三
「なあに、これ」
莉莉は朝起きてから、庭院を散策して愕然とした。
眼界には、小さな鰐の嬰児がいた。鰐は口に花弁を咥えて、むしゃむしゃと食べている。庭院に咲いていた花たちが茎から囓られいて、物を散らかしたように落ちていた。
鰐は莉莉と目が合うと、口から花弁を零して固まった。ばれた、と悪戯っ子の如く、急いで花を食べてないふりをしていた。
莉莉は、何てことをしてくれたんだ、龍水宮の美しい景色が滅裂だ、と鰐を軽く叩こうとして片手を挙げた。
鰐も怒られると思ったのか、びくりと身体が震えた。けれど、莉莉は動物相手でも苛虐はしたくなく、振り上げた手をそっと降ろした。自分がされた痛みを、否が応でも分かっているから。
莉莉は庭院の池へ向かった。どうしてか、花を荒らしていた鰐が関心満々についてきていたが、気にせずに平静に行った。またしても莉莉は愕然とする。
池にぷかぷかと浮いている鰐の嬰児が、一頭、二頭と何頭も生息していた。
「……いったい、どうなっているの?」
と莉莉がぼそりと呟いた刹那。女の悲鳴が宮内に響いた。
きっと他の所でも誰かが鰐を発見したのだろう。とんでもない。莉莉はすぐに本宮に戻った。
「蒼嬰お兄様?! 外をあんなことにしたのは、貴方ですか?」
蒼嬰は王座に胡座をかいて座って、朝飯を食べていた。侍女に囲まれて輔佐をされている。蒼嬰は莉莉を見もせず、林檎を宙に投げる。手に取ると、そのまま囓りながら喋った。
「慣習だよ。慣習。龍水宮に生息する鰐は、応竜の嬰児である麒麟の証。神の子である鰐は、御利益があるのさ。はるか昔は鰐と共に暮らすのが龍水宮に幸福を齎すと言われていたのに、結局は人が育成できなくなっていった。居所を失った鰐は孤島に放下され、今や抛擲情態だ」
「まさか、孤島から連れてきたの? 今日、桐香姫が訪れるから、自分たちも古き良き時代を大切にしているのを見せようって?」
「ご名答。それが政治ってものさ」
蒼嬰は片目を瞑って莉莉に指差した。莉莉は大きく肩を竦める。
孤島に住んでいた莉莉ならまだしも、宮の者たちは嫌がるに決まっている。今日からいったい何人が耐えられなくなって、宮から出て行くのか。
莉莉が呆れていると、本宮の扉が音を立てて開いた。外から雪芳が堂々とした衣装でやってきた。切れ長の目つきは鋭く、表情は忿怒に満ちている。
「蒼嬰殿! どういうつもりだ! 今、宮が惑乱に陥っている!」
「歴史も知らない愚かな衆民が騒いでいるだけさ。そのうち慣れる。鰐たちの撫育ができるように教育しておくんだな。それでも嫌なら、出て行けばいい」
「なんて傲慢な! 許可もなく自由をなされては誰もが困るのは分かっておろう!」
至極誠実な雪芳の訴えだと、莉莉も頷いた。莉莉は別に異議をしているわけではないが、周りを考えたら異常なのは納得いく。
「あら? けれど、雪芳お姉様はもうそんなことを言える身分なのかしら?」
本宮に麗らかな声が響いた。莉莉が振り返ると蝶鈴が入ってきていた。
「お姉様は今や虚飾の姫。いわば、無頼ですわ」
「それはお前も同じだろう」
「いいえ! わたくしは蒼嬰様の侍女になりました」
蝶鈴は、どん、と音が出そうなほどに胸を張った。
言われてみれば、蝶鈴は侍女の模倣でもしているのか、いつもの派手な漢服ではなく、素朴な侍女用の服を着ていた。
これは事実か、と蒼嬰に確かめるように目を向けた。
「……やりたいと申し出たから、自由にしろと言っただけだ」
蒼嬰は面倒そうに口を曲げた。蝶鈴は王座にすり寄ると、蒼嬰に恍惚の笑みを浮かべる。
「働いてもいない今の雪芳お姉様は〝侍女以下〟なのですわ! 身の程をわきまえてくださいまし!」
全員が虚言だろう、と驚いた顔で蝶鈴を見た。莉莉は呆れたあまりに言葉を失った。
当の本人はどうだと言わんばかりに、ふん、と息を鳴らした。
