四
龍水宮は麒麟を産む〝応竜〟を祭祀している。何故、宮の島嶼に鰐が生息しているのか。清水域の大きな河川が流れているからでもあるが、やはり龍水宮に伝わる伝説が関係している。
龍水宮に棲息する鰐は、応竜が産む〝麒麟〟ではないか。
宮が祀っている〝応竜〟のいわゆる神の子たち。
さらに古代のグスタフ族は、麒麟の血が流れている──神族なのだ、といった風聞がある。
あれから、莉莉と蟷螂は毎朝、湖にて会うようになった。
温室から愚它麸を連れてきて、体を洗ってあげたり、歯を磨いてみたりしながら、共に散策をした。
蟷螂は浩然の護衛のような仕事をしていたから、随一、莉莉に調査の報告をした。しかし、顕著な発見はなかった。
莉莉は蟷螂と出会ってから、浩然と面会する日がなくなった。浩然は前より酒量が増えて、痩せ始めたという噂を耳にした。
まさか、あんな殺されても死なないような浩然が、病むなど有り得ないだろう。莉莉はそんな話は聞いただけで笑ってしまいそうだった。
突然だった。蟷螂が莉莉に告げた。
「莉莉様。これ以上、例の男について調べるのは、やめましょう」
いつもの早朝。莉莉はこの日、行廚を作ってきた。天気が良く、晴れ晴れとしていたから、婢に料理を教えてもらった。愚它麸には生の鶏肉を刻んだものをあげたあと、二人で食事をしようとしていた。
「どうして? いきなり、そんなことを言うの?」
「……何の成果もないからです。それに、浩然様がだいぶ昔の話を覚えているかも分からない。こう言う、とあれですが……浩然様のような方は戦略のために人を排斥するのも多いでしょう。たった一人の男について、そこまで執着していたとは思えないのです」
蟷螂にしては珍しく饒舌で語った。常に石のように平静な蟷螂が焦慮しているように見える。
──怖く、なったのだろうか。
今のところ蟷螂は行く地域がない。宮で過ごす日が増え、莉莉と共にいる時が過ぎていくうちに、身の危険を感じ始めたのかもしれない。
せっかく気に入られているのに、妙な言動をして浩然の逆鱗に触れたら。蟷螂は宮を出て行く。それだけならいいが、失体すると殺されるだろう。
そう考えると、莉莉には恐ろしくてしょうがなかった。
莉莉はふと、また湖の上に浮かんでいる男の霊を熟視した。
──それでも、いい?
莉莉は胸中で男に問いかけた。
──私、人も自分もどうでも良かったのに、最近、我が身が可愛いの。
すると、ふわっと湖から男の姿が消えた。莉莉は「あっ」と小さな声が出た。
「男の人、消えちゃった……」
莉莉は蟷螂に報告した。
「……もういいよ、って言ってくれているのかな?」
莉莉の隻眼から生温い雫が、頬を伝った。これは、なに? 莉莉は吃驚して、自分の目元に触れた。
初めて、涙が流れた。なぜ、なぜ?
「……ごめ、ごめん……なんだろう、これ、変なの、私、おかしくなっちゃったみたい」
莉莉はしゃくり上げもせずに、ただただ静かに泣き続けた。両目をいくら袖で拭いても、止まることはなかった。
蟷螂がそっと莉莉の隣に腰を下ろした。蟷螂は莉莉の背をゆっくり擦りながら、見守っていた。
「莉莉様にも春が来たのですねえ」
台所で婢が頬に片手を当てながら、感慨深そうに呟いた。莉莉は婢の言葉に片眉を上げる。
「なに? それ。どういう意味?」
「ふふふ、何でもないですよ」
一人でにこにこしている婢に莉莉は、さらに気にくわなそうに口を結ぶ。莉莉も愚昧ではない。婢の言う意味は理解した。きっと、蟷螂のことだ。
今もこうやって李を切って調理しているのは、蟷螂のためと思われているのだろう。前から料理を教えてくれているこの婢は、宮内で夫と子供が二人いる。
要するに婢は、莉莉と蟷螂が愛恋になったと言いたいのだろう。けれど、莉莉はずっと違和があった。
「でも、私は蟷螂と接吻したいと思わないわ」
「……は、はい?」
「接吻も、交媾も、子供を産みたいとも全く思わない。抱きしめられるのは暖かいから好きだけれど、それ以上のことをしたいとか思わない」
あんまりにもはっきりと言及する莉莉に、婢は身を引いて苦笑する。何もそこまで言ってないでしょうに、と。
婢は咳払いして、微笑み直すと莉莉に向き合った。
「それは、きっと時間の問題ですよ? 最初はそう思えなくても、だんだんと変わっていくはずです」
まるでそれが当然だろう、というように話す婢に、莉莉は考え込んでしまう。
想像が何もできないのだ。氷の心と言われた自分に、果たしてそんな日は来るのだろうか?
