「礼なんて、そんな」


「子を一人救った。それは、礼を言うに値します」


 ライナスは目を伏せた。



「俺は、他の人を救えませんでした」


 その声は小さかった。


 だが、医療院の騒がしさの中でも、妙にはっきり聞こえた。



「砦には、まだ人がいました。走れない人もいた。怪我をして、助けを呼んでいた人も。俺は……全部、置いてきました」


 エリシアはすぐには慰めなかった。



 慰めが届かない傷もある。


 無理に塞げば、膿むだけだ。



「それでも、あなたは一人を救った」


「一人だけです」


「一人を救えない者に、十人は救えません」


 ライナスは黙った。



 その顔には、救われた者の安堵ではなく、生き残った者の罪悪感があった。



「王都で、俺のことが変に言われていると聞きました」


 ライナスは寝台の脇の盾を見た。


「星盾の兵だとか、アグニスの火を越えてきたとか。違います。俺は、そんな立派なものじゃありません。逃げてきただけです」


「その話は、私も聞いています」


「止めてください」


 ライナスは顔を上げた。



 若い目だった。


 恐怖を知ったばかりの目だった。



「お願いします。俺は英雄じゃありません。あんなふうに言われたら、死んだ人たちに申し訳が立たない」


 エリシアは、そこで初めて表情を揺らした。



 ライナスは愚かではない。


 むしろ、正しく理解している。


 噂は死者の上に立つ。


 生き残った者が英雄にされる時、その陰には帰れなかった者がいる。



「あなたの言葉は、ノエルにも伝えます」


「ノエル?」


「記録官です。あなたのことを記録した者」


 ライナスは戸惑ったように瞬いた。


「俺のことを、どうして」


「この国には、今、あなたのような者が必要だからです」


「俺のような?」


「怖くても、誰かを置いていけなかった者です」


 ライナスは何かを言おうとしたが、言葉にならなかった。



 エリシアは立ち上がる。



「休みなさい。あなたに背負わせるものは、軽くありません。ですが、今はまだ傷を治すことだけを考えなさい」


「殿下」


 ライナスが呼び止めた。


「本当に、止めてもらえませんか。俺は……そんな人間じゃないんです」


 エリシアは答えなかった。



 答えれば、嘘になる。



 その日の夕刻、ノエルは王都南門近くの酒場へ向かった。



 そこは兵士、荷運び、商人、旅芸人が集まる場所だった。


 情報は王城の机上で作れる。


 だが、広がるかどうかは酒場で決まる。



 扉を開けると、濁った熱気が流れてきた。


 安酒の匂い。


 濡れた外套の匂い。


 焼いた豆と古い油の匂い。


 隅では兵士が黙って杯を傾け、別の卓では商人が声を潜めて東の街道の話をしている。



 その中央で、一人の女が小さな竪琴を爪弾いていた。



 栗色の髪を肩で結び、旅装束の上に鮮やかな布を巻いている。


 笑えば人好きのする顔だが、目だけは笑っていない。


 客の財布と心の動きを、同時に見ている目だった。



 セラ・ミルド。


 吟遊詩人であり、噂売りであり、金次第で道も変える女。



 ノエルが近づくと、セラは演奏を止めずに言った。



「宮廷の匂いがするね」


「酒場で匂うとは、私も落ちたものです」


「落ちたんじゃない。仕事しに来た顔だ」


「歌を一つ買いたい」


「恋歌?」


「戦の歌だ」


「高いよ」


「国が払う」


「なら、もっと高いね」


 ノエルは向かいに座った。



 セラは軽く弦を鳴らす。



「東門の兵の話?」


「耳が早い」


「耳で飯を食べてるからね。子供を背負って帰ってきた若い兵。盾に星の傷。星盾村の近くの生まれ。王女様が礼を言った。ここまでは聞いた」


「十分だ」


「で、どこまで盛る?」


「盛らない」


 セラは初めて手を止めた。


 それから、少しだけ笑った。



「宮廷の人間が酒場まで来て、盛らないって?」


「核になる事実が小さい。大きな嘘を乗せれば潰れる」


「分かってるじゃない」


「だから、歌にするのは事実だけでいい」