莉莉は恐る恐る、雪芳の様子を窺う。だが、莉莉は雪芳を見て驚く。
雪芳は忿怒ではなく、両眉を下げて大きく目を潤ませた。俯いて身体を震わせると、心から傷ついたような失笑をした。
「……そうだな。蝶鈴の言うとおりだ。蒼嬰王、失礼した」
雪芳は肩を落として、真っ直ぐに背を向ける。それでもまだ、敏捷とした歩き方で本宮を出て行った。蝶鈴は変わらず王座にべったりとしていて、蒼嬰は関心なさそうに林檎を囓っている。
莉莉は漢服の裾を持って、雪芳へ走って行った。
「雪芳お姉様! 待ってください!」
息を切らしながら、莉莉は去る雪芳に追いつく。雪芳は莉莉に気がつくと、失った表情のままで振り返った。
「蝶鈴お姉様ったら、何てことを! 信じられません! 前に、蝶鈴お姉様を宮から追放する話があったの。私は不憫だと思ってやめさせたけれど、そうするべきではなかったと、たった今、後悔いたしました! あのような豪胆さがあれば、下界でも生きていけたでしょうからね!」
莉莉は久しぶりに人に対してこんなに憤慨した。今までたくさん、誰かに傷つけられたが、不思議と自分がされると、どうしようもない無力があって、何の気持ちも湧かなかった。
だが、自分が大切な人が侮辱されると、こんなにも怒気に満ちるのかと感じた。
雪芳は、またあの寂しそうな笑みを浮かべて、莉莉の肩にそっと手を置いた。
「……ありがとう。莉莉。憂慮してくれて。しかしな、蝶鈴も一理あると今さらながら思った。そう。私はもう王にはなれない。もはや宮内で何の権力もない。日が浅いから、自分にもまだ権限があると少し誤認をしていた」
「そんな、雪芳お姉様! そこまで自分を卑下なさらないでください! 雪芳お姉様だったら、今までの功績からして多少の発議は許されるはずです! 許されないのなら、私から蒼嬰お兄様にお頼みします!」
「……莉莉。今までお前には厳しいことを言わないと決めていた。ずっと療養中であったからな。だが、今だけ言わせてもらう。そろそろ、自分の身分を知りなさい」
莉莉は心の内で「えっ」と呟いた。
「莉莉の体に流れているグスタフ族の血は龍水宮にて最高位に値する。蒼嬰殿が王になったからには、私など、もはや、ただの庶民と同等だ」
「……でも、そんな、そんなのって……」
雪芳は莉莉を家族ではなく、まるで違う種族のような言い方をする。今まで実の姉みたいに頼りがあって、互いに信用してくれていたのに。
莉莉が失望して下を向いていると、突然、びりっと何かが破けた音がした。さっき花を荒らしていた鰐の嬰児が、いつの間にか足元に現れた。雪芳の漢服の裾を口で引っ張っている。服の柄を本物の花と誤認しているようだ。
「雪芳お姉様になんてことを! こら! やめなさい! それはお花ではないわ!」
莉莉は血の気が引いていくのを感じながら、急いで鰐を持ち上げた。母親のように抱きかかえると、鰐は悪戯が成功した子のように、莉莉にぐわっと鳴いた。
莉莉は困りながら息を吐いて、はっと顔を上げる。
当たり前のように誰もが怖がる鰐に触れて、扱い慣れている様を雪芳に熟視されていた。つい孤島にいた頃の、莉莉の野生な気性が出た。
「早速、懐かれているのだな。これも、グスタフ族の賜物だろうかね」
雪芳は再び一族の話題を出して、また、あの切ない笑みを向けた。お前には自分にないものがあって、皆とは違うと自覚を持ちなさい、とでも言いたげに。
せっかく美しい漢服の裾が破けたままで雪芳は去って行った。莉莉は、もう雪芳を追えなかった。
「……こんな宮なんか、滅んじゃえ」
莉莉は幼稚っぽいと分かっていながらも、児童の如くその場に蹲った。両目に溜めた涓滴が落ちないように、腕の中にいる鰐をぎゅっと抱きしめる。鰐は自分が元凶とは一片にも感じず、天真に歯を見せていた。




