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第1話 英雄のいない王都

 王都セレンディアには、英雄がいなかった。


 いるのは敗残兵と、言い訳の上手い貴族と、沈黙の長くなった王だけだった。



 白い城壁に囲まれた古都は、遠目にはまだ美しかった。


 古い王城の尖塔は朝霧の中に沈み、セイル川は城下を抱くように流れている。


 市場には織物が並び、神殿の鐘はいつもと同じ時刻に鳴った。



 だが、人の顔だけが違っていた。



 魚を売る女は客に値を告げる前に東の空を見た。


 荷馬車を引く男は車輪の軋みに怯えた。


 子供は兵士の靴音を聞くと、母親の服の裾を握った。



 戦が近いのではない。


 戦は、もう負けていた。



 ヴァルハルト帝国軍は灰羽街道を西へ進み、国境の守りであったアグニス砦を半ば呑み込んでいた。


 正確な報せは、まだ王都に届いていない。


 届いていないことが、かえってすべてを物語っていた。



 伝令が来ない。



 勝った軍は、伝令を急がせる。


 負けた軍は、伝令を失う。



 宮廷記録官ノエル・アルバートは、王城西翼の記録室で、その沈黙を書き留めていた。



 机上には羊皮紙が重なっている。


 戦況報告、徴発記録、貴族諸家からの返書、逃散した農民の名簿。


 どれも国が少しずつ痩せていく記録だった。



「アグニス砦より、三日報告なし」



 ノエルは羽根ペンを止め、短く息を吐いた。



 記録室の隅で、写字生のユリアン・クラインが顔を上げる。


 まだ少年の色を残した若い官吏で、目だけが妙に澄んでいた。



「先生。三日ということは……」


「落ちたか、包囲されているか、報せを出せない程度には壊れているか」


「それを書いてよろしいのですか」


「書かない方が国は長持ちするか?」



 ユリアンは言葉に詰まった。



 ノエルは皮肉で言ったのではない。


 少なくとも、彼自身はそう思っていた。



 記録とは、国の記憶である。


 記憶を飾れば、次に同じ傷を負う時、どこから血が出たのか分からなくなる。



 だからノエルは、事実を書く。


 ただし、事実だけでは人は動かないことも知っていた。



 扉が乱暴に開かれた。



「ノエル殿。会議だ」



 入ってきたのは、近衛の士官だった。


 鎧の肩には泥がついている。


 王城の中で泥を落とす余裕もないほど、今の宮廷は落ち着きを失っていた。



 ノエルは羽根ペンを置き、立ち上がる。



「陛下が?」


「王女殿下だ。将軍閣下もいる」


「ならば、まだ話になる」



 士官は眉をひそめたが、反論はしなかった。



 王が沈黙している今、実際に国を動かしているのは王女エリシアと老将ガレス・ヴォルンだった。


 王家の血と、戦場の経験。


 その二つが辛うじて、この古い王国を一枚の布のように繋ぎ止めている。



 だが布は裂けかけていた。



 軍議の間には、重い空気が満ちていた。



 中央の大机にはリステリア王国の地図が広げられている。


 西に灰海、北に北嶺山脈、中央をセイル川が流れ、東から灰羽街道が王都へ伸びている。



 その街道上、アグニス砦を示す駒は黒い布で覆われていた。


 死者に掛ける布に似ていた。



 老将ガレスが腕を組んで地図を見下ろしている。


 白髪混じりの髭、岩のような肩、片目の上に古傷。


 彼は英雄ではなかった。


 だが兵士から信じられている男だった。


 英雄より、その方が戦場では役に立つことがある。



 上座にはエリシア王女がいた。



 若い。


 若すぎるほどに若い。


 だが、その背はまっすぐだった。


 顔色は悪いが、目は伏せていない。


 王家というものが血でなく姿勢だとしたら、彼女は確かに王家の人間だった。



「ノエル・アルバート。記録官として聞きます」


 エリシアはそう切り出した。


「王都の民は、どこまで知っていますか」


「正確には何も」


「では、不正確には?」


「すべてです」



 部屋の中の数人が眉を動かした。



 ノエルは続ける。



「商人は東からの荷が減ったことを知っています。鍛冶屋は折れた剣の数を見ています。神殿は戦死者の祈祷が増えたことを隠せていない。市場の女たちは、兵士が酒場で何を言ったかを覚えています。民は地図を読めませんが、恐怖の匂いは読みます」


