一
火花宮の桐香姫が、龍水宮に来ると知らされたのは、蒼嬰が王となって七日ほど経った頃だった。
来る、といっても観光が意向ではない。桐香は質子となった。
蒼嬰が桐香の父である王を倒してから、火花宮ではとんでもない事変が起きていた。宮の人間が、次々と不審死をした。
遺体にはすべて、両足、胴体、頭などを身体の一部を切断されて発見されている。風聞によれば、遺体は、まるで獣に喰われたように損壊されているそうだ。
連続殺人事件なのか、奇妙な怪異なのか。火花宮の王が倒れて、一年が経とうとしているのに、子細が判明しなかった。
火花宮に古くからいる老人たちは、これは天罰であると、こぞって言った。聖なるグスタフ族の蒼嬰に、王が手を出そうとしたから、神が怒っている、と。
グスタフ族の人間に危害を加えたら、罰せられる? 莉莉はグスタフ族にそんな力はないと思っている。
「だって、それなら龍水宮は、とっくに滅亡しているはずだもの」
莉莉の呟きに、自室に疏食を持ってきた魅音が振り向いた。
「……? 何か仰いました?」
「なんでもないわ」
「はあ。ところで、援助は無用なのですか?」
魅音は頬に手を当てて首を傾げた。
「私って物が少ないの。衣装は宮に預けているし、あるとしても、書物ぐらいだわ」
莉莉は五年を過ごした離宮の部屋を見渡した。あらかたの荷物が整理されているが、元々閑散としていたからか、そんなに変わりはない。
莉莉は、離宮を出て行く。蒼嬰王の異父妹であると発覚した今、莉莉は本宮に住む。
逆に、雪芳と蝶鈴は本宮を出て、離宮に移る。明白であったが、それが王族なのだから、しょうがない。
蝶鈴はどうでもいいが、雪芳が哀憐であった。本来なら莉莉の務めであるのを、隠遁などと言い訳して、雪芳に全てを任してきた。雪芳の働きぶりは莉莉ではなく、宮内全体が分かっているだろう。
蒼嬰もわざわざ本宮を出ることはないと、雪芳に伝えたそうだ。だが、ここで一度、崩壊した慣習を、今はっきりするべきだ、と雪芳が望んだ。
雪芳は、どこまでも真誠で剛気な姫であった。
「……魅音。貴女、少し痩せた?」
雪芳といえば、と莉莉は魅音に目を向けた。
児童の頃から共にあって、誰よりも雪芳を支えてきたであろう魅音だ。気にしすぎか、魅音はどこか元気がない。ふっくらしていた頬も、凹んでいる気がする。
「そうでしょうか? ふふ、私は太り気味だから、だったら、ちょうどいいくらいですわ」
「やっぱり、蒼嬰お兄様のこと、承知できない? しょうがないよね。私、雪芳お姉様だけじゃなくて、魅音に恨まれたって適当よ」
「……莉莉様は、お優しいのですね」
俯いている莉莉に、魅音がそっと隣に座った。いつものにっこりとした微笑みを浮かべながら、年下の莉莉の頭を撫でた。
「……私は優しくないわ。自己卑下が強いだけ。だから、何もかもが悪に見えるの」
「人が、信じられなくなってしまったのですね。分かりますわ。そういった心情になる時は、誰にでもあります」
「魅音にも、そんな時があるの?」
「ふふ、ありますよ! でも、それが人の心、といったものですわ」
魅音は自分を何だと思っているのだ、という風に大きく笑った。
「それに、私はこう見えても嫉妬深いんですの。とくに、好きな人には、ね?」
魅音は悪戯っぽく片目を瞑った。莉莉は、へえ、意外だと思いながら魅音を見つめていた時だ。部屋の外から魅音を呼ぶ声がした。
「何でしょう? ちょっとお待ちくださいませ」
魅音が房室から出て対応していた。戻ってくると魅音は手を合わせて頭を下げた。
「莉莉様、すみません。どうやら雪芳様がお呼びだそうで……」
「気にしないで、行ってきて。見に来てくれて、ありがとう」
忙しそうに去って行く魅音に、莉莉は微笑みながら手を振った。ふう、と息を吐いて再度、整理を始める。
コン、と窓から音がした。コンコン、と何度も鳴って、だんだんと大きくなっていく。莉莉は窓を見て、「あっ」と声が出た。
窓には覚えのある顔が映っていた。外から蒼嬰が窓を軽く叩いていた。
莉莉が窓を開けると、蒼嬰は少年のようにニッと笑った。依然として軽い身のこなしで、窓から房室に入ってきた。
「よう。身体は、どうだ?」
「まずまず、かな。……それより、蒼嬰お兄様はもう龍水宮の王なんだから、変わらずこんなことをしちゃいけないわ」
「そう言いたいところなんだが、悪い。今、追われているんだよ」
「誰に?」
と莉莉が聞いた刹那、蒼嬰が焦った顔をした。莉莉の唇に食指を当てると、静かにするように眼色で指示する。
「蒼嬰様! 蒼嬰様ぁ! ねえ、こちらに蒼嬰様を見かけまして?!」
廊下から耳がキンキンとする高い声がした。
蝶鈴の細い体からするとは思えない足音が大げさに響いた。どうやら蒼嬰を探して宮内を歩き回っているようだ。
「……なに? 蝶鈴お姉様に気に入られているの?」
「らしい。どうしてか分からんが、顔を合わせれば一日中くっついてくる」
「従姉だから、婚姻を狙っているんだわ。蝶鈴お姉様、見た目とか、人からどういう身分で見られているかとか、とても気にするから、少しでも位を上げようって懸命なのよ。離宮に移るのも自尊心が許さないかも」
「随分と口が回るんだな。……そうか。前に蝶鈴の宦官の遺体が上がった時、莉莉と揉めていたと言っていた。でも、自分は宦官を殺していないって、泣いて懇願していたな。そんなに仲が悪いなら、宮から追放させるか?」
「追放って……蝶鈴お姉様を?!」
「俺も付き纏われると迷惑だからな。莉莉が望んでいるなら適当ではないか?」
莉莉は思わず昏惑した。蒼嬰は、もうこの宮の王なのだ。やろうとすれば蝶鈴の追放をできる。そしたら、もう蝶鈴に苛虐されないし、打擲もされない。
──ざまあみろ、今まで自分を傷つけたせいだ。
果たしてそんな風に思えるのか?
