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中華ワニ小説『鰐魚の宮に、落ちる恋水』  作者: あすみねね
三章 炎の姫と、腕を失った男
20/21

四

 莉莉は房室に戻ると、侍女を呼んで粧飾してもらっていた。もう、こうなったら、やけになって、気合いを入れて綺麗にすると決めた。龍水宮のグスタフの姫はどれだけ美しいか、桐香に見せつけて驚かせよう。


 自分で言うのも何だが、顔になら自信がある。逆に顔しか美質がない故、莉莉は常に卑下していのだが、この際、使えるものなら使う。きっと桐香姫は質子になって憂患(ゆうかん)だろうから、莉莉が典雅(てんが)に振る舞って安心させてあげよう。莉莉はこの龍水宮の滅裂な情態に態度を急変させた。


 いつも漢服は可憐な退(たい)紅(こう)にしているが、今日はあえて濃い紺青(こんじょう)を選んだ。童顔な自分が老成している気分にする。また倒れるといけないから、香粉は薄めに塗ったが、口紅は派手な赤にした。


「まあ、莉莉様。まるで天女のようにお美しいですわ」


 莉莉は鏡台の前で何度も角度を変えて、自分の姿を識認(しきにん)する。侍女たちは笑顔で、莉莉を称賛した。可憐だ、可憐だ、と言われる莉莉が、今日は美しいと褒められている。これで完全だ。莉莉は片手で拳を握りしめると、堂々として本宮に向かった。


「おう。なんだ、美人さんの登場だな」


 蒼嬰は王座の欄(らん)檻(かん)に頬杖をつきながら、莉莉の恰好を見てにやにやしていた。莉莉は、ふん、と息巻きながら、蒼嬰の隣に座った。


「桐香姫様の御成りです」


 侍女が頭を下げて本宮に入ってくると、扉を開けた。外から日差しを背後に人影が現れる。莉莉は少し胸がどきどきしながら、目を凝らした。


 火花宮の桐香姫。一見すると、背は低く、莉莉と同じほどだった。男と誤認するような黄褐(こうかつ)色の短髪で、深紅より派手ではなく、落ち着いた柘榴色の漢服を着ていた。なのに、緑の両眼は迷うことなく、真っ直ぐに王座に向いていて、圧を感じるほどの凜々しい顔つきだった。


 莉莉は見た目だけで桐香に圧倒された。同い年なのか? と疑いたくなる悠然さだ。


「蒼嬰王。この度は質子としてお招きいただき、誠に感謝する。改めて、火花宮の桐香である。どうぞ、よろしく頼もう。来たからには、どのような事でも、我は龍水宮のためになると、この本殿で誓おう」


「ああ。そこへ直れ」


「……はっ」


 桐香は一音一音、切れの良く話すと、拱手の礼をする。蒼嬰が置いてあった呉床を指すと、そこに背筋を伸ばして座った。


 莉莉は何の言葉も出なかった。急になにもかもが恥ずかしくなって俯くしかない。浮かれて、懸命に粧飾をしている場合ではなかった。


 そうだ。桐香は父親を殺されて、故郷の火花宮から牺(いけにえ)として差し出された。すべては自分の宮のために。莉莉だったら泣き出して何も喋れないだろうが、桐香は怯えることもなく、勇ましくいる。


莉莉がどれだけ見た目を取り繕っても、桐香との体験の差をひしひしと感じた。


「失礼。そちらの方は、お初にお目にかかるが……もしかすると、龍水宮の莉莉姫であろうか?」


「は……ひゃい!」


 莉莉はしまった、と両手で口を覆った。桐香の促迫に彊直して、思いっきり舌を噛んだ。動物が尻尾でも踏まれたかのような変な声に、莉莉は顔全体が熱くなった。


 蒼嬰は、ぷっと吹き出していたが、桐香は笑うことなく誠実なまま話を続けた。


「昔に私は一人でグスタフ族の孤島に訪れたことがあった。孤島に莉莉姫が住んでいると聞いてから、過干渉ながら気にしていたのだが……あれから時を経て、こうしてお会いできて光栄である。旧王の事件は、人づてながら話は聞いている。実に災難であった」


「い、いえ……あの、その、私もずっと桐香姫にお礼を言いたいと、思っていて、今日、本宮に来させていただきました!」


「なんと。そうであったのか。お礼だなんて……、当時は児童であったとはいえ、私は何もできなかった。なのにわざわざ、顔を出しに来てくれて、こちらこそ感謝を申し上げる」


 桐香はまた立ち上がって丁寧に拱手の礼をした。女の莉莉でも、惚れ惚れするような男前な桐香の笑みだった。


「桐香姫は、私と同い年と聞いて是非とも仲良くできたらいいなと、思っています。だから、お話ししたいこといっぱいあったのに、こういった人前に慣れていないせいで、今、頭の中が真っ白に……」


