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第3話 弱き者の盾

 噂は、王都の城壁を越えると足が速くなった。



 布告よりも速く。


 伝令よりも軽く。


 そして、事実よりも少しだけ美しく。



 星痕の盾を持つ兵が、アグニスの炎から戻った。


 その兵は、泣く子を背負って王都まで歩いた。


 名はライナス・ベル。


 星盾村の近くの生まれ。


 古き星盾の兵の再来かもしれない。



 誰も、最初からそう断言したわけではない。



 王家は言わなかった。


 神殿も言わなかった。


 ノエル・アルバートも、公式の書面には一度もそう書いていなかった。



 だが、人は言われたことだけを信じるのではない。



 言われなかった言葉を、自分で補う。


 そして自分で補った物語ほど、強く握りしめる。



 灰羽街道を行く商人は、その話を荷と一緒に運んだ。


 兵士の手紙は、村の家々にその名を届けた。


 吟遊詩人セラ・ミルドの歌は、酒場から市へ、市から街道へ、街道から祈りの場へと流れていった。



 東の雨より、ひとり戻る。


 鎧は欠けて、剣は折れ。


 けれど背には、泣く子を負い。


 腕には星の、傷つく盾。



 歌は勝利を語らなかった。



 だから広がった。



 大勝利の歌なら、敗残兵は聞かなかっただろう。


 百人斬りの歌なら、槍を持つ手の震えを知る兵は鼻で笑っただろう。


 だがその歌は、逃げた兵の歌だった。


 怖くて逃げた。


 それでも、泣く子を置いていけなかった。



 その程度なら、自分にもできるかもしれない。



 人は、そう思える物語にだけ、足を預ける。



 王城西翼の記録室で、ノエルは各地から届く報告を読んでいた。



 灰羽街道沿いの宿場町で、民兵の逃散が減った。


 南門の兵舎で、若い兵が盾に星を刻んだ。


 中央市場で、星痕の盾を真似た木札を売ろうとした露店は、衛兵によって撤去された。


 神殿では、老司祭が「恐れる者のための祈り」を始めた。



 どれも、小さい。


 どれも、戦況を変えるほどではない。



 だが、小さいものは積み重なる。



 兵が一人逃げなければ、隣の兵も逃げるのを少しだけ迷う。


 村が一つ物資を隠さず差し出せば、次の荷馬車が王都へ届く。


 祈りが一つ増えれば、夜に眠れなかった女が、朝にパンを焼く。



 国とは、そういう小さいものの集まりだった。



「星盾村からです」


 ユリアン・クラインが、泥のついた書簡を差し出した。



 ノエルは封を切った。



 星盾村。


 灰羽街道から少し北へ外れた、麦畑と古い礼拝堂の村。


 ライナス・ベルの生まれた家は、その近くの集落にある。



 書簡は短かった。



 帝国軍の先遣隊が、星盾村方面へ進んでいる。


 規模は五十から七十。


 騎兵少数、歩兵多数。


 目的は略奪ではなく、周辺の穀物と馬の徴発、ならびに灰羽街道北側の退路確認と思われる。



 ノエルは書簡を机に置いた。



「合理的だな」


 ユリアンが顔を上げる。



「帝国が、ですか」


「そうだ。灰羽街道を押さえた後、北側の村を放置すれば、斥候や民兵の隠れ場所になる。星盾村には古い礼拝堂がある。民の心を折るにも、占領する価値がある」


「では、村は……」


「危ない」


 ユリアンの顔が曇った。



 彼はまだ若い。


 地図上の村を、地図上の点として見られない。


 そこに家があり、老人がいて、子供がいることを考えてしまう。



 記録官としては弱点だった。


