二
莉莉は泰山を降りて、山麓に着いた。その先にある海岸に向かうと、船に乗って孤島に行ける。今日だけは王の展墓のために、龍水宮の宦官が船を出している。
海辺に近づくと船に人影が見えた。すでに先駆の客子がいるようだ。船が動こうとしていて莉莉は焦って手を振った。
「待って! 私も乗ります!」
莉莉の声に櫂を漕ごうとしていた宦官が手を止めた。莉莉は息を切らしながら走ると、急いで船に乗り込んだ。
はあ、と胸をなで下ろして狭い船の空間に縮こまって座った。
ふと、前を向くと紗巾をつけた客子がいた。透き通るような銀に近い白髪に、陽に焼けてしまいそうな真っ白な肌。ほっそりとした痩躯が藍色の漢服によく似合っていた。
──女の人かな? でも、若い。私と年が近そうだ。
なんて考えながらも、とくに何も気にせずに船に揺られていた。
島に着くまで中間あたりに来た時だ。莉莉は突然、ズキリとした右手首の痛みで、全身に汗がどっと噴き出した。はっとして自分の右手を見る。
「……え、……あ、そんな……」
蝶鈴に傷つけられた手の甲がぱんぱんに腫れ上がり、紺青になっていた。それを見た刹那、さらに痛みが増したように思えた。
こんなの、きっと大したことない、と手を隠そうとした。だが、苦痛で声が漏れる。
「……船を止めてくれ」
莉莉のものでもない、凛とした声が海に響いた。目の前にいる客子が手を挙げていた。宦官が気がついて櫂を止める。
「……? どうかしましたか?」
「この子の様子がおかしい」
「莉莉様が? 身体でも悪いのですか?」
先客と宦官が対話している声が、近いのに遠くに聞こえる。莉莉は呻き声を上げて返答もできずにいた。船の中で横になり、大量の流汗をかきながら息を荒くしていた。
「手ぇ、見せてみろ」
「……う、うう、……はあ、痛い、痛いよ……」
「なるほどな。内出血している」
誰かが莉莉の腫れた右手をそっと握った。顔が近づいてきて気がついた。ずっと女だと思っていた客子は、低い声や咽喉の隆起からして男であった。
「どうしましょう……治療してもらうには龍水宮に戻らないと……でも此処からじゃ相当時間もかかります」
情勢がよく分かっていない宦官は狼狽しているしかない。骨が折れていただけで死ぬわけはないが、気絶はするかもしれない。莉莉も自分でどうしたらいいのか、分からないままでいると。
「……少し、手を借りるぞ」
莉莉の耳元で囁かれて、こんな時なのに体が擽ったくなった。男は莉莉に覆い被さるぐらいに近接すると、莉莉の顔を熟視した。瞼を開けた瞬間、美しい男の赤い眼と目が合う。
男は莉莉の右手を自分の手で優しく包んだ。すると、莉莉の体がぽっと温かかくなった。針が抜けたかのように痛みがすっと取れた。あれ、と莉莉は自分の右手を見た。
なんと、紺青に染まっていた右手は、きれいさっぱり肌の色が戻り、腫れが引いていた。
「……え、なに、これ! どういうことなの?!」
莉莉は驚きのあまりに起き上がる。男に問い詰めようとした刹那。莉莉の唇に男の食指が当てられた。
男は片目を瞑ると「……しーっ」と囁いた。
「莉莉様の身体の情態は戻ったようだ! 気にせず船を進めてくれ」
男は宦官に譏嫌良く笑った。宦官は首を傾げながら、莉莉の顔色を窺う。莉莉は答えるように頷いた。
船は再び進み出した。莉莉は、もう一度、右手と男を交互に熟視する。まるで妖術を使った男の端正な横顔を、莉莉は眺め続けていた。




