五
夜が更けて、莉莉は浩然の寝室の前にいた。
浩然はどうして呼び出したのだろう? 説諭でもするつもりなのだろうか。
けれど、莉莉は怒られるような言動は一切していない。まさか浩然も婢たちのように、蟷螂との仲を怪しんでいて、卑猥だなんて言うのか。
下劣。下劣なことこの上ない。
もし、蟷螂の件を窘められたら、莉莉はしっかりと反駁するつもりだ。
結局は、あの浩然だ。莉莉が少し強く言えば、狼狽するだろう。
莉莉はむしろ、ふん、と鼻を鳴らしながら寝室の扉を叩いた。
「叔父様。莉莉です。夜になったので、来ました」
「……ああ。入れ」
すぐに浩然からの返答があって、莉莉は躊躇いもなく扉を開けた。莉莉は部屋に入ると目を見張った。
浩然の臥榻の前には、卓があって、果実と碗が豪奢に並んでいる。莉莉は思わず「わあ!」と声を出して目を輝かせた。
「……昼間は、悪かった。まあ、座れ。お詫びと言っては何だが、好きなだけ食べてよい」
莉莉は児童のように浮躁になる。浩然に促されて隣の椅子に座った。莉莉はすっかり機嫌が良くなり、浩然に微笑んだ。浩然も、ふ、と痩せた頬をゆっくりと歪ませた。
最近、顔を見せていなかったから、浩然はずっと莉莉に会いたかっただけなのだ。莉莉は床につかない小さな足を、椅子でぶらぶらと揺らしながら鼻唄を歌った。
莉莉は目の前の卓にある真っ赤な液体の飲み物が気になった。
「これは……お酒?」
「……いや。それは……ただの茶だから問題ない。別第の花園があるだろう。あそこの牡丹の花から淹れた茶だ。飲むといい」
「まあ、本当に! とっても綺麗で美味しそう」
碗を覗き込むと、赤い液体に莉莉の瞳がゆらゆらと映る。わくわくしながら、碗を手に取って莉莉は一気に飲んだ。
少し喉が焼けるような辛味があったが、とろけるように甘くて美味しい。浩然がどんどんとお代わりをしてくれるから、何杯も飲んでいった。
そのあと、浩然と瑣細な対話をしながら、果実をぽつぽつと食べていった。莉莉はどうしてか夢境のように気分がふわふわとして、時があっという間に過ぎていった気がした。
あっという間に──、いつの間にか、莉莉は浩然の臥榻の上に乗っていた。なぜか、衵服だけの姿だった。
頭と目頭が焼けるように熱い。目が血色して激痛がする。気を抜くと意識が途切れそうになる。どうしてか嘔吐しそうな気持ち悪さがあった。
明らかに身体がおかしくなっていた。蜃楼のように揺れる眼界の先に、覆い被さるように浩然がいる。
「……熱い、寒い、熱い……おじ、さま、服を返して、お家に帰りたいよ……お父さま、お母さま、どこぉ……」
莉莉は懇願して浩然に両手を伸ばした。
──お家に帰りたい、とは? この浩然の別第が家だろう。
考えている間に、浩然が臥榻の上に乗ってきた。大きくてごつごつとしている手を莉莉の首に伸ばす。片方は莉莉の手首をぎゅっと握りしめて、まるで逃げないように束縛させた。
「う、ひっく、お家に帰りたい、帰りたいよ、帰して──!」
なぜかいきなり両目から涙が溢れだした。嗚咽を上げながら、莉莉は叫んでいた。
──いったい自分は何を言っているのだろう? 他に何処に居所があるのだ?
もう訳が分からない。自分がどうにかなってしまいそうだと思った時。
「……黙れ小娘! 憎らしい、憎らしい! どんどんあの女に、兄上と酷似して育ちやがる! 黙らないと、この首を今すぐ折ってやるぞ!」
浩然が莉莉の首を思いっきり絞めた。莉莉は一瞬にして息が詰まり、声が出なくなる。やめてほしいというように首を振って、潤んだ目で浩然に訴えた。
だが、憤激した浩然は制御が利かないのか、どんどんと絞める力が強くなっていく。
「グスタフ族の血を引いてなければ、お前みたいな、愚鈍で! 魯鈍で! 傲慢な女を愛するわけがないだろう! いいか?! お前は愚鈍で魯鈍で傲慢なのだ! わかったか!」
浩然は何度も莉莉の頬を打つと、罵倒した。浩然の強い力だと、口の中が切れて、莉莉の小さな歯が一本折れた。口端から血を噴き出しても、浩然は気がついていないのか打ち続けた。
莉莉は自分への罵倒を肯定するように、首を懸命に縦に振った。
愚鈍でも魯鈍でも傲慢でも良い。良いから、これ以上、首を絞めたり打たないでほしいと願った。このままだと殺される。莉莉は死を意識すると急に恐ろしくてしょうがなかった。
──死にたくない、怖い、死にたくない。助けて、誰か助けて。
声が出ない莉莉は、心の中で唱えた。
突然、浩然は打っている手を止めると、はっとした顔をした。莉莉の血がついている指先を凝視ながら、眉を下げる。