「事実だけじゃ、人は泣かないよ」


「泣かせる必要はない。顔を上げさせればいい」


 セラは黙ってノエルを見た。



 彼女は軽い女ではなかった。


 軽く見せることで、重い場所を歩いてきた女だった。



「どんな歌にしたいの」


「強い英雄の歌ではない」


「じゃあ?」


「逃げた兵の歌だ」


 セラの眉が動く。


「面白いね」


「彼は逃げた。敵を倒していない。だが、泣いていた子供を置いて逃げられなかった」


「弱いのに?」


「弱いからだ」


 セラはゆっくりと竪琴の弦を撫でた。



「強い人が立つ歌は、強い人にしか届かない」


 彼女は言った。


「弱い人が立つ歌なら、弱い人が聴く」


「その通りだ」


「でも、酒場では少し足さないと届かないよ。人は正確な話より、覚えやすい話を持ち帰る」


「どこまで足す」


「火の中を歩いた、は駄目?」


「駄目だ。砦の火は見ているかもしれないが、歩いたとは言えない」


「帝国兵を三人倒した」


「駄目だ」


「盾の星が光った」


「絶対に駄目だ」


「固いねえ」


「魔法は起きない。奇跡も起きない。起きたことに、人が意味を見つけるだけだ」


 セラは、今度ははっきり笑った。



「気に入った」


「仕事を受けるか」


「受ける。題は?」


「星盾の兵」


「それ、公式には言ってないんでしょ」


「だから歌が言う」


「悪い男だね」


「よく言われる」


「褒めてないよ」


 セラは弦を鳴らした。



 短い旋律だった。


 まだ形にはなっていない。


 だが、酒場の数人が自然と顔を向けた。



 彼女は小さく歌い始めた。



 東の雨より、ひとり戻る。


 鎧は欠けて、剣は折れ。


 けれど背には、泣く子を負い。


 腕には星の、傷つく盾。



 ノエルは黙って聞いた。



 上手い。


 事実だけではない。


 だが、嘘にも踏み込みすぎていない。


 聞いた者が、自分で続きを想像できる余白がある。



 セラは歌を止めた。



「こんなところ?」


「十分だ」


「まだ一番だけだよ」


「一番で広がる歌が、良い歌だ」


「分かってるねえ、宮廷さん」


 ノエルは小袋を置いた。


 セラは中身を確かめ、満足げに頷く。



「どこで歌えばいい」


「今夜はここ。明日は中央市場。三日後には灰羽街道へ出てほしい」


「危ない道だよ」


「だから高く払った」


「足りないね」


「戻ったら倍」


「戻れなかったら?」


「神殿で祈らせる」


「最悪の冗談だ」


「戦時です」


 セラは小袋を懐にしまった。



「いいよ。歌ってあげる。ただし、私の歌は私のものだ。あんたの台本通りには歌わない」


「その方がいい」


「いいの?」


「民に刺さる言葉は、宮廷より酒場の方が知っている」


 セラは少しだけ真顔になった。



「嘘の歌でも、聴いた人が明日を生きられるなら、それはもう半分本物だよ」


「残り半分は?」


「歌い手の取り分」


 ノエルは初めて少しだけ笑った。



 その夜、王都の南門近くの酒場で、星盾の兵の歌が歌われた。



 初めは、誰も大きな反応をしなかった。


 兵士たちは杯を見つめ、商人は勘定を続け、荷運びたちは疲れた肩を回していた。



 だが、二度目のサビで、一人が顔を上げた。


 三度目で、誰かが口ずさんだ。


 四度目で、店の隅にいた若い兵士が泣いた。



 それは勝利の歌ではなかった。


 帝国を打ち倒す歌でも、英雄が百人を斬る歌でもなかった。



 逃げた兵が、泣く子を置いていけなかった歌だった。



 だから、兵士たちは聞いた。


 自分も逃げたかったからだ。


 逃げてもなお、何か一つだけは抱えて戻れるかもしれないと、思いたかったからだ。



 翌日、神殿では老司祭が説話を変えた。



「星は、強き者だけを選ぶのではありません」


 老司祭は祭壇の前で語った。


「時に、震える手に盾を持たせる。涙を知る者に、涙する民を託す。東より戻った若き兵のために祈りましょう。彼のためだけではない。恐れながらも立とうとする、すべての者のために」