 人間としては、美点だった。



「ガレス将軍へ」


 ノエルは言った。


「星盾村周辺の防衛について、軍議を求める」



 軍議はすぐに開かれた。



 王城の小会議室には、ガレス・ヴォルン、王女エリシア、数人の将校、そしてノエルが集まった。


 地図の上には、灰羽街道と星盾村が示されている。



 ガレスは地図を見下ろし、すでに答えを持っている顔をしていた。



「正規軍は出せん」


 彼は言った。


「王都防衛線の編成がまだ終わっておらん。白橋周辺の補強も遅れている。ここで兵を割けば、帝国本隊に対する備えが薄くなる」


 正しい判断だった。



 星盾村を守ることは、感情としては正しい。


 だが王都を守るという全体戦略から見れば、兵力を分散させる危険がある。



 将軍は無情なのではない。


 大きなものを守るために、小さなものを諦める職責を負っている。



「村には避難命令を出す」


 ガレスは続けた。


「動ける者は王都か白橋の西へ。穀物は焼くか隠す。馬は連れてこい。礼拝堂は……惜しいが、守れん」


 室内の空気がわずかに重くなった。



 星盾村の礼拝堂。


 そこは星盾信仰の古い場だった。


 民にとっては、ただの建物ではない。



 エリシアが問うた。



「礼拝堂を失えば、民の心に響きます」


「兵を失えば、王都が落ちます」


 ガレスは即答した。



 エリシアは反論しなかった。


 それが正しいと分かっていたからだ。



 ノエルは地図上の星盾村を見ていた。



 礼拝堂を失うことは痛い。


 だが、守れないものを守ると言えば、嘘になる。


 嘘にも、耐えられる重さと耐えられない重さがある。



「将軍閣下」


 ノエルは口を開いた。


「村を守るのではなく、村人を逃がすための時間を稼ぐことはできますか」


「小隊なら出せる。山岳斥候を含めて二十。目的は戦闘ではなく誘導と撤収支援だ」


「指揮官は」


「現場を知る者を出す。無駄な戦はさせん」


「そこに、ライナス・ベルを同行させてください」


 室内が静まった。



 ガレスの片目が、鋭くノエルを射た。



「何のために」


「民を動かすためです」


「戦場に飾りを持ち込む気か」


「飾りではありません。合図です」


「同じことだ」


 ガレスの声は低かった。



「ライナスは負傷明けだ。剣の腕も並。兵としても経験が浅い。連れていけば足手まといになる」


「戦わせるつもりはありません」


「戦場へ連れていくとは、戦う可能性を背負わせることだ」


「承知しています」


「承知している顔ではない」


 ガレスは地図から目を離し、ノエルへ向き直った。



「記録官。お前の噂で兵の足が止まり始めていることは認める。だが、噂と実戦は違う。矢は歌を避けん。槍は布告を読まん。帝国兵は、星の傷がある盾だからといって手を緩めん」


「だからこそ、今が重要です」


「何がだ」


「噂が、一度だけ現実と接する必要があります」


 エリシアが小さく息を呑んだ。



 ノエルは続けた。



「王都では、ライナスはすでに星盾の兵として語られています。ですが今の彼は、ただ戻ってきただけの兵です。噂と本人の間に隙間がある。その隙間は、放置すれば広がります」


「なら、噂を弱めろ」


「もう遅い」


 ガレスの顔が険しくなった。



 ノエルは頭を下げるでもなく、言い訳するでもなく、淡々と言った。



「噂は王都を出ています。灰羽街道を通って、村々へ届いている。星盾村にも届いているはずです。彼が姿を見せれば、村人は逃げる理由を得ます。兵は踏みとどまる理由を得ます」


