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六

 扉を叩く音が聞こえて莉莉は目が覚めた。臥榻から起き上がり、重い瞼を擦る。ふと窓を見ると外は月も見えないほど真っ暗な夜中だった。


 しまった。晩餐も貰わずに熟睡していたのか。


 確か眠りについた時は婢たちが支度をしていた。腹を押さえると今更になって、身体が不平を言うようにぐう、と鳴る。同時に扉が再びどんどん、と叩かれた。


 そういえば、この音で自分は起きたのだった。


 しかし、こんな夜中にいったい誰が? 侍女や婢たちはもう就寝している時だ。


 まさか、と莉莉は飛び上がる。蒼嬰が来てくれたのか? 莉莉はそんな想像をして、咄嗟に扉を開けた。笑貌で迎えたが、莉莉は一瞬にして表情は消える。


「……莉莉様。こんな夜遅くに、申し訳ありませぬ」


 扉の前には、素朴な顔をした男、宦官が立っていた。莉莉は、そのままぼうっとして宦官を熟視しながら首を傾げた。


 誰だ? 全く顔に見に覚えがない。


「私を覚えていらっしゃいますか?」


 まるで記憶がないが、莉莉は、その言語で思い出した。今朝方、蝶鈴に就いていた宦官だ。挨拶をしたあと、蝶鈴の暴行から助けようとしてくれた。


「私は本日付で蝶鈴様から追放となりました。最後に莉莉様にお礼を申し上げたくて……、晩餐はお召しになられましたか? この宮の下女に聞いたら、莉莉様は疲れていそうだったから出さなかったと。それを聞いて、こっそり疏食を持ってきたのです」


 宦官の両手に持っているのは、いつもより量は少ないが、晩餐の御膳だった。有り難いが、莉莉は不審に思った。


 莉莉の離宮には、雪芳が行ったとおり宦官も入るのは許されない。確か、宮の前には門衛がいるはずだ。宦官だから宮内に紹介できる人物でもいたのか。何はともあれ、そこまでして莉莉を尋ねようと思う執念がぞっとする。


「……無礼なのは承知です。どうか、私の最後の願いを聞いてくださいませんか?」


 宦官は深々と頭を下げた。こんな態度だとおそらく、今朝方の件で蝶鈴に強引に追放されたのだろう。


 そう考えると莉莉は哀憐(あいれん)に思った。懸命に尽くしたのに、結局は蝶鈴の酔狂で傲慢に辞めさせられたのだ。


「入ってどうぞ……」


 莉莉は冷淡な声で宦官を部屋に招き入れた。宦官が卓の上に御膳を置くのを横目で見ながら、風を入れようと窓を開けた。ひゅうと、背後で吹く微風(そよかぜ)を感じながら、莉莉は臥榻に座った。


 莉莉は卓に置かれた疏食を黙って口にした。腹が空いていたからか、せっせと食していく。その間、莉莉は喋る気もないのに、宦官は両手を後ろに結びながら無口でいる。莉莉の食べている姿を、ずっと観察していた。


「……何の用なのでしょうか?」


 結局、食べ終わるまで一言も話さない宦官に、莉莉は焦心した。用がないなら帰ってほしい。ただ、そう思う。


「……莉莉様。以前から私は──貴女をお慕いしておりました」


「……は?」


「莉莉様はこの国で、いや、この世で一番の美しい婦人だ」


 宦官は静かに告白した。反対に莉莉は宦官の言動を急に納得した。


そういうことか。宮を追放される前に想いだけでも、どうしても伝えたかった、と。


 言葉だけは、蟷螂と同じであるのに──、一切、嬉しくない。吃驚するほど何も感じない。冷たいかもしれないが、しょうがないだろう。女は誰でも関心のない男には、こんなものだ。


「ひとつ、よろしいですか? 私の宮にはどうやって入ってきたの? 門衛がいらっしゃったでしょう?」


「……気絶、させました。こう言ったって、入れてくれるとは思わなかったので」


「やっぱり。なんてことを。雪芳お姉様の頭痛の種を増やしてどうするの? 知っているでしょう、お姉様の私への過当な保護さを」


「でも雪芳は、所詮シュイ族の王にもなれない、たかが女だ。莉莉様のようなグスタフ族ではない」


 宦官の突然の見下した言いように、莉莉は驚くと同時に呆れる。


 なるほど。ずっとそう考えて蝶鈴にも嫌々と仕えていたわけか。蝶鈴がそこまで分かっていたほど聡明とは思えないが、この宦官を罰したのも運が良かった。


「あなたが一番、分かっていたとは思うけれど、残念ながら気持ちにはお答えできないわ。この件は代わりに私が雪芳お姉様にお伝えしとくから、罰せられる前に今すぐ帰ってちょうだい」


