三
「鰐を倒した男は蟷螂って名前なんだとよ」
「変わった名だな」
「しかも、記憶がないらしい。浩然様が気に入っているから、しばらく別第で療養するそうだ」
召使いたちの会話で、あの男の名前を知ろうとは。
早朝。莉莉は別第を歩きながら思った。
あれから七日が経った。
男――蟷螂が、いったいどうなったのか、莉莉にも分からなかった。噂では医者がこれで生きていたのは奇跡だと驚愕していたそうだ。
けれど、代償に記憶を失った。浩然は蟷螂に同情している訳でもなく、ただ気に入ったという事情で別第に置いている。
「……なんだか、奇妙なことになっちゃったな」
莉莉は考えながら独語した。
廊下を過ぎると、庭院に出た。庭院には湖が広がっていて奥には浩然が作った温室があった。温室は園芸を育ててもいるが、作られた根拠の主がいる。
莉莉は温室に入ると愚它麸を探した。愚它麸は小さな噴水の前にいた。目を閉じて寝ているようだった。
愚它麸に声を掛けようとした。だが、そばの噴水に腰掛けている女がいた。長い髪を一つ結びにして、赤い紅粉が顕著だった。麗しい横顔は暗く俯いている。
確かあの人は。この別第で一番美しいと評価されている婢。さらにこんな話もあった。浩然の側室に入るのではないか、と。
なのに、今どうしてそんな悲しそうな顔をしているのだろう。
「……ね、愚它麸の当番? 散策に連れて行っていい?」
莉莉は婢に話しかけた。
婢は我に返って、はっとした。莉莉が温室に入ってきていたのも気が付いてなかったらしい。
「……莉莉様。お早うございます。どうぞ。当番は、もう終わりましたので……」
「やったあ。……どうしたの? こんなところでぼうっとして」
「……いや、その……考え事ばかりしていて……」
婢はずっと沈んだ声で莉莉と対話している。
莉莉は愚它麸に近寄ると、つるつるしている頭を撫でた。愚它麸は少し目を開けるが、また怠倦に閉じる。食後で眠いのかもしれない。
「……莉莉様。私は今日付で、宮を出るつもりです」
「え? どうして……いきなり。叔父様の側室に入るのではなかったの?」
「それが、いやなのです」
婢は突然、目からぽろぽろと涙を流し始めた。
いきなり泣かれてもな、と思いながら莉莉は婢の隣に座った。
「莉莉様。私はただ、浩然様が好きでいてくれればそれだけで良かった。それ以上に、子供を産むのが、恐ろしい、怖くて、しょうがないのです」
「なんじゃ、そりゃ。側室に入ったら子供は産まなきゃいけないし、愛し合う人同士がそういった経緯を踏むのは平凡でしょう」
「それは普通なのですか? 愛って、果たしてそれだけなのですか?」
「そうではないの? 計算の正解と同じだわ」
「私は正解を解けない。だから、宮を出て行きます。それに、私は祖母がシュイ族の血を引いているからというだけで、宮に来た。育ちは殆ど下界だった。そんな血が薄い者が側室だなんて、と周囲が言うのが目に見えています」
「私は、そんなの気にしないけれどな」
「……それは、莉莉様が幻の一族の〝グスタフ族〟の末裔だからですよ」
莉莉は呆れたように婢に指摘されて、頭にかちんと来た。せっかく悩みを聞いてあげていたのに、離背された気分だった。
グスタフ族とは、庭院の湖の奥に住んでいたとされる古代の一族だ。
龍水宮のシュイ族、火花宮のフオ族が生まれる前に存在したのではないか。
シュイ族とフオ族は元々同一の一族で、その祖先がグスタフ族なのではないか。と様々な憶測があるが、いまだに解明されていない謎の一族で、希有である。
莉莉の母が、グスタフ族だったそうだ。
知っている。浩然が莉莉をこんなにも溺愛しているのも、自分がグスタフ族であるが所以だ。
まるで、自分は血が濃いからいいじゃないかと言いたげな婢に、怒りが沸いた。
「……私は人がどうでもいいの! どうでもいいから、下界だとか、一族だとか、何だっていい! 貴女が宮を出ようが出まいがだって、どうだっていいわ! 好きにすれば!」
莉莉は目頭が熱くなりながら、立ち上がって怒鳴った。ふん、と鼻息を鳴らすと、棄擲する。子供のようにいじけて、その場にしゃがみ込んだ。
涙が落ちないように頬を膨らませていると、後ろで婢が立つ音がした。
「……莉莉様。貴女は浩然様が父代わりだったが故に、不器用であると思いますが……本当は優しい方であると、私も周りも知っています。どうか、溌剌で」
婢は穏やかな声で告げた。きっと寂しく笑っている気がした。
──もう会えないのに、顔も見なくて、いいの?