「踏みとどまりすぎれば死ぬ」


「だから指揮官が必要です。命令は将軍の兵が出す。ライナスは命令しない。ただ、そこにいる」


「そこにいるだけの者を、守る兵が必要になる」


「守る価値はあります」


 ガレスは黙った。



 怒っている。


 だが、考えてもいる。



 彼は頭の固い男ではない。


 ただ、戦場で何が起きるかを知っているだけだ。



 エリシアが静かに言った。



「ノエル。ライナス本人は、了承するでしょうか」


「しないでしょう」


「では」


「それでも、聞きます」


 ノエルは答えた。



「今度は、本人に選ばせます」



 ライナス・ベルは、医療院の裏庭で歩く練習をしていた。



 左腕の包帯はまだ取れていない。


 体力も戻っていない。


 十歩歩くだけで息が上がる。



 だが彼は、寝台にいることに耐えられなかった。



 寝ていると、アグニスの声が聞こえる。



 助けを呼ぶ声。


 崩れる木材の音。


 帝国兵の号令。


 泥の中で、子供の口を手で押さえ、自分の息まで止めようとした夜。



 英雄の歌は、彼の耳にも届いていた。



 星盾の兵。


 泣く子を救った若き盾。


 恐れを知らぬ帰還者。



 どれも自分ではない。



 ライナスは何度もそう言った。


 医師にも、看護の女にも、見舞いに来た兵士にも。


 自分は逃げただけだ。


 怖かった。


 何もできなかった。



 だが、その言葉を聞いた兵士たちは、なぜか前より真剣な顔をした。



「それでも戻ったんだろう」


 誰かが言った。



 ライナスには、その意味が分からなかった。



 裏庭の端で、ノエルが待っていた。



 ライナスは足を止める。



「またですか」


「またです」


「今度は何を書いたんですか」


「まだ何も」


「これから書くんですね」


「おそらく」


 ライナスは顔をしかめた。



 ノエルは、余計な前置きをしなかった。



「星盾村に、帝国の先遣隊が向かっています」


 ライナスの表情が変わった。



 怒りも警戒も、一瞬で消えた。


 残ったのは、恐怖だった。



「星盾村……」


「あなたの故郷そのものではないと聞いています」


「近くです。礼拝堂には、何度も行きました。母さんが……星の日には、いつも」


 ライナスは言葉を切った。



 ノエルは待った。



「村は、どうなるんですか」


「避難命令を出します。小隊を派遣し、村人を逃がす。目的は防衛ではなく撤収支援です」


「なら、よかった」


「あなたにも同行してほしい」


 ライナスは目を見開いた。



「なぜ」


「あなたがいれば、村人が動きます」


「俺がいても、帝国兵は止まりません」


「止める必要はありません。逃げる時間を作るだけです」


「俺に何ができるんですか」


「姿を見せる」


 ライナスは笑った。



 乾いた、苦い笑いだった。



「それだけですか」


「それだけです」


「俺は看板ですか」


「はい」


 ライナスの顔に怒りが浮かんだ。



「あなたは、本当に……」


「最低ですか」


「分かっているなら、やめてください」


「やめれば、村人が少し余計に死ぬかもしれない」


 ライナスは言葉を失った。



 ノエルは静かに続けた。



「あなたが行かなければ、村人は避難命令を疑うでしょう。年寄りは礼拝堂を離れたがらない。男たちは家畜と穀物を諦めきれない。女たちは荷造りに迷う。子供は泣く。その間に帝国の先遣隊が来る」


