七
翌朝。身体が重くて動かすのにしばらくかかった。目を擦ると塩でもかけたように痒くて痛い。
昨夜の騒動は、すべて夢だったのではないか。一瞬、思うほど頭がふわふわしていただが、床に散らばっている英華の一束が、そうではないと証明していた。
莉莉は臥榻から降りて、萎れてしまった花を拾い上げた。曲がった茎を整えて、せめてもと花瓶に入れた。
花瓶に映る自分の顔は、げっそりとしていた。服をずらして、肩を観察すると、傷は形跡なく消えていた。
──現実だ。すべて、向き合わなければ。
とんとん、と扉を叩く静かな音がした。莉莉はそれだけなのに、過剰に両肩が上がった。
「……だ、誰?!」
思わず高調な声で返答した。
昨日の今日で、扉の尋ねる音だけで怖かった。莉莉は咄嗟に自分を守るように臥榻に入って被套をかぶった。怯える小動物のように身体が震えきった。
「おはようございます、莉莉様。雪芳様の侍女、魅音でございます。身体は如何でしょうか? 朝食とお薬を持ってきました」
どう聞いても女の穏やかな声だった。それに、魅音という名も聞いた記憶がある。雪芳が一番に信用を置いている侍女頭だと噂だ。雪芳と児童の頃からの明友で、宮内で共に育ったらしい。
莉莉は被套に包まりながら、小声で「……どうぞ」と呟いた。すると一拍置いて、扉が開かれた。
魅音は声の想像通りの容貌をしていた。純白の漢服に少しふっくらとした体と頬。くせ毛を三つ編みにして、母性のある笑みを浮かべて入ってきた。動作が鷹揚としていて、物音ひとつ立てずに御膳を卓の上に置いた。
「朝食の前にお薬を飲めますか? 白湯と一緒に飲んでくださいませ」
魅音は笑貌のまま、薬湯が入っている腕と白湯を、莉莉に渡した。
莉莉はこくりと頷いて、被套を剥がした。片手を伸ばして白湯を取り、薬湯と共に一気飲み込んだ。口内に苦味が広がる。莉莉はべ、と舌を出すと、魅音は微笑した。
「ふふ、それで身体も、じきに良くなると思いますよ。白桃があるので、お口直しに剥いてあげますね」
魅音は予め御膳の上に置いてあった柳刃を取って、白桃の皮を剥いていた。慣れた手つきで切りながら、ふと莉莉の部屋の花瓶に目を向けた。
「まあ、美しいお花ですね……あれ、でもこれ……山玉蘭だわ」
「……山玉蘭? 優曇華のこと?」
「ええ。幻の花と言われていて、三千年に一度、咲くなんて軼事もあるんですよ。でも、この辺りで取れるのは孤島でのみと聞きましたわ。それに……」
「……それに?」
「……いや、何でも……」
「なに? 教えて。それ、貰い物なのよ」
莉莉は魅音が切り分けてくれた白桃を手に取ると、口にした。じゅわ、と白桃の甘みが舌に広がって美味だった。喉につっかえていたような薬湯の苦さが緩和されていく。
もぐもぐと食べながら、莉莉は黙りこくっている魅音を睨んだ。見られているのに気がついたのか、はっとした魅音は憫笑しながら口を開いた。
「孤島の花の山玉蘭は……別名、〝死の花〟と言われていますわ。山玉蘭を見た者は……死ぬと。私の小さい時は、そんな祆怪の談議が言い伝えられていました」
莉莉は咀嚼しながら、間があいて、ふ、と鼻で笑った。
「実際に孤島の最奥の森でしか採取できなくて、そこはグスタフ族の生まれ地だから……辿り着いた人がただでは帰れなかった、といった話が由来らしいですよ」
「……グスタフの森って、湖の奥にあったりする?」
「さあ……地域までは私も……」
魅音は頬に手を当てて、首を傾げた。
「死、ねえ……」
魅音は年相応に噂話が好きそうだから言わない。だが、内心、愚鈍らしいと思った。花瓶に挿している山玉蘭の花から香りが漂う。そんな不吉とは程遠そうな果実のような甘い匂いがした。
「……あっ! いやだ、私ったら。のんびりしていて、大事な話を忘れていましたわ。莉莉様。食べて少しお休みになられたら、本宮にお越しください。雪芳様から貴重なお話があって、宮内の者が全員お集まりになります」
魅音は瞠目して両手を合わせた。実に魯鈍な侍女頭だな、と思いながら、莉莉は口を曲げた。
「……私は、いいわ。失礼する」
「まあ、どうして?」
「……この顔、見たらわかるでしょ? 隈もあるし、肌もカサカサだし……まるで老婆だわ」
「莉莉様は肌が白いから、粧飾すればしっかり隠せますよ。衣裳準備もお世話いたしますから」
魅音は気分良さそうに朗詠しながら、莉莉の服を準備し始めた。
朝食で満腹になりながら、莉莉はふうと吐息した。魅音は敢えて明るい態度だが、雪芳が自ら莉莉へ送り込むとは。雪芳の呼び出しは相当に重要と思える。
久々に他人前で粧飾して、姫として交際美辞しなければならないと考えると、莉莉は憂鬱でしかなかった。
莉莉は渋々としながら、魅音や何人かの婢に囲まれて準備をした。
鏡台の前で黙って座っているだけで、裸にされ、髪を櫛で梳かれ、上等な漢服を身にまとった。
目元から首筋にかけて、香粉を塗られていくと、肌がずっしりと重くなる。紅を頬と唇につけて、おさえ紙を自分で噛んだ。鏡で自分の口紅の情態を確かめながら、顔を見る。
髪を結われてきらきらと輝く簪を挿されている自分は、常にこうしていると本物の姫のようだ。幽霊のような容貌だった莉莉は、高価な粧飾のおかげで魅音の言うとおり全てをうまく隠せている。
「まあ、莉莉様。とってもお美しいですわ」
「莉莉様は、お花のような退紅が映えてうらやましいです」
どんどん組み立てられていく人形のように完成される莉莉に、周りの婢が浮躁し始めた。元気のない莉莉を励まそうと、気を遣っているのもあるが、滅多に見られない姫の粧飾姿を間近で見られて嬉しいのだろう。
一番気合いを入れていたであろう魅音が、腕まくりをして一仕事を終えたように額の汗を拭った。魅音は莉莉の両肩をどん、と叩いた。
「さあ! 莉莉様、暗い顔をしている暇は、ありませんよ! そんな顔じゃ、せっかく綺麗なお洋服が泣いております」
「……紗巾が欲しいわ。顔を隠したいの。なるべく人に見られないように」
莉莉は沈んだ声で呟いた。これには魅音と婢たちも顔を見合わせて驚いていた。中の若い婢が「莉莉様なら憂慮しなくても十分に可憐ですのに!」と声を上げた。
が、さすがに周りが厳正に注意した。
そりゃあ、莉莉だって美しくなるのは好きだ。好きだった。元々、浩然に児童の時から姫扱いをされ、綺麗になるのに力を注がれた。だが、それが莉莉に数々の不幸を呼んだ。
自分だって年相応の女たちのように可憐になるのを喜びたい。でも、今の莉莉にとっては、贅沢であろうが、どんどん女らしくなっていく自分が怖かった。
莉莉は婢の一人が渡した紗巾を受け取ると、頭からすっぽりと被って、さっさと部屋を出た。