 神殿の隅で、ノエルはその言葉を聞いていた。



 悪くない。


 老司祭は、星盾の兵とは言わなかった。


 だが、誰もがそう聞いた。


 これでいい。



 昼には、兵士の手紙が城下から各地へ運ばれ始めた。



 王都はまだ落ちていない。


 東門に、子供を救った兵が戻った。


 盾に星の傷があった。


 俺も、もう少し踏みとどまる。



 その言葉は、すべての兵が自分で考えたものではない。


 だが、書いた時、彼らの手は少しだけ震えを止めた。



 夕方、ライナス・ベルが記録室に連れてこられた。



 熱は下がっていた。


 だが顔色は悪い。


 包帯を巻いた腕を庇うようにして立ち、ノエルを見る目には怯えと怒りが混じっていた。



「あなたが、ノエルさんですか」


「ノエル・アルバートです」


「俺のことを、書いた人ですか」


「そうです」


「やめてください」


 ライナスは、ほとんど間を置かずに言った。



 ユリアンが顔を上げる。


 ノエルは椅子に座ったまま、ライナスを見た。



「何を」


「俺を英雄みたいに言うのをです」


「英雄とは書いていません」


「でも、みんなそう言っています」


「民が勝手に言っている」


「あなたが、そう言わせたんでしょう」


 ノエルは少しだけ目を細めた。



 この若者は鈍くない。


 素朴ではある。


 だが、馬鹿ではない。



 自分が何かに使われていることを、正確に感じ取っている。



「そうです」


 ノエルは認めた。



 ライナスの顔が歪んだ。



「なんでですか」


「必要だからです」


「誰に」


「国に」


「俺は国なんて救えません」


「救えとは言っていません」


「じゃあ、何をしろって言うんですか」


「立っていればいい」


 ライナスは黙った。



 その沈黙は、怒りの前触れだった。



「俺は、立ってなんかいませんでした」


 彼は絞り出すように言った。


「アグニスで、俺は逃げました。隊長がまだ声を出していた。トマも、別の門へ走っていった。誰が生きているのかも分からない。俺は怖くて、子供を背負って、森に逃げたんです」


「知っています」


「なら、どうして」


「それでも戻ったからです」


「戻るしかなかったんです。王都しか行く場所がなかった」


「途中で子供を捨てることもできた」


 ライナスは言葉を失った。


 そして、怒った。



「そんなこと、できるわけないでしょう」


「だから、あなたを選んだ」


 記録室が静まり返った。



 ユリアンも、羽根ペンを持ったまま動けなかった。



 ノエルは続ける。



「ライナス・ベル。私はあなたが強いから選んだのではありません。敵を倒したからでも、戦術を知っているからでもない。あなたは怖がった。逃げた。震えた。それでも、泣いている子供を置いていけなかった」


「それだけです」


「それだけが、今の王都には必要です」


「違う」


 ライナスは首を振った。


「みんな勘違いしてる。俺のことを見たら分かります。俺は普通の兵士です。剣だって上手くない。盾だって壊れた。敵が来たら、また逃げるかもしれない」


「そのままでいい」


「よくない!」


 ライナスの声が初めて大きくなった。



「俺を信じた人が死んだら、どうするんですか。俺がいるから大丈夫だって思って、それで逃げ遅れたら。俺は、そんな責任を取れません」


「取らなくていい」


「じゃあ、誰が取るんですか」


「私です」


 ライナスはノエルを睨んだ。



「あなたが死ぬんですか」


 ノエルは答えなかった。



 ライナスの言葉は正しい。


 責任を取ると言う者は、たいてい死ぬ者ではない。


 命を払うのは、別の誰かだ。



 ノエルは、その不公平を否定できなかった。



「あなたは最低です」


 ライナスは言った。



 ユリアンが息を呑む。


 だがノエルは頷いた。



「おそらく」


「俺は協力しません」


「構いません」


「え?」


「あなたに英雄らしく振る舞えとは言いません。嘘をつけとも言いません。聞かれたら事実を話しなさい。怖かった。逃げたかった。子供を置いていけなかった。それだけでいい」


