一
「言わば、契約さ。契約」
暗黒の中で、誰かが囁いた。飄々としているが目が覚めるような美声だった。
声の主が誰なのか分からないまま、眼界に蟷螂が映った。蟷螂はどうしてか右腕を押さえながら、苦痛の表情を浮かべていた。だんだんと蹲り始め、声が聞こえないが、痛みで咆吼していた。
──蟷螂。痛いの? 苦しいの?
莉莉は憂慮して問う。けれど、返事はない。
「命に代えても、あの女を守護するって決めたんだろう? だったら、このくらいの痛みは耐えるこったな」
暗黒の声は軽快に笑った。まるで人が苦しんでいるのを楽しんでいるようで恐ろしい。
「でも俺、あんたと、莉莉と三人で過ごした日々──幸せだったんだぜ」
声が呟くと、蟷螂は顔を上げて両目を潤ませた。童子のように泣き出しそうな顔をして、またしても腕を握りしめながら天に向かって叫んだ。
──蟷螂。貴方は、今、何処にいるの? 会いたい……会いたいよ……。
莉莉は切なく願うと、夢から目を覚ました。蟷螂が消えてから五年が経った日の朝だった。
高祖十年(紀元前一九七年)。
龍水宮の王、浩然が死去してから五年が経った。
まさか、飼い鰐に殺されるとは──、宮の者は事変に対して、驚いて語った。暴虐で有名ではあったが、卓出な男があまりにも滑稽な末路であったと惜しんだ。
その飼い鰐である愚它麸は、別第から逃げ出して消息不詳となっている。愚它麸に殺すように指示した真の犯人が、蟷螂であるのは、誰も知らない。
浩然の正室である王后は、夫の死による精神打撃か、病を患って後を追うように死去した。
龍水宮は酷烈な一族不足に陥っていた。残ったのは、浩然の娘である雪芳と蝶鈴の二人だった。なんと、浩然の子には男児がいなかった。
一方、孤島でほぼ幽閉情態で暮らしていた莉莉は、浩然の死去後。龍水宮に引き取られる形となった。
何もかもを沮喪した莉莉は、ただ毎日、茫洋として過ごしていた。
朝。莉莉は花瓶に挿している白い百合の花を取った。昨日、水を入れ替えたばかりだから、よく咲いている。花を束にまとめると、服に袖を通して髪を梳かした。
髪が、だいぶ伸びた。隠遁している日々だから、見た目がどうでもいい。もはや生きているのも、どうでもいいのかもしれない。
なんてつまらない考えをしながら、莉莉はある準備をしていた。
今日は、孤島に行く。蟷螂の展墓だ。
あれから蟷螂は愚它麸と共に消息不明だ。
あの暴風の中、船で島を出ていった。行く当てもなく果たして生きているのか、死んでいるのかも分からない。けれど、きっと生きていたとしても、名を変えて新しい生活にいるのだろう。
──あの日、莉莉の中で〝蟷螂〟は死んだ。
莉莉は毎年、勝手に浩然の忌日になると蟷螂の展墓をしている。浩然を弔う気はまるで起きないが、蟷螂を想う気持ちは変わらなかった。
莉莉は莉莉の花束を抱えると、部屋を出て扉をそっと閉めた。
廊下を歩いて、外を出る。莉莉は眩い朝陽の光に、片目を瞑った。
龍水宮。王および子女たちが住む本殿を見上げた。両端には小川のように渠水から水が流れている。
どこもかしこに池があり、歩けるように太鼓橋が浮かんでいる。水に恵まれた宮にはあちこちに花が咲き誇る。本殿は透明の硝子のような白い建物で、花園で虹色に彩られている〝水の都〟であった。
莉莉だけは、本殿から離れた宮で住んでいた。まるで隔離しているかのように。