「俺が行けば、皆逃げるんですか」


「分かりません」


「分からないのに」


「だが、可能性は上がる」


 ライナスは拳を握った。



「俺は戦えません」


「知っています」


「また逃げるかもしれません」


「それも知っています」


「だったら」


「だから、あなたに命令はできません」


 ノエルは言った。



 ライナスは眉を寄せた。



「命令じゃ、ないんですか」


「違います。行くかどうかは、あなたが選ぶ」


「……卑怯ですね」


「はい」


「俺が断ったら、見捨てたみたいになる」


「そう感じるなら、あなたの中に答えはあります」


 ライナスはノエルを睨んだ。



 だが、その目にはもう怒りだけではなかった。



 怖い。


 行きたくない。


 また帝国兵を見るかもしれない。


 今度は戻れないかもしれない。



 その全部が、顔に出ていた。



 ノエルはそれを見て、初めて少しだけ胸の奥が重くなった。



 この若者は、本当に普通なのだ。


 勇敢ではない。


 戦が好きでもない。


 名誉に酔ってもいない。



 ただ、置いていけないものを見つけると、足が止まってしまう。



「子供は、いますか」


 ライナスが聞いた。



「星盾村に?」


「はい」


「います」


「小さい子も?」


「いるでしょう」


 ライナスは目を伏せた。



 長い沈黙の後、彼は小さく言った。



「行きます」


 ノエルは頷いた。



「感謝します」


「感謝しないでください」


 ライナスは顔を上げた。



「俺は英雄だから行くんじゃありません」


「分かっています」


「分かっていない」


 彼は強く言った。



「俺は、怖いです。今も逃げたい。できるなら、寝台に戻って、耳を塞いでいたい。でも……」


 言葉が止まる。



 ライナスは、自分の手を見た。



 まだ震えている手だった。



「また子供が泣いていたら、たぶん、置いていけない」


 ノエルは何も言わなかった。



 その言葉だけで十分だった。



 翌朝、星盾村へ向かう小隊が王都を出た。



 兵は二十一名。


 山岳斥候が六名。


 弓兵が五名。


 槍兵が八名。


 指揮を執るのは、若いが落ち着いた隊長フィン・ラウだった。


 そして、ライナス・ベル。



 彼は新しい鎧を与えられていなかった。


 ノエルがそうさせなかった。



 磨かれた鎧は嘘になる。


 必要なのは、東門に戻った時と同じ折れた盾だった。



 星形の傷だけは、泥を落とされている。


 それ以外は、割れた縁も、歪んだ金具も、そのままだった。



 王都の東門には、見送りの民が集まっていた。



 誰かが小さく祈った。


 誰かが星の印を胸に切った。


 子供がライナスを指差し、母親が慌ててその手を下ろした。



 ライナスは顔を伏せていた。



 彼は歓声に応えなかった。


 手も振らなかった。


 ただ、折れた盾を抱え、馬ではなく自分の足で歩いた。



 その姿を見て、民の噂はまた少し形を変えた。



 星盾の兵は、飾りの鎧を着ない。


 星盾の兵は、王都の拍手に笑わない。


 星盾の兵は、折れた盾のまま戦場へ戻る。



 ノエルは城壁の上から、その出発を見ていた。



 隣にはエリシアがいた。



「彼は、戻れますか」


 王女が問うた。



「分かりません」


「あなたは、分からないことが多いですね」


「分かっているふりをする者よりは、害が少ないかと」


「本当にそうならいいのですが」


 エリシアは東へ向かう小隊を見つめていた。



「ノエル」


「はい」


「彼が死ねば、英雄になります」


「はい」


「生きて戻れば、もっと危うい英雄になります」


「はい」


「あなたは、どちらを望んでいるのですか」


 ノエルは少しだけ黙った。



 答えは簡単だった。


 国のためなら、生きて戻る英雄が要る。


 民の心を支えるには、死者より生者の方が使いやすい。



 だが、ライナス個人のためなら。


 彼はこのまま名もない兵として逃げ続けた方が、ずっと幸せだっただろう。



「戻ることです」


 ノエルは言った。


「ただし、英雄としてではなく」