「……そろそろ時間だから、持って行くね」
莉莉は手伝ってくれた婢にお礼を伝えると、話を欺罔するように逃げた。砂糖漬けにした李を箱に入れて、運んでいく。
莉莉は湖に向かって、宮の廊下を歩きながらふと思った。
この間、宮を出て行った婢の言葉の意味が今になって分かった気がした。〝好きでいてくれれば、それでよかった。子供を産むのが恐ろしい〟。
あの人は、もしかすると自分と同じ〝人種〟だったのかもしれない。このような気持ちを抱く者は、もはや新しい種族と呼べるのでは。莉莉は勝手に考えついた。
湖に着くと、愚它麸を連れた蟷螂がすでにいた。蟷螂は莉莉がやって来たのに気がついていない。
蟷螂の黒い宝石のような瞳は、湖の奥の森に向かっている。何もいない誰かを探すように、熟視し続けている。
最近、蟷螂はぼうっとしている様子が多くなった。
いつからだったろうか。確か、蟷螂が愚它麸に喰われた男を調べるのはやめようと言ってからだ。何か悩みでもあるのだろうか。
──恋、でもしているのか。自分以外の、誰かに。
婢のように言うならば、と莉莉は思いついて一人で笑った。
莉莉が片手を振って、蟷螂の名を呼ぼうとした刹那だった。莉莉の肩が背後から誰かにぐっと掴まれた。力強さに莉莉は身体が揺れて、李の箱を地面に落とした。
ガチャン、と箱が落ちた音が湖に大きく響き渡る。蟷螂が驚いて振り返った。
莉莉の肩を握ったのは、浩然だった。
「莉莉、こんなところで何をしておる」
「お、おじさま……びっくりしたぁ……あ、そんなぁ……李を落としちゃった」
莉莉は、やってしまったという気持ちになりながら、急いで李を拾おうとした。
「そんなものは、いい! 今、俺が話をしているんだ! 此処で蟷螂と何をしておる!」
莉莉が李に伸ばした手を、浩然は思いっきり叩いた。莉莉は浩然の叫号に吃驚して、赤くなった手を見ながら顔を上げる。
見下ろしている浩然は、元々彫りの深い顔立ちだったが、すっかり痩せて頬がこけていた。これは皆が噂をするはずだ。あまりにもの変わりように、莉莉は沈黙する。
「莉莉。命令だ。今夜、俺の寝室に来い」
浩然は莉莉の手首をぎゅうと握りしめると、またしても叫号が響いた。異様な様子に蟷螂は「莉莉様!」と声を出して思わず飛び出す。
蟷螂がそばにやってくると、浩然はパッと莉莉から離れた。
「いいか。分かったな!」
浩然は去り際に大声で伝えた。
莉莉は驚きのあまり、ぽかんと口を開ける。
「莉莉様、莉莉様?」と蟷螂の憂慮する声が耳元で響くのに、遠くに聞こえる。莉莉は我に返ると、蟷螂に何でもないように笑った。
「……もう、浩然叔父様はどうしたのかしら? 今日は随分と機嫌悪いのね」
莉莉は蟷螂と一緒に落っことした李を拾った。
せっかく持ってきた李は、土に混じって、もう食べられなくなっていた。




