八
離宮を出ると差し込んでくる春の晴れた陽光が、莉莉をさらに憂鬱にさせた。太陽がまるで暗く淀んだ莉莉を、なぜそんな煌びやかな恰好をしているのに、輝こうとしないのだ? 自信を持たないのだ? と責めているようだ。
そう考えると、浩然に傷つけられる前の自分は何処にいった? 草原や水辺で虫を捕り、自然とはしゃぎ回っていた無垢な姿には、もう戻れないのか?
長い歳月の隠遁は、ここまで人を無力にさせるのか、と絶望する。そういったって深く刻まれた傷はどうやって治せばいい? どんな薬を飲み続けても、悲しみが続くし、愛した人は忘れられない。
中央の弘大な区域に行くと、たくさんの人々が集まっていた。こんなに宮内の人が集合した風景は初めて見た。紗巾を深く被っているからか、誰も莉莉だとは気づいていないようだが、人とすれ違う度に心臓が鳴る。誰かがこちらを見て、対話していると、自分の話をしているのではないか、と不安になる。
広場で響いた、きゃあ、と叫んだ女の高い声に莉莉はびくりと全身を震わせた。
振り返ると、いつの間にか群衆ができていた。何をそんなに騒いでいるんだろう、と莉莉はちらりと顔を出した。
「孤島で遺体が発見されたんですって。龍水宮の宦官らしいわ」
「私、見ちゃった。なに? あの、まるで獣に喰われたような遺体は? 気持ち悪いわ」
「飛び降り自殺って聞いたけれど、何があったのかしら……」
莉莉は人を避けながら対話に耳をそばだてていた。
はあ、と息を切らせて、何故か紗巾の下は汗でびっしょりになりながら、群衆の先鋒に着いた。
目の前で、宦官たちが戸板に男の遺体を運んでいた。顔が見えて莉莉は、ひゅっと息を呑んだ。遺体は、昨夜に莉莉を襲った宦官だった。
宦官は驚いた顔のまま、目を見開いて死んでいた。
ふわり、と微風で遺体の上に被せられていた布が剥がれた。再び、きゃあ! と悲鳴が上がった。
宦官の躯幹は殆どくっついておらず、手足が欠けていたりした。腹が大きく引き裂かれ、内臓がはみ出ている。
ひどい遺体損壊だ。これで、自害? 誰もがそう思っただろう。
「道を開けてください! この方は本宮へ運んでいきます! 雪芳様からのお達しです!」
「止まらないで! 止まらないでください!」
戸板を運んでいる宦官は、急いで隠すように遺体に布を被せた。宦官たちの懸命な忠告に、さすがの周りも本宮への道を作ってあげた。
何人か自ら手伝いを申し出て、観覧者を退散させていた。
莉莉はそんな光景も目の端でしか追えないほど、頭がくらくらとしていた。日の光の下、眼界が暗黒になっていき、呼吸が浅くなっていく。
昨日の今日で、何故? いつ、死んだのだ? まさか、と莉莉は胸に矢を刺されたように鼓動が鳴る。
私が疑われる? そしたら、昨夜あった騒動を、他人前ですべて話さなければならない。
莉莉は、いつからか息を止めていたのか、もはや自分で分からなく、ふらりと身体が傾いた。
「……先ほどから顔色が悪いですが、無事ですか?」
後ろで男の低い声が耳元で喋った。莉莉の背に先兆を感じて、倒れかけていた両肩をそっと支えられていた。
莉莉は首を横に振った。
もう誰も信用できないのに、誰でもいいから、助けてほしかった。
「もし、倒れそうなら、そのまま身体をこちらに預けて。此処は人が多い。樹蔭に連れて行きます」
莉莉が懸命に頷いたのを見て、男はしっかりと両肩を掴んだ。莉莉に力を抜けさせるように、男の胸元に身体を寄せられて、雑沓を排斥して進んでいく。
莉莉が足だけを動かして、目を閉じている間、いつの間にか中央区域を抜けていた。池のある人の萌兆のない庭院の木々の前にいた。
