↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
中華ワニ小説『鰐魚の宮に、落ちる恋水』  作者: あすみねね
三章 炎の姫と、腕を失った男
21/21

五

 暗黒の中に蟷螂がいた。


 髪が短くて、骨格が凜々しく、両腕もちゃんとある、出会った頃の若い姿だった。莉莉は背を向けている蟷螂に、懸命に手を伸ばして追跡している。名を呼んでも振り向いてくれない。どれだけ走っても蟷螂が遠隔していく。


 ──ないで、……ないで。


「行かないで! 私を置いていかないで! 蟷螂!」


 莉莉は絶叫して目が覚めた。


 飛び上がって過呼吸をしながら両手を凝視する。掌が涓滴で湿っていて手首にまで落ちていく。全身が水でも被ったかのように汗でびっしょりだった。激しい頭痛に莉莉は髪をぐしゃぐしゃにしながら呻き続けた。


「莉莉」


 黯(くら)黒(やみ)な部屋の中で、男の声がした。


 ──蟷螂、来てくれたの?


 莉莉が薄目でそっと片手を伸ばすと、掴んだ手に引っ張られる。間近に蒼嬰の顔が眼界に浮かび上がり、莉莉は吃驚して悲鳴を出した。莉莉は臥榻の被套に丸まって、震えが止まらない身体を押さえ込む。


「……そんなに俺が怖いか?」


「あ……、ちが、違うの、蒼嬰お兄様……とても夢見が悪くて……」


「ふうん。侍女から莉莉が声をかけても即答しないほどに熟睡していると聞いて、情態を見に来た」


 蒼嬰はいつもの態度で「ほら」と水が入った小さな腕を莉莉に渡した。


 莉莉は礼の代わりに頷くと、腕を受け取った。一気に飲むと冷たい水が喉に通って、発熱した体に染みる。


「そんなに、あの男が気になるか?」


 莉莉はぎくりと音がしそうなほど眉を歪めた。蒼嬰の言う〝あの男〟が誰を指しているのかすぐに分かった。


 莉莉はいまだに夢だったのではないかと感じる。


 死んだと思っていた蟷螂に酷似した男が、突如、現れた。でも、趙鬼と開示している別人だった。


「……気になるって、どういう意味?」


「あれは、女が恋慕したかのような顔。頬を赤く染めて、寡黙になって、放心していた」


「そんな、愚劣な……」


 莉莉は嘲笑を浮かべる。笑って欺罔をしたが、内心、焦っていた。


 あの時、莉莉は驚異のあまりにむしろ気絶するのではないか、というほど放心していた。けれど、自分からは見えない莉莉の顔が、そんな風に映っているとは思いもしなかった。


「……本宮に出たから疲れたんだろう。しばらくはゆっくりと休んでいろ」


 何も答えないのが莉莉の返事だと感じたのか、蒼嬰はそれだけ伝えると莉莉の房室を出た。莉莉は黙然で蒼嬰を送り出すと、再び横臥した。


 横になっても昼に熟睡してしまったから眠れるはずがなかった。両目がぱっちりと開いて頭が冴えている。


 莉莉は今日あった騒動を思い返していた。現実が受け入れられない。


 目を閉じても瞼の裏に光景が焼き付いている。髪が伸びて老成しているが、かつての美しい相貌が残っている男の姿。どうしてか片腕を失っていて、体勢が傾き、立っているだけでも辛そうだった。


 他人のふりをする蟷螂なんて見たくなかった。そもそも本人なのかもわからないが。


 ──どこかに逃げてしまいたい。


 莉莉は何かに憑依されたように、ゆっくりと起き上がる。跣(せん)足(そく)のまま羽織をはおって、房室から出た。


 夜の龍水宮は、泰山の空に満天の星が浮かび、行燈の臙脂色の明かりがちらちらと光る。聞こえるのは、渠水から流れる揺籃歌(ようらんか)のような水音のみ。


 庭院に行くと、池の上に何頭もの鰐の嬰児がぷかぷかと浮かんでいる。目を閉じて寝ているようだ。莉莉は東屋に腰を掛けて、寄りかかった。


 ──今、ここで宮から出たら、どうなるのだろう?