「それを、あなたが勝手に変えるんでしょう」


「変えます」


「やっぱり最低だ」


「はい」


 ライナスは拳を握った。



 怒りよりも、恐怖の方が強いように見えた。


 戦場で命を狙われる恐怖ではない。


 自分が自分でなくなる恐怖。



 それは、ある意味で戦場より残酷だった。



「俺は英雄じゃない」


 ライナスは言った。


「何度でも言います。俺は、そんな人間じゃありません」


「なら、何度でも言いなさい」


 ノエルは静かに返した。


「その言葉さえ、いつか誰かが必要とする」


 ライナスは理解できないという顔をした。


 そして、理解したくないという顔をした。



 彼はそのまま記録室を出て行った。



 扉が閉まった後、ユリアンが小さく言った。



「先生」


「何だ」


「今のは、ひどいです」


「知っている」


「本当に、彼を道具にするんですか」


「もうしている」


「止まれないんですか」


 ノエルは机上の紙を見た。



 布告。


 手紙。


 説話。


 歌詞。


 それらは、すでに王都の外へ流れ始めている。



 噂は川に似ている。


 指で押さえて止められるのは、湧き出した最初だけだ。


 一度流れになれば、人の手では戻せない。



「止めるなら、昨日だった」


 ノエルは言った。



 その夜、ライナス・ベルの名は王都の三つの酒場で歌われた。



 翌朝には、中央市場の女たちがその歌を口ずさんだ。


 昼には、神殿帰りの老人が子供たちに星盾の兵の話をした。


 夕方には、灰羽街道を西へ向かう商人の荷馬車に、その噂が積まれていた。



 アグニス砦は落ちた。


 けれど、星痕の盾を持つ兵が戻った。



 王都は危ない。


 けれど、まだ星は見捨てていない。



 誰も、はっきりそうとは言わなかった。


 だが誰もが、そう聞きたがった。



 そして、聞きたがる言葉は、必ず広まる。



 ノエルは王城の窓から、夜の王都を見下ろしていた。



 暗い屋根の間に、灯りが点々と残っている。


 いつもなら消えているはずの時間に、まだ人が起きている。



 怯えて眠れないのか。


 それとも、誰かの歌を聞いているのか。



 どちらでもよかった。



 膝を抱えて震えるだけの夜よりは、ましだった。



 背後で、ユリアンが新しい報告を読み上げる。



「中央市場にて、星盾の兵の歌を確認。南門の兵舎にて、ライナス・ベルの名を用いた冗談と祈りを確認。神殿前にて、星痕の盾を模した木札を売る露店を確認」


「早すぎるな」


「止めますか」


「露店は止めろ。安っぽくなる」


「そこですか」


「英雄は売り物になった瞬間、軽くなる」


 ユリアンは呆れたようにノエルを見た。



 ノエルは気にしなかった。



「他には」


「兵舎で、若い兵たちが言っていたそうです」


「何を」


「アグニスから戻った奴がいるなら、自分たちも白橋までは逃げずにいよう、と」


 ノエルは黙った。



 それは小さな変化だった。


 戦況を覆すものではない。


 帝国軍の進軍を止める力もない。


 ただ、兵が一歩だけ逃げるのを遅らせるかもしれない。



 ノエルが欲しかったのは、それだった。



 一歩。


 その一歩が十人に広がれば、隊が残る。


 隊が残れば、防衛線が一日保つ。


 一日保てば、帝国の補給は一日余計に伸びる。


 北方からの報せが一日早く届くかもしれない。


 講和の条件が一枚変わるかもしれない。



 戦とは、そういうものだ。


 英雄の一太刀で決まるほど、現実は優しくない。


 だが、英雄の噂で兵の足が一歩止まることはある。



 それで十分だった。



 その時、記録室の扉が叩かれた。



 入ってきた近衛士官の顔は硬かった。



「ノエル殿。東方より正式な伝令です」


「アグニスか」


「はい」


 士官は濡れた書簡を差し出した。



 封蝋は割れている。


 何人もの手を経て、ようやく王都へ届いたものだった。



 ノエルは書簡を開いた。



 短い報告だった。



 アグニス砦、陥落。


 守備隊長、戦死。


 残存兵、四散。


 帝国軍、灰羽街道を掌握しつつあり。



 予想していたことだった。


 だからといって、痛みが減るわけではない。



 ユリアンの顔が青ざめた。


 ガレスにはすぐ報告が行くだろう。


 王女にも。


 そして、いずれ民にも。



 だが今、王都にはもう一つの話が流れている。



 アグニスは落ちた。


 だが、星痕の盾は戻った。



 敗北と希望。


 この二つを同じ日に王都へ入れることができた。



 ノエルは書簡を閉じた。



「布告を用意する」


 ユリアンが震える声で聞く。



「砦の陥落を、発表するんですか」


「する」


「民は混乱します」


「隠せば、もっと混乱する」


「では、どう書きますか」


 ノエルは窓の外を見た。



 王都の夜空には、星が出ていた。


 相変わらず遠く、冷たく、何も救わない光だった。



 だが、人はそれを見上げる。



「こう書け」


 ノエルは言った。



「アグニス砦は落ちた。多くの勇士が王国の盾となり、東の地に眠った」


 ユリアンはペンを走らせる。


「続けて」


「しかし、その盾は砕けても、意志は王都へ届いた。星痕の盾を携えし兵、ライナス・ベルの帰還がその証である」


 ユリアンの手が止まった。



「先生」


「何だ」


「これは、もう完全に……」


「嘘か」


「いえ」


 ユリアンは唇を噛んだ。


「全部が嘘ではないから、余計に怖いです」


 ノエルは頷いた。



「そうだ。全部が嘘なら、誰も信じない」


 彼は静かに言った。



「真実を少し混ぜるから、人は信じる」



 翌朝、アグニス砦陥落の布告が王都に貼られた。



 泣き崩れる者がいた。


 怒鳴る者がいた。


 壁を殴る者もいた。



 だが、誰も完全には膝を折らなかった。



 布告の最後に、その名があったからだ。



 ライナス・ベル。



 星痕の盾を携え、王都へ戻った若き兵。



 彼が何者であるかを、まだ誰も知らない。


 本人でさえ、知らない。



 ただ王都だけが、彼を必要とし始めていた。



 そしてそのことを、ライナスだけがまだ受け入れられずにいた。

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