「恐怖を止める方法は」



 エリシアが問うた。



 ガレスが先に答えた。



「兵を集めることです。王都防衛線を固める。白橋の手前で帝国の足を止める。セイル川を渡らせねば、王都は保つ」


「兵は集まりますか」


「命令すれば集まります」


「戦えますか」



 ガレスは沈黙した。



 それは無能の沈黙ではなかった。


 正しい者が、正しくない答えを口にできない時の沈黙だった。



 兵は集まるだろう。


 だが、戦えるかは別だ。



 アグニス砦の敗報は、まだ正式には届いていない。


 だが皆が知っている。


 あの砦が抜かれれば、次は灰羽街道沿いの村々が焼かれ、やがて王都の城壁が帝国の槌を受けることになる。



 数で劣り、装備で劣り、補給で劣る。


 そして今、心でも劣っていた。



「兵は飯で動く」


 ガレスは低く言った。


「だが、飯だけで踏みとどまるわけではない。隣の兵が逃げれば、自分も逃げる。逆に隣が立てば、震えながらでも槍を持つ」


「その隣に、誰を立たせるか」


 ノエルが言った。



 ガレスの片目が彼を見る。



「記録官。何が言いたい」


「この国には、足りないものがあります」


「兵か。金か。矢か」


「英雄です」



 部屋が静まり返った。



 誰かが小さく笑った。


 笑いと言うより、息が漏れただけだった。



 ガレスは不快そうに眉を寄せる。



「歌で帝国兵を倒せるなら、吟遊詩人に槍を持たせる必要はないな」


「帝国兵は倒せません」


「ならば黙れ」


「ですが、逃げるリステリア兵を一歩だけ止めることはできます」



 ノエルは地図上の駒を一つ取った。


 王都を示す白い駒だった。


 それを指で弾き、机の端へ倒す。



「正面から勝つ話ではありません。負け方を選ぶ話です」



 エリシアが目を細めた。



「負け方」


「王都を落とされず、帝国の進軍を長引かせ、占領にかかる費用を思い出させる。北方で帝国が抱える問題が悪化するまで粘る。最後に、自治を残した講和へ持ち込む」



 ガレスは否定しなかった。



 それは、軍人にとって屈辱的なほど現実的な道だった。



「そのためには、民が逃げず、兵が折れず、貴族が勝手に降伏しない理由が要ります。王家の名だけでは足りない。陛下は沈黙し、王女殿下は若く、将軍閣下は正しいが、正しいだけでは民衆の夜を照らせない」