また、自分の中の誰かが囁く。
莉莉は声に呼応してはっとして振り返るが、遅かった。婢は去っていた。代わりに、違う人物がいた。
「莉莉様は、まだ幼いですね。私なら、あの方の気持ち、少し分かりますよ」
蟷螂だった。
しかも、莉莉が想像していた蟷螂と違った。
血が消えて髪や服が整った蟷螂は、驚くほどの美形だった。
額に大きな瘢痕が残ったが、彫りの深い目鼻立ちに、刃のように鋭い切れ長の目。硝子に思える黒々とした瞳に、肩まできちんと削髪された艶やかな黒髪。
浩然に仕立ててもらったであろう漆黒の漢服。金箔のような柄が鏤められて、よく輝いている。
こんな美男に、自分の妙な歌を聞かせたかもしれないと思うと、恥ずかしくなる。
……──歌? そういえば、あの歌は……。
「散策ですか。私も同行しても?」
「……いつもの私だったら、一人が好きだから相手にしないけれど。今、貴方の秘密に気がついたから、来てもらおうかな」
「ふ、秘密か。莉莉様、貴女にだけ分かるよう、誘導しておいて良かった」
嗜好の悪い笑みを浮かべる蟷螂に、莉莉は口をヘの字に曲げる。気味が悪く感じても、蟷螂の顔はどこから見ても端正だから、癪に障った。
眠っている愚它麸を無理やり起こすと、ぐぅと腹から息を吹き出した。鎖で引っ張られて、温室を出て行く。
庭院の湖の前まで行った。朝の淡い陽の光が差し込み、湖の奥は靄に包まれている。この絶景が湖と、自分の中に流れている一族の血の神聖さが増されているのだろう。
莉莉は愚它麸の背中に頭を乗せて、仰向けで寝そべった。宮に蔓延る純粋な姻戚主義なんて嫌いだけれど、目を瞑ると湖の森に実在したのであろう、グスタフ族の人々を想像する。
「……あのね。シュイ族と、お隣のフオ族は元々仙人だったって話は知っている?」
「初めて聞きました。なんせ来たばかりですから。宮の方は人離れした佇まいがあると思っていたが」
「なんだか此処の人たちって偉そうにしているでしょ。自分は下界の人とは違うんだーって。それはたぶんそういった歴史があるから。でも結局、一族が途絶そうになったから、今は下界の人をも構わず受け入れているんだ」
「なるほど。莉莉様が私にお優しいのも、そういった事情があるからなのだな」
「……私は、何もかもどうでもいいだけ。心が、凍っているんだって。きっと親を失って情を失ったんだ。そう誰かが影で言っていたのを聞いたことがある。人の死も、関心ない。だから死んでいた貴方に抱きついたりできるのよ」
莉莉は横を向いて蟷螂に微笑んだ。
「貴方、記憶沮喪って嘘でしょう?」
蟷螂は横顔で吐息をすると、微風に髪を靡かせていた。
「蟷螂って熟慮したら、カマキリって意味よ。私が歌で貴方を〝カマキリみたい〟って言ったから、そう開示したの?」
莉莉は起き上がって蟷螂に詰め寄る。
蟷螂は考え事をするように目をゆっくりと閉じた。
「名を変え、転々として生きてきた。自分の素顔が知られないように。何故なら、私は始皇帝に仕えた〝皇帝の操り手〟趙高の息子だからだ。〝宦官〟であったはずの、趙高の、な」
え、と莉莉は声を出さずに口を開ける。
流石に莉莉でも趙高の名は知っていた。かつての秦の始皇帝の宦官として名を馳せた男だ。のちに最後の皇帝であった始皇帝の血縁の子嬰を位につけたが、殺された。
趙高は秦の時代を栄えさせ、終わらせた一因になった。
「それも、嘘?」
「残念ながら、これだけは嘘ではない。自分でさえ、嘘なら良かったと何度、思ったことか」
まさか、秦王朝の重要人物の子息が目の前に現れるとは思ってもいなかった。
それが事実なら、皇族の関係者が龍水宮に侵入したことになる。
何を考えているのだろう。侵略し、戦争でも起こそうとしているのか。龍水宮の平穏を壊そうとしているのか。
どうしよう、早く浩然に伝えなければ。