莉莉は首を横に振った。どうしてか、蝶鈴が斬首にあった姿が頭に浮かんだ。
「……でも、そしたら蝶鈴お姉様に行く場所がないわ。きっとあんな豪奢な生活していたら庶民には戻れないだろうし、それに……きっと元々の性格がああなんじゃないと思う。生活と親の育成が悪かったんだわ」
「なるほど。莉莉は性善説を信じているんだな」
「孟子のでしょう? そうよ。皆が皆、嬰児の時から悪の心があるとは考えられないもの。どうして? おかしい?」
「いいや。でも、俺は逆だな。この世の人はすべて悪人であるのを基本条件とする」
蒼嬰は窓に腰掛けると、考え込んだように顎を擦った。
そうか、と莉莉は別に蒼嬰を拒絶するわけでもなく承知した。だから火花宮の王とも、畏怖せずに戦えて勝てたのだろう。
莉莉は先日、蒼嬰が王座の前で梟首にした光景を想見していた。どこか蒼嬰に理想を抱いていたのか、あの時、少し失望しそうな自分がいた。だが、同時に自分がよほど甘く生きてきたのを見せつけられもした。
同じく態度を正そうとした衆民がたくさんいただろう。自分たちが如何に平和の沼に浸かっていたのか。
「……あ、ところで……桐香姫が質子になったと聞いたわ。いつ龍水宮にいらっしゃるのかしら」
「二、三日くらいで来られるそうだ」
「でも、桐香姫も哀憐だわ。王の娘というだけで質子になるなんて」
「おそらく、名の通り〝牺〟にされたんだろうな」
「どういうこと?」
莉莉は蒼嬰の腕を引っ張る。臥榻に連れて行って隣に座るように促した。
蒼嬰は臥榻に腰をかけると、両手を組み合わせて青眼が強くなった。
「以前は火花宮に住んでいたが、あそこは人口が老年化している。要するに少し古風なところがあるのさ。慣習を大事にし、老人の声が大きい。本人は自分の意向だと叙述しているが、龍水宮に奉公し、災難を祓えと裏で命じられていると踏んでいるがね」
「でも、桐香姫はそういった篤実な人なのかもしれないわ。姫のお父様の件といい、実の親にあそこまでさせるなんてと思ったし、私と年齢が近いと聞いたけれど、とても同年とは考えられないわ。何だか、早く会ってみたい」
莉莉は五年前に、桐香が孤島に会いに来てくれたのを忘れていない。幽閉されている莉莉をいち早く怪しんで、児童でありながら浩然に抗議をしにいった。あの頃から、聡明な姫だと評価されていたが、話を聞く限り、あのまま順潮に育ったのだろう。
言ってしまえば敵対、まさかの質子として再会するが、お礼だけでも言えたらいい、と莉莉は考えていた。
「……莉莉」
なんて莉莉が思索していると、蒼嬰が名を呟いた。莉莉が顔を上げると突然、両肩を掴まれ、蒼嬰がぎゅっと抱きしめてきた。わっ、と莉莉の心臓が純な声を出した。
「お前は、皆が皆、悪の心があるわけないといったな。それは俺でも同じか?」
莉莉は胸の音がどくどくと鳴りながら、首を傾げる。
「蒼嬰お兄様が悪い人かも、っていいたいの? そんなわけないわ。だって、私を助けてくれたもの」
「俺と血が繋がっていると聞いて、兄だと分かって、いやだったか?」
「どうして今さら、答えが分かっているような質問を……」
莉莉は蒼嬰が何をそこまで不安がっているのかが、理解できなかった。莉莉は蒼嬰を容受したが、蒼嬰はまだ莉莉に受け入れられていないと感じているのだろうか。
「……やっと、家族になれたんだ。どんなことがあっても、俺を見放したりしないよな?」
蒼嬰は暗く問うと、莉莉を抱きしめる力が強くなった。絶待に離さないとでも言いたいように近接した。莉莉はますます昏惑する。すぐに二つ返事できなかった自分がいた。
どんなこと、とは? 子細が不明だが、家族ならそれをも許容するのが家族なのではないのか? 分からない、分からないよ……だって、莉莉に家族がいた過去はないのだから。
莉莉は何も言えなくなった。蒼嬰に応えるように、そっと手を背面に回すしかなかった。