「では、何として」


「まだ、分かりません」


 エリシアはそれ以上聞かなかった。



 星盾村へ向かう道は、雨上がりでぬかるんでいた。



 小隊は灰羽街道を途中で外れ、北の森沿いを進んだ。


 帝国の本隊を避けるためだ。



 隊長のフィンは慎重だった。


 斥候を先に出し、足跡を消し、休憩の場所も林の陰に選ぶ。


 彼はライナスに特別な扱いをしなかった。



「ベル」


「はい」


「遅れるな。だが無理に前へ出るな」


「はい」


「盾は掲げろ。村に着いたら、村人の見えるところに立て」


「戦うんですか」


「戦うなと言われている。戦う時は、逃げるためだ」


 フィンはそう言った。



 それは、ライナスにとって少しだけ救いだった。



 この隊長は、自分を英雄として扱っていない。


 荷物の一つとして、あるいは旗の一つとして、冷静に運用しようとしている。



 それがありがたかった。



 夕方前、小隊は星盾村の外れに着いた。



 村はまだ燃えていなかった。



 麦畑が風に揺れ、低い石垣が家々を囲み、中央に古い礼拝堂が立っている。


 礼拝堂の屋根には、錆びた鉄の星が掲げられていた。



 ライナスは、その星を見た瞬間、胸が詰まった。



 母に手を引かれて来たことがある。


 冬の夜、村人たちが小さな灯りを持ち寄り、死んだ兵士の名を祈ったことがある。


 星盾の兵の話を聞きながら、退屈で眠くなったこともある。



 あの時、伝説は遠かった。



 今は、その伝説が自分の首に縄のように掛けられている。



 村は混乱していた。



 避難命令は届いていた。


 だが、動けていなかった。



 老人たちは礼拝堂に集まって祈り、男たちは穀物を運び出すか焼くかで揉め、女たちは荷造りをしながら子供を叱っていた。


 家畜を連れて逃げたい者。


 先祖の墓を置いていけない者。


 帝国軍などまだ来ないと信じたい者。



 誰も愚かではない。



 ただ、人は暮らしを捨てる時、すぐには動けない。



 隊長フィンは村長と話し、即座に指示を出した。



「荷は半分にしろ。歩けない老人は荷車へ。穀物は運べる分だけ持つ。残りは隠す。火はまだ使うな。煙で見つかる」


 山岳斥候が周辺へ散る。


 弓兵が礼拝堂の屋根に上がる。


 槍兵が村の東側に低い柵を作り始める。



 ライナスは村の中央に立たされた。



 折れた盾を持って。



 最初に彼を見つけたのは、一人の老婆だった。



「あんた……ベルのところの」


 ライナスは戸惑いながら頷いた。



「はい。ライナスです」


「星痕の盾の?」


 その声に、周囲の者たちが振り向いた。



 空気が変わった。



 作業していた男の手が止まる。


 泣いていた子供が顔を上げる。


 礼拝堂の入口にいた老人たちが、星の印を切る。



 ライナスは、逃げ出したくなった。



 違う。


 俺は違う。


 そんな目で見るな。



 喉まで出かかった言葉を、彼は飲み込んだ。



 今、それを言えばどうなるか。


 村人たちは、また迷う。


 逃げる足が止まる。


 礼拝堂に残る者が出る。



 ノエルの言葉が、腹立たしいほど正しく思い出された。



 姿を見せる。



 それだけでいい。



 ライナスは盾を胸の前に持った。



 何かを言うつもりはなかった。


 だが、村人たちはそれを見て動き始めた。



「星盾の兵が来たなら、急がねば」


 誰かが言った。


「礼拝堂の星も、我らに逃げろと言っているのだ」


 別の誰かが頷いた。



 フィン隊長はその隙を逃さなかった。



「東の道は使うな! 北の森へ入る! 荷車は三台まで! 歩ける者は歩け!」



 命令が通った。



 さっきまで揉めていた男たちが動く。


 女たちは荷を減らす。


 老人たちは礼拝堂から出て、震える手で互いを支えた。



 ライナスは呆然とそれを見ていた。



 自分は何もしていない。


 本当に、ただ立っていただけだ。



 それなのに、人が動いた。



 恐ろしかった。



 戦場で敵に追われた時とは違う恐ろしさだった。



 自分が、自分以上の何かにされていく。



 その時、東の森から斥候が戻った。