 莉莉は毅然として告げながら、扉を開けようと立ち上がった。


 その刹那だった。莉莉は頬を軽く打たれ、臥榻に倒れた。莉莉が痛みで押さえていると、宦官が上に乗っかってきた。


 声を上げる前に首を絞められて、肩を思いっきり噛みつかれた。


「──はあ、これで、もう逃げられぬ! 女が宦官に噛まれた跡は、関係の証です! これを宮に伝えれば、貴女は私と婚姻しなければならぬ!」


 宦官は顔を赤くしながら、憤激して汗をかいていた。口端に莉莉の肩の皮膚を破った血を溢しながら、狂っていた。


 この人は末期だ。早く助けを呼ばなければ。叫んで人を呼べばいい。なのに、声がまるで出ない。


 眼界がぼやけて、どうしてか宦官の顔が、浩然に見えてくる。


『お前は愚鈍で魯鈍で傲慢なのだ!』浩然の哄笑(こうしょう)の幻影が現れる


 目の前が真っ暗になっている中、がつん、と鈍い音が部屋に響いた。はっと我に返ると、どうしてか宦官が床に倒れていた。莉莉が起き上がると、窓から旋風が吹いた。


 蒼嬰がひゅるっと猿のような身のこなしで窓から侵入してきた。床には宦官の頭に飛んだ拳ほどの大きさの石が転がっている。


 宦官が頭を押さえて立ち上がったと同時に、蒼嬰が華麗に回し蹴りをした。


 蒼嬰の蹴りは宦官の頬に当たり、再び倒れた。床に二、三本、白い塊が落ちた。宦官の歯だった。


「お、お許しを……」


 宦官は血が溢れ出る口を押さえながら、敏捷(びんしょう)に走って逃げた。蒼嬰の大きな舌打ちが鳴る。


「くそ、逃げやがったか。謝って許されたら、神は要らねぇんだよ」


「蒼嬰お兄様……、どうして……?」


 莉莉はどうにか声を絞って問うた。


 蒼嬰は悔しそうに握り拳を作り、床に落ちていた宦官の歯を踏んで粉々にした。ふ、と莉莉を横目で見遣ると、近づかないように背を向けた。


「眠れんから、散策でもしていたのさ。莉莉は何しているかな、誘いを断って悪かったな、なんて考えて。そしたら、お前の離宮の前で門衛が倒れていた。何かあったのか、と房室を窓から覗いてみたら、これさ」


 蒼嬰はわざとらしく肩を竦めた。すると、蒼嬰の手からひらりと何かが落ちた。色とりどりの宮の花だった。


「とりあえず、これだけ置いてお暇するぜ。直ぐにこの事を雪芳に伝えてくる」


 どうも、さっきから蒼嬰は冷淡だが、優しい。襲われた莉莉が怯えないように、なるべく二人きりになるのを避けている。蒼嬰が片手を振って去ろうとした時。


「──行かないで! 蒼嬰お兄様、行かないで!」


 莉莉は涙声で呟くと、出て行こうとする蒼嬰に後ろから抱きついた。その途端、一気にわあっと声を上げて泣いた。


 児童のように泣き始めた莉莉に、蒼嬰は振り返る。莉莉に謙遜して触れると、背中を擦った。


「……わかった。わかった、しばらくいる。でもな、今すぐ雪芳に報告しないと。あいつが宮から離れる前に、罰しなきゃならねえ!」


「いやだ! もういい! もう、なかったことにする!」


「どうしてだよ!」


「やだ、もう疲れた! 何度も、何度も同じことを、ああされた、こうされたって詳しく解説しなきゃならないの、どれだけ苦痛か、分からないでしょ!」


「だからって……屈服するのか!」


「……蒼嬰お兄様は、不思議な術を使えるでしょ? それで、肩の傷も消して! ね? 私は誰かに言ったりしない! だから、お願い……」


 莉莉は蒼嬰に縋るように叫んだ。


 一人で泣いていると、返答がなかった蒼嬰がそっと莉莉の肩に触れた。ふわりと身体が浮いたような温かさに包まれると、肩の傷は癒えていた。


 莉莉は身体の力が緩んで、蒼嬰の胸元に倒れ込んだ。


「……色々あって、疲れたんだよ。少し、横になれ」


 蒼嬰は莉莉を抱えると、臥榻に入れた。


 莉莉は涙で乾いた瞼を閉じながら、蒼嬰の手をしっかりと握った。母を求める子のように、その手を絶待に離そうとしなかった。


「──もう、さ。こんな宮を、世を、壊しちまおうぜ。俺たちは、いつまでも……人間の奴隷でいちゃ、いけない。俺が、この俺がやってみせると、誓うよ」


 眠りに入る直前に、莉莉の耳元で蒼嬰が囁いた。夢なのか現なのか分からない。でも、昔にもこんなことがあったような──、莉莉は、ふとそう思いながら、海に沈むように意識が途切れた。

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