 またこうやって嫌なことがあると、逃走する思考になる。でも、考えるだけなら許してほしい。でないと、生きていくのにとても正気を保てない。


 ただ、時々、首を吊る人間が、縄を作ってみようか、となるように。莉莉は宮の塀をじっと熟視している時がある。この外に出られたら、自由か、地獄か──。


 そこまで考えて、ふっと冷笑した。下界に降りたところで、自立もできていない自分は、生きる力もなく斃仆(ふへい)するだろう。少なくとも桐香のように武芸でも身につけてみようか。


 そんな夢の世界の自分を描きながら、目を閉じて寝てしまいそうになった時。


 どこからか物音が聞こえた。両瞼を開けた刹那、二つの行燈の明かりが遠くから見えた。


「なぜあと少し待てなかったのだ! 円滑に欺けたからよいものの、失敗していれば私たちは処刑されていたぞ!」


 女の高い声で悪罵が聞こえた。莉莉は思わず瞬時に屈んで東屋に隠れる。


声の主たちは莉莉に気がついてないようで「夜ですから、静粛に。誰かに聞かれます」と囁きながら近づいてきた。


「言い訳ぐらい聞かせろ! 何故だ? 何故、こんなことをした?! まさか、記憶が蘇ったのか?!」


 莉莉が耳を攲(そばだ)てると、声は桐香のものだと判明した。相当頭にきているようで、注意も聞かずに声気を変えない。


さらにもう一人の男の低い声が、趙鬼のだと分かった。


「……あの方が、莉莉姫が、私の〝愛(あい)姫(き)〟だったのが、真実なのか確かめたかった。やはり、どうしても信じられなくて……」


「私が虚言しているといいたいのか。どうしたって変わりはない。確かに私は、五年前、グスタフの孤島でお前と出会ったのだ。記憶を失ったとはいえ、別人とは思えず、今まで火花宮で雇っていたのも、それが事実だ」


 莉莉は驚愕で、両手で口を覆った。


まさか、そんな、と呻き声が洩れそうになるのを耐忍(たいにん)する。


 聡明な桐香は、過去に、莉莉が叔父に襲撃されたあの当時に、蟷螂と相識があるのを覚えていた。突然、火花宮に蟷螂と酷似している男が現れたが、記憶を失っていた。桐香は憐憫して、行く当てのない蟷螂を尽力していた。


だが、蟷螂と趙鬼が同一人物である証拠もなく、今でも桐香は自信が持てないのだろう。


 もし、趙鬼に蟷螂の記憶が戻ったら、莉莉のことを思い出してくれる。けれど、叔父の殺害、共に犯した罪が暴かれる。会いたいと願っていた。でも、宮から遠くへ行って、罪を逃れた蟷螂に安堵していた自分もいた。


「……莉莉姫。あの子を見て、何か感じたか?」


 二人はどんどん近づいてきて、東屋の前で桐香が寄りかかった。腕を組みながら、ふう、と吐息して趙鬼に問うた。


 莉莉は唇を噛んで口呼吸を抑え、間隙(かんげき)から光景を覗いている。


「……どうしてか、雑沓の中でも、ひと目であの方を見つけられました。ずっと目で追ってしまい、何だか守らなきゃいけないといった情欲に、でもそれは莉莉姫が高貴で可憐であるから故かもしれません。かといって私の記憶は……とくに……」


「承知した。まあ、無理せんでよい。脳の障礙の回復は、なかなか難しいと聞くからな。しかし……ったく、よりにもよって……お祖母様の物を落とすとは! 私が……私が、どんな気持ちでこれお前に渡したと思っておる!」


 どうも桐香は情緒が安定しないようで、声の大小が激しい。桐香は両目を潤ませると、趙鬼に抱きついた。それを見た莉莉は、ずきりと胸が痛くなる。


 桐香は、うう、と俯いて、趙鬼の胸元を児童のように叩いた。


 だが、突然、趙鬼は息を呑んだ顔をした。


「……! 桐香様! あまり憤激なさらないでください! それ以上は、お身体が!」


 趙鬼が声を上げたと同時に、莉莉の前で、ぴかっ、と閃光のようなものが走った。


 莉莉は光の強さに驚いて思わず「きゃっ!」と悲鳴を出した。しまった、と倒れ込んだ時には遅かった。


「……?! そこに誰かいるのか?!」


 莉莉は東屋に入ってきた桐香に、後退する。桐香は莉莉を見つけて、はっと口を開けた。


 互いに吃驚している間に、桐香の体に異変が起きた。


桐香の周りが臙脂色の光に包まれた。それは、だんだんと煙霧を出し始め、一気に現れた。


 炎だった。桐香は突如、真っ赤な火を纏い、燃え出した。


「えっ、桐香姫……! 体、体が!」


 莉莉が助けようと片手を伸ばした刹那。


 大きな旋風が吹き荒れ、莉莉は両目を瞑った。次に瞼を開けると、驚くべく光景が広がっていた。


 目の前に、炎の怪鳥が飛んでいる。


 火の粉舞う翼を羽搏(はばた)かせて、緑色の眼が莉莉を捉えていた。火(ひの)鳥(とり)が莉莉に飛びかかった。


 ──襲われる!


 思った瞬時に、莉莉は眩い光に眼界が支配され、意識を失った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。