「帝国兵、接近! 距離は半里! 騎兵三、歩兵およそ六十!」


 フィンの顔が変わった。



「早いな」


 彼は短く舌打ちした。


「避難完了までどれくらいだ」


「老人と子供が遅れています。最低でも半刻」


「稼ぐしかない」


 フィンは即断した。



「弓兵は礼拝堂と納屋へ。槍兵は東柵の裏。斥候は森に入って側面から音を立てろ。数を多く見せる。正面で受けるな。撃って、下がる」


 命令は速く、無駄がなかった。



 誰も勝とうとしていない。


 逃げるために戦う。


 それがこの小隊の目的だった。



 ライナスは盾を握りしめた。



「俺は」


「お前は中央にいろ」


 フィンが言った。


「村人に見える場所だ。前に出るな」


「でも」


「お前が死ぬと面倒だ」


 乱暴な言い方だった。


 だが、そこには現実があった。



 ライナスは頷いた。



 帝国兵は、無秩序に突っ込んできたわけではなかった。



 彼らは村の手前で一度止まり、騎兵を左右に振って逃げ道を探らせた。


 歩兵は盾を並べ、弓の射程を測りながら進んでくる。


 先遣隊を率いる小隊長は、略奪者ではなく職業軍人だった。



 星盾村を焼きに来たのではない。


 確保しに来たのだ。



 穀物、馬、道、礼拝堂。


 そして、王都側の反応。



 フィンはその意図を読んでいた。



「撃て」



 最初の矢が飛んだ。



 帝国兵の一人が肩を押さえて膝をつく。


 だが隊列は崩れない。


 盾が上がり、槍が揃う。



 強い。



 ライナスは、それを見ただけで足が震えた。



 アグニスの記憶が戻る。



 あの整った足音。


 低い号令。


 迷いなく近づいてくる鋼の列。



 リステリア兵の誰かが、息を呑む音がした。



 村人たちは北へ逃げている。


 だが、まだ全員ではない。


 礼拝堂の前で、子供が一人泣いていた。



 五つか六つほどの女の子だった。


 母親とはぐれたのか、麦の袋の陰に座り込み、動けなくなっている。



 ライナスはそれを見た。



 見てしまった。



 フィンの命令が聞こえる。


 弓兵の声が聞こえる。


 帝国兵の盾を叩く矢の音が聞こえる。



 だが、それらが遠くなった。



 子供が泣いている。



 ただ、それだけが近くなった。



「中央にいろ」


 そう命じられていた。



 その命令は正しい。


 ライナスが前へ出ても、戦況は良くならない。


 むしろ小隊の負担が増える。


 英雄の噂に傷がつけば、王都にも影響する。



 全部分かっていた。



 分かっていても、足が動いた。



「ベル!」


 フィンが叫んだ。



 ライナスは走っていた。



 速くはない。


 格好よくもない。


 泥に足を取られ、折れた盾を抱え、息を切らして走った。



 帝国兵の一人がそれに気づき、弓を向けた。



 矢が飛ぶ。



 ライナスは盾を上げた。



 衝撃。


 腕が痺れる。


 折れた盾の縁に矢が刺さり、彼はよろめいた。



 怖い。


 やっぱり怖い。



 足が止まりかける。



 その時、子供が泣きながら言った。



「お母さん」



 ライナスは歯を食いしばった。



 もう一度、走った。



 子供の前に膝をつく。



「立てる?」


 子供は首を振った。



 ライナスは盾を背に回し、子供を抱き上げた。



 軽い。



 こんなに軽いものを、人は戦場に置いていけるのか。



 いや、置いていける。


 置いていかなければ、自分が死ぬからだ。



 それが普通だ。


 それが正しい。


 それが戦場だ。



 だからライナスは、自分が正しくないことをしていると分かっていた。



 それでも、子供を抱えた。



 帝国兵が前進する。


 リステリアの弓兵が援護する。


 斥候が森の中で笛を鳴らし、別方向から兵がいるように見せかける。



 フィンは即座に命令を変えた。



「左の納屋を燃やせ! 煙で視界を切れ! 槍兵二名、ベルを拾え!」


 判断は速かった。



 ライナスの勝手な行動を罵っている暇はない。


 起きた事実を利用し、損害を減らす。


 それが現場指揮官の仕事だった。



