六
莉莉は言葉が喋れなくなった。昔の緘黙症が再興した。
しかも莉莉が浩然に飲まされたのは、度数がかなり高い酒であった。小さい莉莉の体には、全身に毒が回ったようなもので、何日も寝込んだ。
熱に魘され、水分を多量に飲み、酒が抜けるまで地獄のような日々だった。意識を取り戻して、目を覚ますと、莉莉は声を失っていた。
医者は脳障礙から来るものではないと診察した。頬の傷を不審がられ、何かあったのかと聞かれたが、話す気力もなかった。
浩然は周りに嘘をついていた。莉莉は浩然の酒を誤飲したとだけしか言わない。
蟷螂が浩然にずっと抗議しているようだが、莉莉が被害にあった微細な部分を、言いふらすこともできなかった。だから、医者以外の周囲からは浩然と蟷螂が何か不和があったしたとしか見えないのだ。
一方、あれから莉莉は自室に引きこもる毎日だった。誰に会うのも怖かった。夜になると、足音が何処からかするだけで怯える。何もしていなくても、涙が止まらなくて、一睡もできない。
部屋の窓から白い陽が差し込む。臥榻の上で浴びながら、眠れないまま朝を迎えた。
──私、どうなるのかな? 死んじゃうのかな?
頬に乾いた涙の跡を残しながら、莉莉は考えていた。
何日か経った後。夕方頃、婢が気を遣いながらであるが、かなり焦燥して自室に訪れた。
「莉莉様! 浩然様と婚姻するとは、事実でありますか?!」
──……なんだって?
「やっぱり……莉莉様も知らなかった……どうしよう、とんでもない事体になってしまった……」
婢は報告してくれた。
今朝方、フオ族の皇女である桐香が別第を訪れた。以前、蟷螂にグスタフ族の末裔である莉莉がいると聞いて、正式に訪問しに来たとのことだった。
もし、事実であるなら是非とも対面したい。しかも同じ女で年が近いのであれば、朋友もいずに不安であろうと。
それを聞いた浩然は、酒臭い口元を隠しながら、奇怪なほど穏やかな笑みを浮かべたそうだ。
すると、浩然は桐香に『自分、龍水宮の王である浩然は、グスタフ族末裔の莉莉を側室に迎えたいと考えている』と宣言した。
周りは一気に騒然となった。何故なら、浩然と莉莉は叔父と姪だからだ。浩然は余分なことを言うなと婢たちを睨むと、また笑みを戻して話し続けた。
『天涯孤独で行く場を失った少女、莉莉の尽力しているうちに互いに好意を抱いた。許しがたいと分かってはいるが、覚悟してシュイ族とフオ族たちに伝えるつもりだった』──と。
卓絶に美談に作り替えて、桐香に伝えたそうだ。
桐香は祝福しながらも、賢い少女なようで、それなら何故もっと早く談義してくれなかったのか、これだとまるで自分たちフオ族に、グスタフ族の子を隠していたようだと。
浩然は頭を下げながら、告げるのが遅くなって申し訳ないと何とか桐香を籠絡させたそうだ。
莉莉は愕然とした。
父が殺された時から、莉莉は鳥籠に囚われたようなものだった。そんなのにも気がつかず、莉莉は自分が愛されていると思っていた。不幸は他人事、自分には関係ないと過ごしていた。浩然が莉莉は愚かだと見下すのも当たり前だろう。
「それに、蟷螂様が……追放されるそうです」
──……えっ? 何故?! どうして?!
「蟷螂様が、桐香様もいる場で突然、浩然様を殴ってしまったのです」
莉莉は泣きすぎて腫れ上がった目から、また涙が零れた。蟷螂は莉莉の怒りと悲しみを背負って、浩然に立ち向かったのだ。
その日の夜。莉莉は久しぶりに睡眠がとれた。
夢を見た。湖の前で、莉莉と蟷螂と愚它麸しかいない世界。一緒に行廚を食べたり、水遊びしたり、いつものように蟷螂と過ごした日々が流れていった。幸せだった。本当に幸せだ。
浩然の側室に入って、子を産まなければならなく、蟷螂が自分の前から去る現実なんて戻りたくない。ずっとこの夢が続けばいい。
「……莉莉様、莉莉様」
蟷螂の胸に響く低い声が聞こえた。莉莉は夢の続きだと思った。
ゆっくりと瞼を開けると、窓から差し込む曇り空の合間に月光が、ちかりと眩しかった。
臥榻の窗帘の前に、人影があった。それが浩然だったら、莉莉は飛び起きて逃げ出すのだが、すぐに蟷螂だと分かった。臥榻の上に沈み込むように身を任せて、微塵も動こうともしなかった。
「莉莉様、少し、触れても、よろしいですか?」
蟷螂は優しく呟いた。
「……いやでしたら、今すぐ自分は去ります。お別れをしに来たのです」
莉莉は答えるように、そのまま片腕だけを蟷螂の前に差し伸べた。
蟷螂は莉莉の前で跪くと、片手にそっと触れる。莉莉の手の甲に誓うように唇を寄せた。
「私は、自分に逃げてばかりの、ろくでもない人生の中で、莉莉様に出会えたことが光栄で……とても幸せでした」
──蟷螂。私もよ。貴方に会ったおかげで、何にも分からない自分が、色んなことを知って、ずっと楽しかった。
莉莉は胸中で伝えながら、蟷螂を熟視する横顔に微笑みを浮かべた。く、と少しだけ片手の指を動かす。蟷螂の指先を探しながら、互いの皮膚同士を重ね合わせた。
「……莉莉様が、誰の害に及ぶこともなく、心穏やかに、幸せに暮らせる世界を、私は心から望みます。否──私が作り出します」
蟷螂が莉莉の指をぎゅっと強く握りしめた。痛いよ、と言いたくなった。そのままそっと離れた蟷螂の手を莉莉は伸ばしたが、掴んだのは虚空だけだった。
理由もなく蟷螂に不安を感じて、莉莉は勢いよく起き上がった。臥榻から降りたが、部屋には、もう誰もいなかった。