「はは。そう焦らずで構わない。私も来たばかりであるし、これからゆっくりで良いから、お話をいたしましょう」


「憂慮を感謝します……ごめんなさい……私は、桐香姫みたいに、全然しっかりしてなくて、なんの長所もないから、こんなことに……」


「何をおっしゃる。莉莉姫は噂通り、まさに姫という言葉が相応しく可憐な方だ。武芸ばかりに傾倒していた私からしたら羨ましい限り。今度、私も模倣して莉莉姫から粧飾のコツを教えていただきたい。もちろん見た目ではなく、内面も実直で懸命なのであろうとお見受けした。その完全な粧飾からして、体現していらっしゃる」


 莉莉は、なんだかもう、桐香に全てを従いますといった心情になって、傀儡のようにこくこくと頷き続けた。思わず蒼嬰の顔を見て「この人はいったい何者だ?」と言いたげに、莉莉は片眉を上げた。


 桐香はもはや年齢不相応を越えて、聡明すぎるあまり、人ならざる者を識認したような恐ろしさがあった。政略である発言だったら、もっとわざとらしく感じるが、桐香が言うと本心のようだった。だから逆に怖い。この年にしてどうやって育ったら、こんな人格者になったのか。


「……桐香姫は、初めて会った時からこうだ。火花宮で若者には、父親の王より慕われていた。だから俺がわざわざ鰐なんかを宮に運んできた根拠が分かっただろう? 決して悪党ではないが、堕落はするな。俺も常に警戒しておくから」


 昏惑している莉莉に、蒼嬰が耳元で囁いた


しっかり把握できたが、莉莉は蒼嬰の言葉に驚いていた。〝悪党ではない〟。どこか全てを暗く見ていて、人を疑っている蒼嬰からそんな台詞が出るとは思わなかった。だから、桐香は余程なのだろうと、それだけで分かった。


「……失礼。すまないが、あと一人、火花宮から連れてきて紹介したい者がいる。蒼嬰王、本宮に呼んでもよろしいだろうか?」


「質子になる条件の人物か。話は、聞いている。連れてくるといい」


「感謝いたします」


 桐香は立って礼をすると、侍女に眼色で指示をした。再び扉が大きく開くと火(かえんこう)が差し込んだ。


 入ってきたのは、影と融合したような暗黒の男だった。莉莉は思わず瞼を何度も擦って、男をよく見ようとした。


 漆黒の漢服が質素なように思えるが、右の袖に炎の柄が描かれていた。火花宮の象徴の飛竜だった。男の袖が揺れる度に飛竜の鋭い青眼と目が合う。頭には笠を被っていて、顔が全く見えない。


 一見すると不審者の恰好で、莉莉は首を傾げた。


「この男の名は趙(ちょう)鬼(き)という。主に火花宮の官人の護衛をしてきた。腕力がよく従順であり、私が見定めて連れてきた。もし、こいつを使うなら自由に使ってもらって構わない。そんなことはないように躾けてあるが、女たちに干渉でもしようなら、私の命共々引き換えにする」