莉莉は途端に恐ろしくなって、この場から去ろうとした。だが、かなり焦慮していたからか、桃色の漢服の裾に足を引っ掛けた。後ろに倒れてそのまま湖に墜落しそうになった刹那。
「莉莉様!」
悲鳴を上げる前に、蟷螂の張った声が響いた。
莉莉は水面の直前で、蟷螂に抱き寄せられた。蟷螂は莉莉の下敷きになったせいで、服の上半身が浅瀬に浸った。
「あっ! どうしよう、ごめんなさい。服が濡れてしまったわ……早く着替えないと……」
「歌は? あの歌は、なんという歌ですか? 莉莉様がこういった情態で、倒れていた私に歌った。あれは死者だったはずの私への、霊魂歌だった」
莉莉は強直する。顔を上げて湖の奥を凝視した。
水面の上に仮面づらの男が浮かんでいる。決して霧に包まれた幻影ではなかった。男は莉莉をじっと恨めしそうに見ている。まるでこう言っているようだ。
──どうして、救助してくれなかったのか。
莉莉の眼界は湖から、浩然の寝室に変わる。臥榻の前で倒れている血を流している男。浩然が命令すると、愚它麸がゆっくりと牙を向いた。
莉莉は思い起こされた記憶を消そうと、両手で顔を覆った。
「……貴方が、龍水宮を侵略しないって約束するなら、教えてあげる。歌の意味を」
「いたしません。何か誤認されているようだが、そんなつもりは一切ない」
蟷螂は起き上がって莉莉の両肩にそっと触れた。
すぐにぱっと離すと湖から上がって、濡れている漢服の羽織を脱いだ。木にかけて乾涸びさしたが、半裸に近い情態になったからか、莉莉から間隔をとって背を向けた。
愚它麸が憂慮したように、莉莉の膝の上に口を乗せてきた。太平にぐぅと鳴くのを見て、打擲したくなった。
──あんたが、あんたが殺したくせに。
莉莉は心の内で呟いた。
「私ね、幼い時はいわゆる緘黙症で、何も喋れなかったんだって。あんまり覚えていないから、どうしてそうなったのかは知らないけれど。浩然叔父様が、ある日、私を呼び出した。部屋には、半死半生の男が転がっていたの」
莉莉は愚它麸の頭を撫でながら語り始めた。
「叔父様は、私の前で愚它麸に男を喰えって命令した」
「な……」
蟷螂は声を失った。思わず莉莉を振り返って凝視する。
莉莉は愚它麸の腹の中にあるであろう、死んだ男の魂を想った。
「愚它麸は美味しそうに男を食べちゃった。その時、私はどうしてか、死体になっていく男を見ながら歌ったの。童謡のような、昔どこかで聞いたことがあった、歌を。その日から私は喋れるようになった。でも、いまだに食べられていた男の顔が、どうしても思い出せない……、ねえ、どうやったら思い出せるかな? また叔父様に、同じ光景を見せてくれるように頼めば分かるのかな?」
「もういい! 嗚呼、こんな幼い娘になんて酷いことを……」
蟷螂は片手で頭を抱えながら呻いた。
莉莉は同情してくれているであろう、目の前の優しい男に対して、悪い案が浮かんだ。
「……ね、蟷螂は叔父様に気に入られているから、知らないふりして、愚它麸が食べた男の身上を調べてよ」
「……しかし、それは莉莉様のためになるのですか?」
「なるよ! 私ね、いつも湖でその男の幽霊が見えるの! だから此処によく来るのよ」
莉莉はもう一度、湖の奥を指差した。変わらず男の霊は湖に浮かんでいる。よく見ていると、男の口元が弧を描いた。
「ほら、あそこ! 今、笑った、笑ったよ! やっぱり、一緒に調べてほしいって言っている!」
莉莉は男に答えるように笑貌で手を振った。
蟷螂は、宮の人々と同じように憐閔の目を向ける。残酷な過去から、発狂してしまった少女だと思っているのだろう。
それでも良かった。どうでも良かった。狂っていようが、今、信じているものが莉莉の真実なのだから。
「……分かりました。やってみます」
蟷螂は何にも見えないであろう湖を眺めながら、返答した。




