二
莉莉は龍水宮の王である叔父の浩然と一緒に住んでいた。分別つく前に両親が亡くなり、誰も莉莉を引き取りたがらなかったのを、浩然だけが率先して尽力すると言ったと聞いている。
莉莉たちは歩いて浩然の別第まで向かった。男は生ける遺体かのように、平時に歩けていて、何なら川岸まで登る時、莉莉を片手で荷物みたいに抱えて連れて行ってくれた。
出血は止まったのか、乾いて顔貌が赤黒くなっている。だが、このまま動き続けたらいつ死んでもおかしくない。
けれど、医者に診てもらうには浩然に会わせなければならない。人を生かすも殺すも決めるのは浩然で、此処、龍水宮の王であるからだ。
浩然の別第に着くと、門前の牡丹の花園が迎えてくれる。赤や白ではなく、真っ黒に咲き誇る牡丹の色は浩然の嗜好だ。庭師に変わった花の配合をさせ、作らせたそうだ。
門をくぐると中にいた浩然の下僕が、ぎょっとした顔で莉莉に直ぐさま駆け寄った。
「莉莉様?! その恰好は? 如何なされたのですか?! 隣にいる男はいったい……」
「後で着替える。この御方は私の恩義のある人よ。ぜひ浩然叔父様に紹介したいの。どこにいるのかしら」
「恐らく寝室でお寛ぎになされているかと……」
「……また昼間からお酒を飲んでいるのね」
下僕が目を合わせずに、気まずそうな顔をする時は、だいたい浩然は酒を飲んでいる。浩然は酒豪だった。何よりも酒が好きで、昼夜の関係なく飲んでいる。
きっと今日も婢に絡んで迷惑をかけているのだろう。
莉莉はこういった浩然の横暴さには、あまり関心がなかった。年がら年中ぐうたらしているように見えて、業務はしっかりとこなす。むしろ浩然は人より何倍にも賢かった。なにより浩然は莉莉には、とにかく甘かった。
莉莉がちゃんと嫌がれば酔った情態で近寄ったりしない。酒はやめないだろうが、とにかく莉莉には金銀財宝、宝石、服を与える。
莉莉はどれも関心がなかったが、自分に害を及ばさないのであれば、何でも良かった。その影で泣いている女が何人もいようとも。
莉莉は、生来から同感性が乏しかった。変わった叔父が殆ど親代わりだったからなのか。生まれつきの性質であるのか。自分でも分からないが、兎角、人がどうでもいい。
なんせ、あの長きに渡った楚漢戦争さえ無関心であったほどだ。自国の戦争だが、遠くにあって自分たちの地に被害がないのであれば、他人事だ。まるで天人が空から人を眺めているような知覚である。
自分が傷つかないのであれば、人が傷つこうが知ったことではない。
でも、自分の中の誰かが、たまに囁く。
──それでいいの? と。
別第に入って浩然の寝室に向かう。時々、隣にいる男が立ったまま死んでいないか不安になる。無事に寝室の前まで辿り着くと莉莉は声を掛けた。
「浩然叔父様。莉莉です。今、帰りました」
しばらく待っていると、ガチャリと扉の開く音がした。中から美しい婢が、にこやかに微笑んで開けてくれた。そのまま入って臥榻に向かった。
「ううん……莉莉か。また気味の悪い虫探してもしておったのか? まったく駻馬な娘だ」
後ろ向きで寝そべっている浩然は、婢たちに扇子を煽いでもらっていた。欠伸をしながら振り返ると、半開きだった両目が大きくかっぴらいた。
「莉莉?! どうした、その服は! 俺が与えた綺麗な服が、血だらけではないか?! ああ、何ということだ、身体はどこもなんともないのか!」
「叔父様、汚してしまってごめんなさい。でも川に落ちただけで何でもないわ」
「それに、なんだ、その男は! 誰が俺の城に入れていいと許可した!」
浩然は慌てた態度で臥榻から降りると、わなわなと震えながら莉莉の両肩を揺さぶる。
浩然の口から酒の強い匂いがして、莉莉はいきなり鈍い嗅覚が戻った。よく嗅ぐと男の血と酒の臭いが混じって、部屋中にこもっていた。
「どうも、初めてお目にかかる、浩然殿。莉莉様は私の命の恩人だ」
浩然に詰められて何も言えなくなっている莉莉の代わりに、ずっと寡黙だった男が急に喋った。
「川で気絶していたところを助けて頂いた。だが、その時に鰐に襲われて一緒に逃げてきた」
「……そうなの。叔父様。この人は鰐を倒しちゃったのよ。私どころか、彼のほうが命の恩人よ。見てもう分かるでしょう? 傷が酷いから、早く治してあげて……」