 趙鬼は片腕で礼をした。刹那、莉莉は全身に雷電のようなものが走った。まさか、と立ち上がって趙鬼を眼界から離さなかった。


 趙鬼には右腕がなかった。莉莉は、この男に会ったことがある。


「……貴方、先日の!」


 莉莉にしては高い大声が本宮に響いた。趙鬼以外の全員が一斉に莉莉を見る。


 趙鬼は少し俯いた体勢のままで、こちらを向かずに静かでいた。応答しようとしない趙鬼に莉莉は、裾を持ち上げて足早に王座から離れた。


「あの時に私を助けてくださって、ありがとう。まさか、こんな所で、また会えるなんて!」


 莉莉は趙鬼の前に行くと、思いっきり頭を下げた。


 変わらず、しん、とした沈黙しかなく「あれ?」と莉莉は顔を上げた。


「……莉莉。趙鬼殿と会ったことが、あるのか?」


「ええ。蒼嬰お兄様。雪芳お姉様が本宮でお兄様を紹介した日に、よ。この方が、外で身体が悪くなった私を治療をしてくださったの」


「どうして龍水宮に火花宮の者がいるのだ? 今日以外、来賓者の許可は、おりていないぞ」


「そんなの……」


 自分が知るわけがない。莉莉は趙鬼の隣にいた桐香を見る。「どうしてだ?」と聞くように。


 しかし桐香は、初耳だと言いたげに眉間に皺を寄せていた。


 まるで自分が虚言をしているような周りの目に、そうだ、と莉莉は懐に手を入れた。


「見て! この頸(ペン)錬(ダント)を落としたでしょう? 古いけれど貴重な物のような気がしたから、取っておいたのよ。もしまた会えたら渡さなきゃと思っていたの」


 莉莉は懐から赤銅色の竜の頸錬を見せつけた。ほら、と趙鬼に渡そうとした手を、神速に桐香が受け取った。桐香は鳥のように見開いた眼で、頸錬を熟視した。


「……これは、私の亡くなった祖母の物である」


 桐香は呟くと、ふう、と深く息を吐いた。莉莉は吃驚したあまり、そのまま桐香に頸錬を渡してしまった。


「……趙鬼。笠を外せ。顔を見せよ」


 激変した形勢に、蒼嬰が口を出さざるを得なくなった。


「しかし、ただの護衛でありますから、莉莉様とは関係ないと……」


「早くしろ」


 桐香が言い終わる前に、蒼嬰は低語で命じた。桐香が趙鬼に笠を外すように、鋭い目つきだけで伝えた。


 趙鬼は笠にゆっくりと手を掛けて外した。


 笠から女のような長い黒髪が、生糸のように細く揺れる。吸い込まれそうになる黒々とした両眼に、幽鬼の如く青白い肌と唇。


 莉莉の眼界に最後に映ったのは、趙鬼の額の大きな瘢痕だった。


「……えっ、はあ、え?」


 莉莉は声にならない呻きを上げた。


 目の前に現れたのは、蟷螂と同じ顔をした男だった。


 ──蟷螂、生きていたの?


 もし、再会できたら、何て言おうとしていたんだっけ。


 ──会いたかった?


 ──まだ、私のことを……。


 なんと、言えたらいいのだろう。


「私は龍水宮に訪問していません。恐らく、別人だと思われます」


 趙鬼がやっと口を開いた。少し嗄れた低い声が平静に伝えた。


沈黙している莉莉から、一切、目を逸らさないところから、主張の強さを感じる。莉莉は趙鬼から、一歩二歩と下がった。


 すると、だんだん眼界がぼやけてきて、人の声が夢の中にいるような知覚になった。


「自分は龍水宮に非法侵入は、していないと言いたいのだな。では、何故、桐香の所有品を莉莉が持っている?」


「蒼嬰殿。この頸錬は、……実は竊盗(せっとう)されていました。ずっと何処に行ったのかと探しておりまして」


「ならば、莉莉が桐香の物を盗んだと言いたいのか? どうやって、だ? 今日、初めて会ったのに?」


「それは……私にも一切、どういったものか……何故、こんなことになったのか、申し訳ありませんと頭を下げるしかなく……」


 あんなに堂々として憧れまで抱いた桐香が、一気に焦燥して姿が崩れた。額に汗を滲ませて、両肩がわなわなと震えている。けれど、予想だにしていなかったと表情に出ていて、虚言をしているようには見えなかった。


 桐香は膝をつくと、頭を床に擦りつけた。


「申し訳ありません。申し訳ありません。お許しを」と泣いているような声で呟き続けていた。


 ──自分の一発言で、自分のせいで、桐香がこんな失体を晒している。


 莉莉は決意して、蒼嬰に振り返った。


「……蒼嬰お兄様。ごめんなさい。今、思い出しました。この頸錬は山中で拾得(しゅうとく)しましたわ」


 桐香と趙鬼は一瞬、ぴくりと肩を揺らした。蒼嬰は頬杖をつきながら、怪訝な顔で聞いていた。


「ひと目みて綺麗な頸錬だったから、気に入って取ってしまったの。私、そんなに装身具(アクセサリー)を欲しいって思ったことなかったから。もしかしたら、これを盗んだ人が落としたのかもしれません」


 莉莉は桐香の隣に行くと、見よう見まねで頭を床につけた。


「私こそ、ごめんなさい。落ちていたとはいえ、これでは盗んだのと同じだわ。罰するなら、私を罰してください」


 桐香が顔を上げて「莉莉様!」と声を荒げた。


 頭を下げるのは苦痛ではなかった。むしろそれだけで、罪が許されるなんて軽いものだろう。捻くれた見解だが、きっと蒼嬰も同意なはずだ。


「……俺は煩雑(はんざつ)な事が嫌いだ。〝そういうこと〟にしておこう」


 蒼嬰が片手を振って頭を上げるように指示した。莉莉はすぐさまに立ち上がると、早足で本殿から出て行った。


 眼界が霞んで目が乾いてくる。頭がぼうっとして何も考えられない。胸がどくどくと鳴って動悸がする。


 莉莉は房室に戻ると、そのまま駆け込むように臥榻に倒れた。

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