七
疲れていて眠りに入ったが、誰かの悲鳴で目が覚めた。引き裂かれるような女の声だった。
悪夢でも見ていたのだろうか。まるで母が殺された時のような叫び声だったから、そう思った。
臥榻の上で起き上がると、嵐の雨が窓を打ち付けていた。ごうごうと雷が鳴って、旋風で窓が開きそうになっていた。
けれど、だんだんと廊下からばたばたと足音が増えてきた。別第内の人間が妙に騒がしい。莉莉の身体の情態はまだ万全ではなかったが、どうしても気になった。臥榻を降りると、重たい両足を引きずりながら部屋の扉を開けた。
皆が向かった先を、ゆっくりと後ろから追っていく。廊下をひたすら歩き続けると、だんだん浩然の寝室に近づいていった。
寝室の前に衆民ができている。どうしてか灯りがつけっぱなしで、扉が開いていた。莉莉は首を傾げながら、寝室に近づくと、誰かに両肩を掴まれた。
「莉莉様! 見ては、見てはいけません!」
下僕が莉莉をこれ以上、進ませるのを止めた。だが、莉莉は下僕を押しのけて、むしろ寝室に向かって走る。人だかりを突き飛ばして寝室に入った。
──っ!
莉莉は声は出ないが、両手で口を押さえた。膝から崩れ落ちて、床に座り込んでしまう。その際に、血が、服に染みていった。
目の前には、浩然の遺体があった。
臥榻の前で、倒れている浩然は、どう見ても死んでいた。
しかも、浩然の体半分は怪物に喰われたかのようにぐちゃぐちゃになっている。腹は引き裂かれて腸がはみ出ていた。寝室中に血が飛び散り、まるで初めから赤い部屋だったかのようだ。
とても人間業でできる所業ではない。いったい何があったのか──。
しかし、莉莉はある事に気がついて、はっとする。
『莉莉様が、誰の害に及ぶこともなく、心穏やかに、幸せに暮らせる世界を、私は心から望みます。否──私が作り出します』
蟷螂の離別の言葉が、頭の中で突如、響く。まさか、まさか──、莉莉は胸中で問いかける。
蟷螂が、やったのだ。やってしまった。
莉莉は気がつくと、即座にその場から立ち上がった。寝室の前の人を追いのけて、ただただ走った。膂力を失ったのが虚偽かのようにとてつもない速さで、別第の外に出た。
莉莉は別第を出ると門を通った。門前の牡丹の花園はいつの間にか枯れきっていた。大雨で体が濡れるのも構わず、莉莉は辺りを眺望する。
蟷螂はもう、島を出てしまっただろうか。莉莉はまだ近くにいるのを願って、探索した。走っていると口の中に涓滴が入って、まるで水を多量に飲んだかのようだ。前髪が額に貼り付いて、暴風で身体が鳥のように飛んでいきそうになる。
──蟷螂、蟷螂――っ!
莉莉は立ち止まると、両目を思いっきり閉じて声も出ずに叫んだ。蟷螂、蟷螂、蟷螂……何度も名を呼ぶと頭を抱えて蹲った。
計画もなく歩き続けて、島の海岸に着いた。端から見たら幽霊のようにふらりと向かう。ふと、顔を上げると埠頭に大きな人影があった。莉莉はゆっくりと近づいて顔を確かめる。
──蟷螂……?
莉莉は胸中で問いかけた。すると答えるように蟷螂は振り返った。
「……莉莉様。こんなところまで、来てしまったのですか」
あくまで蟷螂は平静に莉莉に話しかけた。浮かんでいる船の準備を、とくに躊躇いもなくしている。
どうしてか船には鎖に繋がれた愚它麸も乗っていた。浩然以外の言うことなど絶待に聞かないはずの愚它麸がいた。
やはり、浩然を殺したのは蟷螂なのだ。莉莉は自信を持った。
「……行かないで」
莉莉は涙を流しながら呟いた。小さな声だったが、蟷螂は聞き逃さなかったようで、目が光ったように大きく見開いた。
「……行かないで、蟷螂、行かないで! 私を、私を置いていかないで──!」
莉莉は声を取り戻した。雨声に負けないぐらいの声気で叫んだ。
蟷螂は眉根を寄せて泣き出しそうに顔を歪めた。漢服の羽織を脱いで、莉莉の頭に被せると、そのまま抱きしめた。蟷螂は掌を震わせながら莉莉の背中に手を回す。
「蟷螂、行かないで……私の前から消えたりしないで……!」
「……申し訳ありません、莉莉様……それは、できない」
「お願い、お願い、蟷螂、蟷螂──!」
莉莉は蟷螂の胸元の中で、泣き叫んだ。蟷螂の胸板を交互に両手で叩いて、拒絶する児童のようにせがんだ。
蟷螂は莉莉からそっと離れると、莉莉に耳元に唇を寄せた。
「──莉莉様。永遠にお慕いしています」
莉莉は蟷螂の言葉にはっとした。まるで時が止まったかのような知覚になる。
次の瞬間、莉莉が顔を上げると蟷螂は船に乗っていた。嵐の波に揺れながら、どんどん島から、莉莉から離れていく。
莉莉は蟷螂の羽織を握りしめながら、蹲って泣き続けた。