 納屋から煙が上がる。


 帝国兵の進みがわずかに鈍る。


 槍兵二人がライナスへ駆け寄る。



「走れ!」


 一人が叫んだ。



「走ってます!」


 ライナスも叫び返した。



 声は震えていた。


 だが、足は止まらなかった。



 子供を抱え、盾を背に、彼は村の中央へ戻った。



 村人たちがそれを見ていた。



 逃げる足を止めて、見てしまっていた。



 星痕の盾を持つ若い兵が、また子供を抱えて戻ってきた。



 それは小さな出来事だった。



 敵将を討ったわけではない。


 戦線を押し返したわけでもない。


 奇跡が起きたわけでもない。



 だが、村人の目には焼きついた。



 兵士たちの目にも。



「下がれ!」


 フィンが怒鳴った。


「全員、北の森へ! 村は捨てる!」



 今度は、誰も迷わなかった。



 老人も、女も、子供も、荷を諦めて走った。


 男たちは穀物袋を捨て、母親たちは鍋も布も置いた。


 礼拝堂の扉は開け放たれたままになった。



 だが、人は動いた。



 命が、物より先に動いた。



 小隊は予定より早く撤収に入った。


 フィンは最後尾で槍兵をまとめ、帝国兵の追撃を防いだ。


 斥候は森の中で何度も足音を散らし、敵に数を誤認させた。


 帝国の小隊長は深追いしなかった。



 彼もまた、無能ではなかった。



 森に逃げ込む相手を追えば、待ち伏せを受ける危険がある。


 目的は村の確保であり、少数の敗残兵を追って損害を出すことではない。


 彼は星盾村を押さえ、煙の上がる納屋を見て、部下に停止を命じた。



 リステリア側は勝ったのではない。



 村を失った。


 穀物の多くも失った。


 礼拝堂も帝国の手に落ちた。



 だが、村人の大半は逃げた。



 そして、星痕の盾を持つ兵は、子供を抱えて森へ消えた。



 夕暮れ、北の森の奥で小隊は人数を確認した。



 死者は三名。


 負傷者は七名。


 村人の犠牲は、まだ分からない。


 逃げ遅れた者もいるかもしれない。



 完全な成功ではない。


 だが、最悪ではなかった。



 フィン隊長はライナスの前に立った。



 ライナスは子供を母親へ返した後、木の根元に座り込んでいた。


 腕が震えている。


 盾には新しい矢傷が増えていた。



「命令違反だ」


 フィンは言った。



「はい」


「お前が飛び出したせいで、隊形を変える必要があった」


「はい」


「槍兵二人を危険に晒した」


「はい」


「だが、お前が飛び出さなければ、村人の撤収はもう少し遅れた」


 ライナスは顔を上げた。



 フィンは不機嫌な顔のまま続けた。



「次からは、飛び出す前に叫べ」


「……すみません」


「謝罪は王都でしろ。今は歩け」


 彼は背を向けた。



 ライナスは、なぜか胸が苦しくなった。



 叱られたのに、少しだけ救われた。


 英雄として褒められるより、兵士として叱られる方が、ずっと人間でいられた。



 夜、森の中で小さな火が焚かれた。



 村人たちは互いの名を呼び合い、生きていることを確かめた。


 泣く者もいた。


 礼拝堂を失ったと嘆く老人もいた。


 家を捨てた男は、黙って土を握っていた。



 それでも、誰かがセラの歌を口ずさんだ。



 東の雨より、ひとり戻る。



 別の誰かが、続きを歌った。



 鎧は欠けて、剣は折れ。



 ライナスは顔を伏せた。



 やめてくれ、と言いたかった。


 自分はまた命令を破った。


 誰かを危険に晒した。


 村も守れなかった。



 それなのに、歌は続く。



 けれど背には、泣く子を負い。



 歌詞が、少し変わっていた。



 昨日までは、王都へ戻った子供の歌だった。


 今は、星盾村で救われた子供の歌になっていた。



 噂が変わる。


 物語が膨らむ。



 ノエルの手を離れて。



 ライナスは震える手で、折れた盾を抱いた。



 星形の傷の横に、新しい矢傷があった。



 ただの傷だ。


 木と鉄が裂けただけの跡だ。


 神の印でも、奇跡の証でもない。



 だが、それを見た村の子供が、小さく言った。



「星が増えた」



