五
夕日に照らされて龍水宮の本殿が深紅に色づく。渠水から流れる小川は艷紅に変化し、花々は一斉に燃えるように臙脂に染まっている。
龍水宮にはいくつもの絶景があった。天候によって真っ白な紙に描かれる絵のように変わる。
莉莉たちは馬で宮まで送ってもらい、門前に辿り着いた。前を歩いていた蒼嬰が下馬すると、日が沈む龍水宮の光景を熟視していた。
「蒼嬰お兄様! もし良かったら、夜は私の離宮で過ごさない?」
莉莉は雪芳に馬から降ろしてもらいながら、蒼嬰を誘った。一瞬、雪芳の片眉がひくりと歪んだ。
蒼嬰は莉莉を振り返りながら、晴れやかに笑う。
「お、いいな。美味いもんでも食いながら盛り上がろうぜ」
「待って頂きたい! 蒼嬰殿、莉莉の離宮に男子が踏み入るのは困る」
雪芳は莉莉を抱えるとそのまま、隠すように蒼嬰から遠ざけた。莉莉は眉を八の字に寄せて唇をきゅっと結んだ。
雪芳は賢い上に、どのような人々に優しい。妹の蝶鈴のように虐めてきたりしない。
莉莉は尽くしてくれる雪芳に感謝していたが、廉直であるが故、少し過当に保護すぎる面がある。
「安心しろよ。俺はあんたの親父みたいに、莉莉を襲ったりはしないぜ」
蒼嬰は嘲笑しながら言い放った。涼風がぴり、とヒリつくのが分かった。莉莉も、はっとして顔を上げる。
まさか、蒼嬰は叔父の浩然との間にあったことを、耳にしているのか? でも、門外漢である蒼嬰が、どうやって? それに、まるで神様が全て見てきたかのような言い方だ。
きっと宮にいる間に誰かが風聞していたのを聞いたり、雪芳がうっかり話したりしたのかもしれない。
もし後者だったら、漏泄したりしないと思っていた雪芳に不信を抱く。あの事件は、莉莉にとっても死んでも誰かに知られたくないのだから。
「なにせ龍水宮には元々、宦官しかおりませぬ。だのに稀少なグスタフ族でもある莉莉とどうにか関係を持てないかと計画する者もいた。そういった奴らを今まで追放してきたのは私の役務でもある」
雪芳は、あくまでも平静に話を続けた。
「莉莉は束縛だろうが、あんな事変もあったのだ。どうか私らの苦心も察してくれ」
ちらりと雪芳が莉莉を見遣りながら嘆いた。莉莉は雪芳の困っている顔に、申し訳ないと俯く。
そうだ。一応、同じ王族でありながら、自分は宮に隠遁し、全ての事を雪芳に任せきりだ。雪芳がどれだけ毎日、働き続けているか。人に頼っておいて、守ってもらいながら、傲慢を言うのは許されないだろう。
莉莉は黙ってその場を去ろうとした。いつもと同じだ。宮で〝存在しない姫〟として自分が引けばいい話なのだ。
「莉莉を犠牲にして縛り付けて、自分らの罪を隠したいんだろう?」
蒼嬰が背を向ける莉莉を見つめながら、ぼそりと呟いた。雪芳を含めた周りが、失言で、ざわっと沸いた。
「……なっ」
「当時は誰もこの子を守ろうとしなかったくせによ」
「……蒼嬰殿に、我々一族の何が分かると?」
「おっと、だいたいの想像で言ったんだが、どっか正鵠でもついたか?」
煽るのを楽しそうに蒼嬰は腕を組みながら、にやっと舌を出した。
誠実な雪芳は実の父親を侮辱されて、怒りで両肩を震わせる。莉莉は「しまった」と心の中で焦った。
まさか自分のちょっとした懇願で、こんな闘争のようになるとは思わなかった。莉莉は狼狽した頭で考えながら、声を張った。
「……もういい、帰る!」
自分が児童のように拗ねれば、周りの人たちはしょうがないと落ち着くだろう。半分は莉莉の真意でもあったが、あえて幼く演じた。
どうして、いつも、こんなふりをしなければ──。
莉莉は、下劣さを感じながら、ずっと俯きながら宮に戻っていた。
莉莉はそのまま何の情感も湧かずに房室に戻っていった。
入る時に少し報復のように扉の音を大きく閉めたが、誰にこの怒りを向ければいいのか、わからない。もはや涙も出てこずに、臥榻に飛び込んだ。横臥すると、今日一日の疲れがどっと出てきた。
瞼を閉じると、廊下で晩餐の準備をしている婢たちの笑い声が聞こえる。自分は此処で一番の姫であるのに、婢たちのほうが自分より笑っているし、幸せそうだ。なんて差別じみたことを考える。
なにがいけない? なにが足りない? どうやったら自分は幸せになれる?
みんな消えちゃえばいい、宮なんて滅べばいい? 一人で生きていけないのに、いいのか? でも時々、矛盾に思う。一人になりたいのに、誰かがいてほしい。
蟷螂、蟷螂──、会いたい、貴方に会いたい。
莉莉の隻眼から温潤な涙が蟀谷に落ちて、被套に染みていった。