「英雄なら照らせると?」



 エリシアの声は静かだった。



「民は真実で立ち上がるんじゃない」


 ノエルは言った。


「立ち上がれるだけの物語で、ようやく膝を伸ばす」



 ガレスが机を叩いた。



「兵を騙す気か」


「騙されずに死ぬ兵が、騙されて一日生き延びるなら、どちらが慈悲深いのでしょう」


「詭弁だ」


「はい」



 ノエルはあっさり認めた。



「ですが、帝国軍は詭弁では止まりません。だからこそ、槍を持つ兵に、槍を持つ理由を渡す必要があります」



 会議の間に、誰もすぐには返せなかった。



 エリシアだけが、ノエルを見ていた。



「その英雄は、どこにいますか」



 ノエルは答えられなかった。



 それが問題だった。



 リステリアには古い伝説がある。


 国が危機に陥った時、夜空の星々は地上に盾を持つ者を遣わす。


 二百年前、建国王を白橋で逃がした名もなき盾持ち兵。


 その死後、彼は星になったと言われた。



 星盾の兵。



 神殿では今も、その名を語る。


 子供は星を見上げて祈る。


 老人は冬の夜、炉端で昔話をする。



 だが伝説は伝説だ。



 王都に必要なのは、今この時に肉を持って歩く英雄だった。



 そして、そんな者はいなかった。



 その日の午後、雨が降った。



 春の雨にしては冷たく、王都の石畳を黒く濡らした。


 城門の前には、東から逃げてきた者たちが集まり始めていた。


 荷車、痩せた馬、泥だらけの靴。


 誰もが何かを失い、まだ失ったものの名を口にできずにいた。



 ノエルは城壁上から、それを見下ろしていた。



 ユリアンが傘も差さずに隣へ来る。



「先生。先ほどの話、本気だったのですか」


「どこからどこまでを本気と呼ぶかによる」


「英雄を作るなんて」


「作るしかないなら、作る」


「でも、それは嘘です」



 ノエルは城門前の群れを見た。



 泣いている女がいる。


 兵士に詰め寄る老人がいる。


 祈る者がいる。


 怒鳴る者がいる。



 彼らの中に、戦略を理解している者はいない。


 だが、自分の明日が壊れかけていることだけは理解している。



「ユリアン」


「はい」


「真実を告げれば、あの者たちは落ち着くと思うか」


「……思いません」


「では、嘘を告げれば救われると思うか」


「それも、分かりません」


「正直だな。記録官に向いている」



 その時、城門の外が騒がしくなった。



 初めは避難民の列が乱れただけに見えた。


 だが次第に、兵士たちが動き始める。


 門番が声を上げ、槍を持った守備兵が駆け寄る。



 東の街道から、数人の兵が歩いてきていた。



 いや、歩いていたのは一人だけだった。



 他は、担がれていた。



 先頭の若い兵士は、鎧の半分を失っていた。


 兜はなく、髪は雨と血で額に張りついている。


 左腕に折れた盾を吊り、右肩には小さな子供を背負っていた。



 子供は泣き疲れたのか、兵士の首に腕を回したまま眠っていた。



 若い兵士の足取りは危うい。


 城門まであと十歩というところで膝をつきそうになり、それでも踏みとどまった。


 門兵が駆け寄り、彼を支える。



「アグニスの兵だ!」



 誰かが叫んだ。



 その声は雨を裂いた。



 城門前の避難民が一斉に振り向く。


 王都の守備兵たちも動きを止めた。


 アグニス砦。


 その名は、今や敗北そのものだった。



 ノエルは階段を降りた。



 速くはない。


 だが迷いはなかった。



 近づくにつれ、若い兵の様子がはっきり見えた。


 年は二十に届くかどうか。


 顔は青白く、唇は震えている。


 体格も特別ではない。


 どこにでもいる農家の次男、あるいは徴兵された村の若者。



 英雄の顔ではなかった。



 だからこそ、ノエルは足を止めなかった。



「名は」



 門兵に支えられた若者が、ぼんやりと顔を上げる。



「……ライナス」


「家名は」


「ベル。ライナス・ベルです」


「所属」


「アグニス砦、第三歩兵隊……でした」



 でした。



 その一語で、周囲の者たちは砦の運命を知った。



 ガレスも城門へ降りてきていた。


 彼は若い兵士の前に立つと、低い声で問う。



「砦は」



 ライナスは答えようとした。


 だが、喉が動くだけで声が出なかった。



 代わりに、彼の背から子供がずり落ちそうになる。


 ライナスは慌てて支えようとしたが、力が入らない。


 近くの女が子供を受け取った。



 子供は目を覚まし、泣き出した。



「お母さんは」



 その一言だけで、周囲の空気がさらに沈んだ。



 ライナスは雨の中で拳を握った。



「分かりません」


「お前が助けたのか」



 ガレスが問う。



 ライナスは首を振った。



「助けたなんて、そんな……ただ、道で泣いていて。砦から逃げる途中で。置いていけなくて」


「敵は」


「追ってきました」


「倒したのか」


「いいえ」