「どこにそんな証拠がある? この男が莉莉の恩人で、絶待に莉莉を襲ったりしていない証拠は?」
そんな、と莉莉は肩を落とす。目の前で今にも死にそうな人を見ても、この応対なのが浩然だ。
浩然は莉莉が無事で落ち着くと、にやりと悪い笑みを浮かべて顎をさすった。臥榻に腰掛けると、胡座をかいて頬杖をついた。
「ふむ。いいだろう。面白い案を思いついた。貴様、鰐を倒したといったな? 今ここで、もう一度、俺の前でそれを見せてみよ」
莉莉は沈黙した。まさか、と思った。
「おい! お前たち、愚它麸を呼んでこい! この男の前に連れてくるのだ!」
浩然が命令すると、婢たちは顔を見合わせた。
「早くしないか!」と浩然が督促すると、婢は狼狽して部屋を出る。しばらくすると、婢たちは同僚の下僕を呼んできた。下僕は浩然の部屋に入ると、手には鎖を引っ張っていた。
鎖の先に繋がれていたのは、鰐だった。
鰐なのに、全身が真っ白く美しい鱗をしている。
川に生息していた野生の鰐とは違って、全く汚れもない。珠玉のような赤い眼が、ぎょろりと莉莉たちを見る。下僕たちに洗われて磨かれた身体が光っている様は、獣には見えず、一種の装飾品に思える。
名前は愚它麸。そう、浩然は装飾品のようにこの鰐を飼っていた。
いつから生きているのかは、莉莉は分からない。莉莉が浩然に引き取られる前から、いたようだ。小さい時は、愚它麸が鰐だともよく分かっていなく、一緒に寝ていたりした。
愚它麸は驚くほどに大人しい。嬰児を前にしても一切、襲おうとしないぐらいだ。
まるで人間の言葉を理解しているようだ、と莉莉は、たまに思う。浩然の言うことを逆らわず、従う。それが、殺人の命令であったとしても──。
「来たな。愚它麸。男よ。今、此処で──この鰐を止めてみよ」
浩然はそばによってきた愚它麸の顎を撫でる。愚它麸は気持ちよさそうに目を瞑っている。だが、愚它麸の頬に顔を寄せると、こう呟いた。
「──愚它麸。この男を喰らえ」
その言葉を聞いて、莉莉はごくりと唾を飲んだ。
──どうしよう、この人が、今度こそ本気で死んでしまう。
莉莉は咄嗟に男の前に立ちはだかった。男を守るように両手を広げる。
「……いけない! 愚它麸! いけないわ! この人は私を助けてくれたの! だから殺さないで!」
「助けてくれた、それだけで、この男を、身を挺して守るのか? 莉莉。随分と薄い欲心だな」
「叔父様……それは……」
「この男に惚れでもしたか?」
「違う!」
「莉莉。〝お前らしくないぞ〟」
浩然は莉莉を鋭い目で見つめた。浩然の低語に身体が固まったように動けなくなる。
お前らしくない。浩然の呪いの言葉だ。莉莉を戒める記憶。
俺たちの罪を忘れたのか──と。
莉莉が声を失っている間に、愚它麸が大きく口を開いた。磨かれた牙が発光し、襲いかかる。刹那、男が莉莉を後ろ向きで抱きしめた。
男は背を向けたまま、片腕を愚它麸に喰らわせていた。莉莉は男越しに愚它麸がくわえている腕を見る。牙が食い込んでいくと、肉に穴があいて血が落ちていく。
莉莉は息を引っ込めて、手で口を押さえた。目の前で腕が取れるのではないか、と感じる光景を見ていられなくて、莉莉は顔を両手で覆う。
「う……もう、やめて……許して……」
莉莉は目を閉じて震えた声で小さく呟いた。
けれど、男はしっかりと前を向くと、腕に愚它麸を掴ませたまま、微動だにしない。ただひたすら、浩然をじっと凝視している。
浩然は血を流し続ける男に、唸った。
「ふん。愚它麸、もういい。離してやれ。 ははは、気に入ったぞ。その強い身体に、熱い眼差し! 今すぐ治療させてやろう。宮で一番の名医にな! おい、この男を治療室に連れて行け!」
浩然は部屋中に聞こえる叫号で伝えた。
愚它麸は間が抜けたように口を開くと、男の腕を離した。びたっと床に音を立てて落ちて、体勢を一回転させる。口を血だらけにしたまま、足をのっそりと動かして、浩然の臥榻に入っていった。
男は下僕に支えられて、部屋を出て行こうとした。その時に、男が莉莉に少し近づいた。
「……莉莉様。旁若無人に体に触れてしまった無礼をお許しください」
男は手を合わせて莉莉に頭を下げた。
莉莉は放心して床にぺたりと座り込んだ。そのまま連れて行かれる男の背を熟視することしかできなかった。