浩然の長女の雪芳は、神聖なるグスタフ族の末裔を保護するためだから、耐忍してくれと頭を下げた。決して房室は狭くなかったし、十分に人一人が住める。好きにさせてもらっていた。
けれど、自分は妨害でしかないのだなと、いつも思っていた。姪であれ、王族である莉莉が本殿に入れないのは。
莉莉は泰山にそびえ立つ宮内の清風を吸った。ふう、と吐息すると、花束を持って宮の門に向かった。門を出て、孤島に行くのだ。
ちろちろとした水音を、音楽のように聞きながら歩いていると、前から煌びやかな女がやって来た。従姉の蝶鈴だ。浩然の娘で、次女である。
莉莉より三歳年上だが、華やかな顔立ちをしている。童顔なのに化粧が濃いのが、どこか老成しているようで、漢服も派手な深紅で金箔が鏤められている。
莉莉は、はっとして急いで身を隠そうとした。だが、物陰などなく、一本道だ。しょうがないから、できるだけ蝶鈴から避けて通ろうとした。
蝶鈴は後ろに数多の女官と宦官を連れている。俯いていたが、中の一人の宦官が莉莉に頭を下げた。莉莉は顔も覚えていなかったが、龍水宮で自分に挨拶してくれる人もいないから、うっかりその宦官に微笑んだ。
その時だった。
蝶鈴が思いっきり莉莉に打つかってきた。莉莉は「あっ」と小声を出しながら倒れた。持っていた莉莉の花が地面に散らばる。
莉莉はぶつけた片腕を押さえて、呻き声を上げながら起き上がった。明らかにわざとだった。莉莉は抗議したそうに蝶鈴を上目遣いで見る。
「──このドブネズミ! 邪魔なのよ!」
蝶鈴は長い睫毛の両目を赤く見開いて、高い声で叫号する。莉莉は吃驚して口をぽかんと開けた。何か言い返そうかと思ったが、唇を噛みながら耐えて、落ちた花をひとつひとつ拾った。最後の一輪に手を伸ばした刹那。
「……うっ、痛!」
蝶鈴が莉莉の手を踏みつけた。なにをするんだ! と莉莉は蝶鈴を睨み上げる。だが、蝶鈴のじり、じりと足の力をどんどん強める。
「痛い! 痛いよ! 蝶鈴お姉様、やめて!」
「蝶鈴様! 何をしているのですか?! お止めください!」
莉莉が悲鳴を上げていると、先ほど挨拶をしてくれた宦官が駆けつけた。男の力で、蝶鈴の足をどかして、倒れている莉莉を憂慮した。
「莉莉様、大丈夫ですか……?」
「う、痛い、痛い……」
莉莉は若干、涙目になりながら、利き手である右手を触った。骨は折れてないようだが、手の甲が紺青に染まっている。どうしよう、と狼狽する。
「莉莉様、今すぐに診察室に行きましょう、連れて行きます。歩けますか? なんなら、おぶります」
「ちょっと! あんたは何をしているのよ!」
蝶鈴は莉莉に寄り添っている宦官の胸ぐらを掴んだ。一瞬、乱暴な浩然を思い出して、莉莉は両手で口を押さえて震えた。
「さっきからこの女をじろじろ見て! なに? 私より見蕩れるほどにこの女の方が可憐なわけ?!」
「うっ、苦しい、蝶鈴様、お、お許しください!」
「知らないわけがないわよね?! この、この女のせいで! お父様が現を抜かして、どんな目に遭ったのか!」
頭に血が上った蝶鈴は止まらない。女官たちは怯えて慌てている。それでも、莉莉は首を絞められている宦官を助けたくて、震える手を蝶鈴に伸ばした。
どん、と音がすると蝶鈴が倒れた。莉莉が思いっきり打つかって宦官から手を離させた。
「この女……なにをするのよ!」
蝶鈴の悪罵を後ろに、莉莉はそそくさと逃げた。くしゃくしゃになった莉莉の花を抱えて、宮の門を出た。