 ライナスは即座に言った。


 嘘をつく余裕すらない声だった。



「逃げました。森に入って、泥に伏せて、息を殺して……何度も、もう駄目だと思いました」



 周囲の兵士たちが視線を逸らした。



 それは軽蔑ではない。



 自分ならどうしたか、考えてしまった者の顔だった。



 ノエルはライナスの左腕を見た。



 そこに吊られている盾は、見るも無残だった。


 縁は割れ、革紐は切れかけ、表面には槍か矢か、いくつもの傷が走っている。



 その傷の一つが、雨水を溜めて光っていた。



 星の形に。



 偶然だった。



 おそらく、斜めに入った切り傷と、盾板の割れ目が重なっただけだ。


 そこに何の神意もない。


 奇跡などではない。


 世界は、そんな都合のいいものではない。



 だが人は、偶然に意味を見つける。



 見つけなければ、歩けない時がある。



「その盾を」


 ノエルは言った。



 ライナスは戸惑った。



「え?」


「見せてください」



 若い兵士は言われるまま、折れた盾を差し出した。



 ノエルはそれを受け取る。


 重い。


 雨を吸い、血を吸い、敗戦を吸っていた。



 だが、星形の傷は確かにあった。



 ユリアンが息を呑む。



「先生、これは……」


「黙っていろ」



 ノエルは小さく言った。



 ガレスの目もその傷に向いていた。


 老将は伝説を信じる男ではない。


 だが、兵士が伝説を信じることは知っている。



「ライナス・ベル」


 ノエルは若い兵士を見た。


「出身は」


「星盾村の近くです。村そのものではありません。北の、麦畑の方で」



 ユリアンが再び息を呑んだ。



 星盾村。



 古い礼拝堂がある村。


 星盾の兵の名を、今も祭壇に刻んでいる土地。



 あまりにも出来すぎていた。



 だからこそ、使える。



「この子を背負って、どれほど歩いた」


「分かりません。夜も歩いたので」


「なぜ置いていかなかった」



 ライナスは困ったように眉を寄せた。


 まるで、問いの意味が分からないという顔だった。



「泣いていたので」


「それだけか」


「はい」



 ノエルはしばらく黙った。



 強い者なら、いくらでもいる。


 剣に長けた騎士。


 地図を読める将校。


 税を動かせる貴族。



 だが、民が信じるのは強さだけではない。



 泣いている子供を置いて逃げなかった。



 その事実は、小さい。


 だが、折れた盾の星形の傷と同じで、光を当てれば形になる。



 ノエルは盾を抱えたまま、エリシアのいる城門上を見上げた。



 王女は雨の中、こちらを見ていた。


 白い外套が濡れている。


 側近が傘を差し出しているが、彼女は受け取っていなかった。



 その視線だけで、ノエルは分かった。



 彼女も気づいた。



 この若い兵士が英雄だからではない。



 この若い兵士を、英雄にできるかもしれないからだ。



「先生」


 ユリアンが震える声で言った。


「まさか」


「記録しろ」



 ノエルは盾から目を離さずに言った。



「アグニス砦より一兵帰還。名はライナス・ベル。敵中より幼子を救い、星痕の盾を携えて王都へ戻る」


「星痕?」


「今、そう名づけた」


「でも、それは……」


「嘘だと言いたいのか」



 ユリアンは唇を噛んだ。



「傷が星に見えるのは、本当です。子供を背負って戻ったのも、本当です。でも……」


「だが?」


「この書き方では、まるで伝説です」


「そう書け」



 ノエルは言った。



 雨は強くなっていた。


 王都の民は城門前で、まだ若い兵士を見ている。


 彼らは敗戦の報せを待っていた。


 だが今、その敗戦の道から、子供を背負った兵士が戻ってきた。



 人は絶望にも理由を求める。



 ならば希望にも、理由を与えればいい。



 ガレスが低く唸った。



「記録官。これは危ういぞ」


「承知しています」


「兵は英雄に酔う。命令より噂を聞くようになれば、軍は終わる」


「だから将軍閣下が必要です。兵の足を揃えるために」


「お前は何を揃える」


「心を」



 ガレスはノエルを睨んだ。



「心は紙で揃うものではない」


「紙だけでは無理です。歌が要る。説話が要る。兵士の手紙が要る。商人の舌が要る」


「そこまで考えているのか」


「今、考えました」


「悪党め」


「国が残れば、後で裁かれましょう」



 その時、ライナスが不安げに口を開いた。



「あの、俺は……何か、まずいことをしましたか」



 誰も答えなかった。



 若い兵士は、本当に分かっていなかった。


 彼にとっては、砦から逃げ、子供を拾い、泥の中を歩き、ようやく王都へ辿り着いただけなのだ。



 敵を討ったわけではない。


 隊を救ったわけでもない。


 旗を守ったわけでもない。



 ただ、泣いている子供を置いていけなかった。



 それだけだった。



 それだけで十分だった。



 ノエルはライナスに盾を返した。