 ライナスは何も言えなかった。



 翌日、星盾村撤収の報せは王都へ届いた。



 ノエルは記録室で、泥に汚れた報告書を読んだ。



 星盾村、帝国先遣隊により占拠。


 村人の大半は北森経由で退避。


 小隊損害、死者三、負傷七。


 ライナス・ベル、命令を離れ、逃げ遅れた幼女を救出。


 その行動により一時混乱。


 しかし村人の撤収を促進した可能性あり。



 ノエルは、その一文で手を止めた。



 可能性あり。



 軍の報告としては、実に正確だった。


 過剰に褒めず、事実を削らず、功罪を並べている。



 ガレスの軍らしい報告だ。



 ユリアンが恐る恐る聞いた。



「どう書きますか」


 ノエルは報告書を置いた。



 窓の外では、王都の鐘が鳴っている。


 また新しい噂が広がるだろう。


 星盾村は落ちた。


 だが、村人は逃げた。


 ライナスはまた子供を救った。



 これは、ノエルが作った嘘ではなかった。



 ライナスが、自分の足で作ってしまった事実だった。



「難しくなったな」


 ノエルは呟いた。



「何がですか」


「彼をただの飾りとして扱うことが」


 ユリアンは少しだけ目を見開いた。



 ノエルは新しい紙を取った。



「記録しろ」


「はい」


「星盾村は守られなかった」


 ユリアンのペンが動く。



「村は失われた。礼拝堂も帝国の手に落ちた。そこを誤魔化すな」


「はい」


「だが、民は逃げた。兵は踏みとどまった。ライナス・ベルは命令を破り、泣く子を救った」


 ユリアンの手が止まる。



「命令違反も書くんですか」


「書く」


「英雄譚には、傷になります」


「傷のない盾など、誰も信じない」


 ノエルは言った。



 ユリアンはしばらく黙った後、小さく頷いた。



 その日の夕方、王都に新しい布告が貼られた。



 星盾村は帝国の手に落ちた。


 だが、村人の多くは王国軍の支援により退避した。


 その撤収の中で、星痕の盾を持つ兵ライナス・ベルは、逃げ遅れた幼子を救った。



 布告は勝利を語らなかった。



 村を守ったとは書かなかった。


 帝国兵を打ち破ったとも書かなかった。


 礼拝堂が無事だとも書かなかった。



 失われたものは、失われたと書いた。



 そのうえで、救われたものも書いた。



 民は、それを読んだ。



 泣いた者がいた。


 唇を噛んだ者がいた。


 そして、誰かが言った。



「それでも、逃がしたんだな」



 その言葉は、布告より遠くへ行った。



 夜には、セラの歌も変わっていた。



 星は屋根より奪われど、


 火より逃れし声がある。


 弱き兵は剣を抜かず、


 泣く子を抱いて森へ行く。



 ノエルは酒場の隅で、その歌を聞いていた。



 頼んだ歌ではない。


 もう、セラの歌だった。


 そして民の歌だった。



 彼の脚本から、少しずつ離れ始めている。



 普通なら、それは危険な兆候だった。



 だがノエルは、杯の水面に映る灯りを見ながら思った。



 作り物の英雄が、本物になるためには。


 いつか、作った者の手を離れなければならない。



 その頃、王都へ戻る森道で、ライナス・ベルは荷車の横を歩いていた。



 子供たちは疲れて眠っている。


 老人たちは毛布にくるまり、村の方角を見ようとしなかった。


 兵士たちは無言で歩く。



 ライナスも黙っていた。



 彼は勝っていない。


 村を守れなかった。


 死んだ兵もいる。


 置いてきたものもある。



 それでも、腕の中で泣いていた子供の重さだけが、まだ残っている。



 あの重さがある限り。


 自分は、完全には逃げられないのだと。


 ライナスは、初めて理解した。



 彼は英雄ではない。



 怖いし、逃げたい。



 だが、逃げた先でまた泣く子を見つけたら。



 きっと、自分はまた足を止めてしまう。



 それが勇気なのか、弱さなのか。


 彼にはまだ分からなかった。



 ただ、折れた盾の星形の傷は、前より少し重くなっていた。

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