第66話 大輝くん♡
「大輝くん⋯⋯」
栞凛は、僕の胸に埋めていた顔を上げ、僕を見つめてきた。
「⋯⋯しお――」
『り』の音が僕の喉を通ろうとしなかった。最後まで、言うと、僕は混乱しまくってしまうだろう。
「『しお?』私、知らない。そんな子」
栞凛は、ニヤリと、口角を上げた。
⋯⋯求めないで。僕、おかしくなっちゃう、多分。
「ちゃんと、呼んでほしいな?」
「⋯⋯なんで」
蚊の鳴くような声で、僕は呟いた。栞凛には、しっかりと聞き取れていたらしい。
「⋯⋯だって、まだ、呼ばれたこと、ないんだもん」
栞凛はもう一度、僕の胸に顔を埋めた。――少量の涙をにじませながら。
未だに密着している僕と栞凛の隙間には、風すらも通れなさそうだった。
「し、栞凛⋯⋯」
僕は、そう言った途端、内側から激しく叩かれるような感触がした。
栞凛は顔を上げ、僕の耳元でこうささやいた。
「ふふっ、よく聞こえなかった。もう1回、お願い? そしたら、ご褒美、あげるから」
栞凛の吐息が、僕の鼓膜にまで届きそうなほど、近かった。
「もう、知らない」
僕は、機嫌が悪くなったふりをして、そっぽを向いた。
「ふふっ、ごめんね? だからさ、許して?」
少し笑いの混じったような声で、栞凛は言った。それも、すごく栞凛らしかった。
「しょうがない。今回だけ、だよ」
僕は視線を栞凛の方へ向けた。
「うん! ⋯⋯よっ。あ、届かない」
栞凛にとっては小声のつもりなのかもしれないが、この密着の中なら、すべて聞き取れてしまう。
「大輝くん、もうちょっと、こっち⋯⋯」
「ん?」
僕はもう少し首を回して、栞凛と真正面から向き合う形になった。
一瞬だけ、栞凛の手が僕の背中から離れた。僕は離してくれるのかと、少し距離を取ろうとしたら――。
「ん〜」
栞凛の手は、僕の頭の後ろに回されていた。僕の顔は、半強制的に、栞凛のところへ向かっていった。
僕には抵抗する暇もなく、されるがままにされていた。
「⋯⋯」
栞凛は無言で、僕を近づけると、気づいたときには、唇が重なり合っていた。
栞凛のちょうどいいぐらいの温度が、僕の唇から伝わってくる。
僕の頭は、沸騰したかのように熱くなっていた。
栞凛の胸からかなり早い鼓動が伝わってきた。それに応えるように、僕の鼓動も、早くなっていくのを感じてしまった。
栞凛は耐えられなくなったのか、ようやく僕の頭に回していた手を離した。
「ありがと」
僕は、あのままだったら、どうしていただろうか。あの、唇が重なり合ったまま。
「う、うん」
何も、怒りが湧いてこない。その、真反対の気持ちだった。
「今のやつ、私、白くて大きなドレスを着てやりたいな」
白くて、大きな、ドレス⋯⋯? 何も思い当たらない。そんな服あったっけな。
「だから、さ? それまで、準備していてね?」
「⋯⋯準備って、まぁ、うん」
何を準備するのかもわからず、適当に返事をしてしまった。
栞凛的にはかなり大事なんだろうけど、僕には詳しく説明してもらわないと、わかれそうになかった。
「栞凛ちゃーん? そろそろ入れる?」
「あ、うん! 今行く!」
そうか、そういえば、文化祭の最中だっけ。
「じゃあ、続きは、大きなホールで、ね?」
「⋯⋯う、うん」
大きなホールって、なんのことだ? ショッピングモール? 体育館?
多分、どれだけ考えても、僕からは出てきそうになかた。諦めて、僕はその場所をあとにした。