「……は、は……俺は、なんてことを……莉莉? 莉莉ぃ! 大丈夫か?! 嗚呼、そんな、可憐な莉莉の顔が、こんなに血を流して、すまない、すまなかった……ごめん、ごめんなぁ、莉莉ぃ……」
いきなり浩然は莉莉の顔を両手で優しく包んだ。莉莉の傷ついた顔をまじまじと見ると、おいおいと泣き出した。
浩然は莉莉を臥榻の上で抱きしめる。浩然が乗っかってきた身体の加重で莉莉の体が揺れて、口の中にあった折れた歯を生呑してしまった。
「……だがな、お前が悪いのだ。他の男と、俺以外の男と、子を作ろうとするからだ」
浩然の唇がすすっと莉莉の首筋に触れた。手が襟の中に入っていって、莉莉が悲鳴を上げそうに開口した刹那。
ガチャン、と部屋の扉が大きな音を立てて開いた。浩然ではない人物の影が、臥榻に差す。浩然は突然、莉莉の体から思いっきり離された。
臥榻には、浩然ではない男が強行して入り込んできた。
「そこまでにしてもらおうか。浩然殿」
莉莉の眼界に蟷螂の顔が見えた。
蟷螂は浩然を軽く突き飛ばすと、臥榻の中に入った。横になっている莉莉を覗き込むように見る。
蟷螂は莉莉の痣だらけの顔に沈黙する。苦辛を味わったような表情を浮かべると、唇の皮がひくひくと震わせた。
服の袖を破ると小さく丸めて、莉莉の口に親指をそっと入れた。
「莉莉様、申し訳ありません」となんだか泣きそうな声で呟きながら、少し口を開けると布を突っ込んで流血防止させた。
莉莉の頬に、ぽたりと冷たい涓滴が落ちた。ぼうっとする頭でやっと目を上げたら、蟷螂の隻眼から一筋の涙が流れていた。
「……態度がおかしいとは思っていたが、まさかこんなことに……もっと、もっと早く来ていれば!」
蟷螂は握り拳を作って、全身を怒りで震え上がらせていた。寡黙な蟷螂が、感情を揺さぶられている。
蟷螂は振り返ると、その拳を浩然の頬に振り上げた。
「この外道が! この子の父親を殺しただけじゃ、飽き足りないか!」
浩然の頬を思いっきりに殴ると、蟷螂は地を這うような低語で叫んだ。ひくりと、莉莉の瞼が痙攣する。
「……お父さんを殺した? ……蟷螂、どういうことなの?」
莉莉は重い身体を何とかして起き上がらせた。口の中に入った流血の布を、べ、と吐き出す。深紅に染まった布を、掌の上で見ると、莉莉の眼界は歪んでいく。
莉莉はこの時にはっきりと、父と母の顔を思い出した。童子の莉莉は別第より、もっと小さい家に住んでいた。だが、ある日、男が現れた。男は嫌がる母を殺すと、莉莉を連れて行こうとした。
『莉莉──!』
父の悲痛な叫び声が響く。その刹那、父は真っ正面から男に斬られていった。嵐の雷に光った男の顔は──浩然だった。
次に、莉莉の光景は浩然の別第になる。
臥榻の前に流血している父が倒れている。父が莉莉に手を伸ばして名を呼んだ。だが、背後から白い鰐の愚它麸がやってきて牙を向いた。
その時に、莉莉は唄を歌った。父と母がよく歌ってくれていた子守唄を思い出して。
「……──いやあ!」
莉莉は頭を抱えて悲鳴を上げた。
どうして今まで気がつかなかったのだろう──!
莉莉は完全に思い出した。嬰児時代、両親と暮らしていて、浩然に略取された。別第で父の遺体を見た。
愚它麸に喰われた男の素顔は、父だった──!
「……蟷螂、貴様ぁ……こんなことをして、タダで済むと思っているのか!」
「私はこの件を、火花宮のフオ族に明かします」
蟷螂が宣言すると、浩然はカッと目を見開いた。
「先日、たまたま散策していたら、フオ族の女性……桐香様という方に会いました。神聖なグスタフ族の島を訪れたいと思って来たら、道に迷途してしまって帰れなくなったとのことでした。私は案内しながら、この島にいる莉莉様の話をしました。けれど……桐香様は莉莉様の存在を知らなかった」
今にも蟷螂を殺しにかかりそうな意気のあった浩然が、突然、静かになった。若干、俯いて、舌打ちをしつつも黙って蟷螂の話を聞いている。
「莉莉様がグスタフ族の末裔だというと、至極驚いていらした。何故なら、グスタフ族は、シュイ族とフオ族の祖先で、もし存在するなら、共に大切に扱わなければならぬと──!」
蟷螂は床に座り込んでいる浩然の前に、大きく立ち塞がる。
「貴方は、シュイ族は、龍水宮は莉莉様の存在を隠匿していたのだ! それだけではなく、王が莉莉様をこんな目に遭わせている! これは宮同士の問題になるぞ!」
「……は、密告して、戦争でも起こすのか?」
「……莉莉様のためなら、戦をしても、構わぬ!」
「数多の民の命を犠牲にしても、か! 貴様、それほど莉莉を……」
浩然の狂った笑声が部屋に轟く。
莉莉は浩然の声が遠くに聞こえてくると、眼界が逆さまになる。ふらっと臥榻の上に横臥すると、両目を瞑ってそのまま気絶した。




