一
「カマキリみたいに潰れていたんだ。ワニも喰えないような大男がさ」
莉莉は川の前で歌った。真横には男が倒れている。
男は頭の片面が潰れていて、大の字になっているが両足がおかしな方向に曲がっていた。
川水と混じった男の血が流れて、莉莉の素足に浸っていく。
莉莉は目の前に広がる泰山を見上げた。霧を覆っている山頂に浮かぶ雲は青黒い。
高祖五年(紀元前二〇二年)の漢。
秦は滅亡、楚の項羽を討った劉邦は皇帝に即位。楚漢戦争は終結し、漢王朝が始まり、民衆に安堵が広がっていた。
さらに宦官の趙高が仕えた始皇帝は、悪とされていた。
新たな都に長安が誕生し、郡国制になった、この時。泰山は二つの古い宮と一族があった。
麒麟を産む〝応竜〟を祀っている龍水宮。シュイ族。
鳳凰を産む〝飛竜〟を祀っている火花宮。フオ族。
莉莉は龍水宮の者で、今は孤島にいる。下界の人間が泰山を登る時、よく足を滑らして、この孤島に落ちる。さらに、今いるこの川には、鰐が大量に住んでいる。
十五歳の莉莉は、子供だからこの川は危険だから行ってはいけないと、言われていた。けれど、川岸から覗いて山から落ちた遺体を喰う鰐の群れを眺めるのを、嗜好としていた。
今日、また人が墜落した。いつもは見ているだけで川に近づこうなんて思わないのに。
傑作の遺体だった。莉莉が今まで見た中で、最も蠱惑な遺体だった。
莉莉はこの男の遺体を見た時、鼻孔から出血した。袖を拭って血を止めようとしたが、いくら拭いても血は溢れた。
眼球の奥がぎゅるっと動いて、眩暈がした。ぼんやりとした意識のまま、莉莉はいつの間にか水畔に向かっていた。
「おじさま……じゃないかな。お兄さん。無事?」
莉莉は万一、男が生きているかどうか話しかけた。もはや年齢など分からない、半ば崩壊した顔貌となっているが、男の大体の若さを確かめようとした。
自分より明らかに年上だが、壮年というには、まだ若かった。かといって少年ともいえない、がっしりとした体形をしている。
莉莉はしゃがんで、そっと男に近づいた。口端が上がるのを堪えきれずに、震える手で男に触れた。
莉莉は服が濡れるのも気にせずに、男の胸元に頬を寄せた。そのまま抱きしめるように、男の上で目を瞑った。
いつまでそうしていたろうか。眠るかのような心地よい気分で、瞼を開けた刹那だった。
「あっ……」
しまった。気が付いたら男の血の臭いにつられた鰐に囲まれていた。
一頭の鰐が莉莉に向かって大きく開口した。鰐の牙が光ったと同時に、水が思いっきり跳ねた。
莉莉の前に、男の大きな影が覆った。
遺体と思っていた男が、動いた。
男は太い腕で、鰐の口を挟んでいた。肉に牙が食い込んで、今にも截断されそうだ。だが、男が力を入れると腕は硬くなり、鰐は閉口ができずに狼狽していた。
男が思いっきり腕を振り回すと、鰐の巨体が吹っ飛んだ。
鰐は川底に沈むほどに、飛ばされていった。あまりの腕力に、周りの鰐が怖じ気づく。敵いそうにない大きな獣を見たかのように、鰐はさあっと莉莉たちの前から引いていった。
莉莉は愕然として、思わず膝から崩れ落ちる。
目の前でまだ堂々と立っている男は、一隻眼を血だらけにして、莉莉をじっと見た。
何も言えずに沈黙が続きそうなところを、どうにか莉莉は苦笑しながら口を開いた。
「あ……あのね、この近くに王の別第があるの……王は、私の叔父で、今、同居していて……乱暴な人だけれど、優しいところもあるの。きっと貴方の傷も治してくれるから、どうかな……」
そんな傷痍でなぜ生きているんだ、いつから意識があったんだ、もしかして抱きついていた時から目を覚ましていたのか、といくつも聞きたい質問はあったが、何とか抑え込んだ。
莉莉は男に対して今一番に要用な処置をした。男はいまだに莉莉から眼を変えないままだったが、しばらく経つと。
「……ああ。そうしよう。感謝する」
と低く答えた。