「ライナス・ベル。今からあなたは休み、傷の手当てを受ける。誰に何を聞かれても、事実だけを話しなさい」


「事実だけ、ですか」


「そうです。嘘は私が引き受けます」



 ライナスは意味が分からないという顔をした。



 ノエルは笑わなかった。



 笑えることではなかった。



 これは一人の兵士を救う話ではない。


 一人の兵士を、国の前に差し出す話だ。



 彼の弱さも、恐怖も、善良さも、すべてを削り、磨き、都合のいい形にして掲げる。



 残酷な作業になる。



 それでも、王都には英雄がいなかった。



 いないなら、作るしかない。



 城門の上から、エリシア王女が降りてきた。


 濡れた白い外套を引きずりながら、彼女はライナスの前に立つ。



 周囲の民が自然と膝を折った。


 兵士たちも頭を垂れる。



 エリシアはライナスを見た。



「子を救ってくれたこと、王家の名において感謝します」



 ライナスは慌てて膝をつこうとしたが、力が抜けて倒れかけた。


 ガレスが片腕で支える。



 王女はその姿を見ても、表情を変えなかった。



 ただ、ノエルにだけ聞こえる声で言った。



「あなたの嘘で国が救えるなら、私はその嘘に王家の名を貸します」


 ノエルは目を伏せた。


「後始末は、嘘より重くなります」


「忘れません」



 王女はそう答えた。



 その夜、王都セレンディアの神殿では、いつもより長く鐘が鳴った。



 公式な布告はまだ出ていない。


 アグニス砦の陥落も、ライナス・ベルの名も、王家はまだ何も語っていない。



 だが、噂は布告より早い。



 東門に、子供を背負った兵が帰ってきた。



 折れた盾に、星の傷があった。



 星盾村の近くの生まれらしい。



 アグニスの炎の中から、生きて戻ったらしい。



 誰かが、そう言った。


 別の誰かが、少しだけ形を変えて語った。


 それを聞いた商人が、さらに声を潜めて広めた。



 夜更け、記録室の明かりは消えなかった。



 ユリアンは震える手で清書を続けている。


 ノエルは窓辺に立ち、雨上がりの空を見ていた。



 雲の切れ間に星が見える。



 死んだ英雄たちの魂だと、民は信じている。



 ノエルは信じていない。



 星はただ燃えているだけだ。


 遠く、冷たく、人間の祈りなど聞きもしない。



 だが、地上の人間は勝手に意味を見つける。



 ならば、その意味を使う者がいてもいい。



「先生」


 ユリアンが声をかけた。


「この記録の題は、何にしますか」



 ノエルは少し考えた。



 それはただの報告書ではない。



 最初の一行だった。



 嘘と真実の境目に置かれる、国を延命させるための小さな楔。



「こう書け」


 ノエルは言った。


「星盾の兵、帰還す」



 ユリアンのペン先が止まる。



「本当に、それでよろしいのですか」


「よろしいかどうかは、後の歴史が決める」


「では、私たちは何を決めるんですか」



 ノエルは窓の外を見た。



 東の空は暗い。


 そこには帝国軍がいる。


 数で勝り、規律で勝り、補給で勝り、正しい理由でこの国を奪いに来る敵がいる。



 リステリアに残されたものは少ない。



 山と川。


 古い砦。


 弱い王家。


 折れかけた兵。



 そして、泣く子供を置いていけなかった若者が一人。



「決めるのは、語り方だ」


 ノエルは静かに言った。



 翌朝、王都の広場に最初の布告が貼られた。



 そこにはアグニス砦の敗北は書かれていない。


 帝国軍の数も、失われた兵の名も、まだ書かれていない。



 ただ一つ。



 東門より帰還した若き兵ライナス・ベルが、戦火の中から幼子を救い、星痕の盾を携えて王都へ至ったこと。



 王家がその勇を讃えたこと。



 神殿が彼のために祈りを捧げること。



 それだけが、丁寧な文字で記されていた。



 広場に集まった民は、初め黙って読んでいた。



 やがて、誰かが空を見上げた。



 つられるように、別の誰かも見上げた。



 朝の空に星はない。



 それでも人々は、見えない星を探した。



 ノエルは広場の端で、その様子を見ていた。



 ユリアンが隣で小さく言った。



「先生。これは嘘です」


「そうだ」


「でも……昨日まで泣いていた人たちが、顔を上げています」



 ノエルは答えなかった。



 答えれば、この嘘が許されたような気がしたからだ。



 嘘は嘘だ。



 人を救おうと、国を守ろうと、嘘であることに変わりはない。



 だが、真実だけで国が滅ぶなら。



 真実を抱えたまま民が膝を折るなら。



 その時、嘘を語る者は罪人か。



 それとも、別の名で呼ばれるのか。



 ノエルにはまだ分からなかった。



 ただ一つ、分かっていることがある。



 王都セレンディアには、英雄がいなかった。



 だから今日、彼は一人作った。

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