男は「失礼」と言いながら莉莉を樹陰の下に寝かせると、紗巾を取った。顔に一気に風が当たり、海に上がったかのようにやっと息ができるようになった。ひゅう、ひゅう、と咽喉が詰まった呼吸をしていると、しばらく間があいたから、助けてくれた男は莉莉を休ませて、何処かに行ってしまったと思った。
だが、また足音が聞こえると、莉莉の顎に指先が触れた。
「水です。お飲みください。おそらく暑さと人だかりによる脳貧血でしょう。命にかかわるものではないだろうから、安心してください」
男は持っていた皮革の水盂を莉莉に口づけた。水盂に入っている冷たい水が喉元を流れていく。自分の分なんていい、とでも言うように一気に空になるまで飲まされた。
「それと、紗巾を濡らしてきました。……香粉を少し落としてもいいでしょうか? もしかすると、鉛中毒になっているかもしれません。白粉が重いと咸興麻痺になることがあります。不断から粧飾をしている女性なら、だんだんと慣れるものですが、貴女のような方だと、と思ったわけです」
「……私、だと、なるって? どういうこと?」
「貴女は離宮に住んでいる、莉莉姫であろう」
莉莉は驚愕して飛び上がった。左手で男の右腕を掴んだ。だが、ある事に気がついて、莉莉は無言になった。
──右腕が、ない。腕があるであろうところを、上下に手を動かしても、何もない。
莉莉は俯いていた目をゆっくりと上げる。
間近にある男は、笠を被っていて、よく顔が見えない。莉莉は何故か、嫌な予見のような、なにかを感じて男がどんな者なのか知りたかった。
だから震える手で、男の笠を取ろうとした刹那。男は拒絶して、莉莉の手首を瞬時に掴んだ。
「……いきなり起き上がると、炫目がしますよ。まだ、横になっていてください」
男は莉莉をそっと押し倒すと、また樹蔭の下に寝かせた。
莉莉はされるがままに、男に香粉を落としてもらった。濡れた紗巾が、目元から首筋に拭かれていく。少し呼吸が楽になった気がした時。
「──……莉莉様! 莉莉様ぁ! 何処にいらっしゃいますか?!」
遠くから莉莉を呼ぶ高い声がした。魅音だ。
莉莉はふと思いながら、目をこらすと、魅音がきょろきょろと辺りを見渡しているのが分かった。男は焦ったように紗巾を落とし、その場から立ち上がった。
「……では。これで。……どうぞ、お大事に」
男は体勢よく歩き去って行く。莉莉はお礼を言おうと「待って!」と声をかけた。
だが、起き上がった頃には、すでに男は姿を消していた。
「莉莉様! 良かった、はあ、見つけた……少し目を離した隙に、宮を出て行っていたから、気が気じゃなかったですよ! 雪芳様に何て言われるか、ああ恐ろしい!」
魅音が樹蔭にいた莉莉に駆け寄ってきた。頬を膨らませている魅音の声も、まともに耳に入らないまま、莉莉は男の目を追っていた。
「……ね、ねえ! あの人が、誰だか分かる?! 私を助けてくれたのよ」
「……え? 今、いらした方ですか? もう、何処か行ってしまったようですが……あの服は……」
「なに? 知っている手がかりを教えて!」
「あの深紅の漢服は確か、フオ族の火花宮の方ですよ。でも、おかしいですわ……今日は来賓者を受け入れていないはずです。だから、見間違えかもしれません」
魅音は曖昧な言い方をしながら、首を傾げた。莉莉は悔いるように手元を探った。すると、指先に何か引っかかった。
莉莉が拾い上げると、それは小さな頸錬だった。
飾りには、赤銅色の竜が彫られている。莉莉も見たことある象徴だ。それはフオ族が火花宮で祀っている〝飛竜〟だった。




