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報復の航路【第二作 ルー・ブレス】9・10巻「完結編」  作者: セキユズル
第二章「時々、ふと考えることがあるんだ」
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第二章① ルキフェル

 ブレストの冬は徐々に後退していった。重く垂れ込めていた雲は薄れ、冷たい風の中にも次第に柔らかさが混じり始める。朝の光は白さを失って淡く色を帯び、城壁の石を温めていった。港に並ぶ帆船の帆も乾いた風を受けて膨らみ、凍りついていたような街に少しずつ音が戻ってくるが、ブレスト城の内側はまだ冬のままだった。


 夜半の風が吹き込む牢内、灯りの落とされた通路の奥でいくつもの寝息が重なっている。リゼーヌは壁に背を預けて膝を抱え、隊員達の寝顔を眺めていた。雑魚寝する者、互いに背を預け会う者、格子に寄りかかる者などなど。リゼーヌは夜目に慣れた目で一頻り眺めた後、立ち上がって彼らの間をそろりそろりと縫い、格子窓に近づいて顔を上げた。霞のない澄んだ空気、夜空に浮かぶは三つの光。紅い星と二つの蒼い星。


「……いつから光ってたんだろ」


 ここ最近、空はずっと霞んでいた。星など殆ど見えなかったのに、あの夜だけは違った。空が晴れて視界が開け、気づけばあの三つの星が瞬いていた。リゼーヌの脳裏にあの夜が蘇る。造船所から連れ出される瞬間、拘束されたまま見上げた空。息を呑んだあの一瞬、あの光景はなぜか今でも焼き付いていた。


「……予言、ね。あの人たちは何を思ってるのかしら」


 東洋の言葉、東洋の人間たちが口にしていた紅い星が成就したのだとしたら——。不思議なものだ、恐怖や後悔とは別に知りたいという欲が残っている。リゼーヌはしばらく星を見つめたあと目を閉じて白い息を吐いた。やがて三つの星は夜空の向こうへと消え、季節は麗らかな春へと移り変わる。



 ある日、ルキフェルは布団を退けて床に足をつけると、ひやりとした感触が足裏を刺して背筋がゾワゾワっと駆け上がった。


「……っ」


 ルキフェルは立ち上がると軽い眩暈が襲いかかり、壁に手をついて息を整える。視界が鮮明さを取り戻すと試しに歩いてみる。一歩、また一歩、問題はない。ルキフェルは窓辺へと近づいて外に視線を向けると、ラド・ド・ブレストの海原が一望できた。光を受けて穏やかに揺れる水面。近いはずの海なのに、どこか遠く感じる。ルキフェルは右腕に視線を落とした。固定されたままの腕、それ以外はほとんど回復していたが、城の中に閉じ込められている感覚は消えない。息が詰まる、外に出たい。そう思う自分に思わず苦笑した。


「おら、早く服着ろ」


 ルキフェルの背後からマテオの声が飛ぶ。ルキフェルは肩をすくめて踵を返し、用意されていた衣服に手を伸ばした。頼んだ覚えはないが、自分が着ていたものとよく似た仕立てが妙にしっくりくる。


「……気が利くな」


 ルキフェルは右腕の袖に通そうとしてピタリと動きを止め、壁際に寄りかかるマテオに目を向けた。


「……これ、無理だろ」

「だから手伝ってやってんだろうが」


 マテオが呆れた声を発し、ジャスパーと二人がかりでルキフェルの両脇に立って慎重に袖を通していく。


「ちょっと待て、痛い」

「我慢しろ」

「雑だな、お前ら」


 ルキフェルの腕にようやく袖が通ると、次はブーツが待っていた。ルキフェルは編み上げを解かれたブーツに足を入れると、コリンがしゃがみ込んで器用に紐を結んでいく。


「……手慣れてるな」

「まあね」


 コリンが蝶々結びをして仕上げると、ルキフェルは鏡の前に立って左手で髪をかき上げた。オールバックに整えていく中、鏡の中の自分と目が合う。自分の背後には仲間たちの姿。鏡の中のニールが思い出したように口を開いた。


「そういえば……あのアントワーヌもほぼ完治したらしいよ」


 ルキフェルの手が一瞬止まるが、再び髪を纏めていく。ジャスパーがルキフェルの顔を覗き込むように言う。


「あいつは牢屋行き、他の奴は自由だとさ。おれたちも好きに彷徨いていいらしい」

「……そうか」


 ルキフェルは髪を整え終えると、鏡の中の自分から目を逸らした。アントワーヌと隊員たちの顔が脳裏をよぎる。その後、ルキフェルは自らの足でエリオットの元へ向かった。廊下は静まり返り、窓から差し込む春の光が長く床に伸びていた上を踏みしめるように歩く。やがて、ルキフェルは執務室の扉の前で足を止めると拳を上げて軽く扉を叩いた。


「入れ」


 分厚い扉向こうからエリオットの声が聞こえ、ルキフェルは扉を押し開けると室内にはいつもの顔ぶれが揃っていた。エリオットは執務机に座っていた。エリオットの背後にルソーとイザベル、そして隅に控えるアルフォンス。空気が、わずかに張り詰める。アルフォンスが一歩前に出て丁重な言葉と震えを伴う声で「ルキフェル殿」と声をかけると、ルキフェルは軽く頷いてエリオットの机前まで歩いた。ルソーとイザベルの額に汗が滲む。ルキフェルはエリオットを見下ろしながら言う。


「アントワーヌと面会したい」


 ルソーの眉が動き、イザベルが目を見開く。アルフォンスが息を飲む中でエリオットが目を細めた。


「……分かった」

 ルキフェルは息を吐いて背を向けると、アルフォンスがそそくさと近寄ってきた。


「案内いたします。どうぞ、こちらへ」


 二人で執務室を出て石造りの通路を歩いていく。足音が乾いた音を立て、牢へと近づくにつれて空気は重くなっていった。湿り気を帯びた冷気、鉄の匂い、遠くで鎖が擦れる音がする。やがて、二人は鉄格子の並ぶ区画に辿り着いた。牢番が顔を上げ、戸惑いと警戒の混じった目でルキフェルを見た。


「……こいつは?」

「問題ない。大元帥直々の許可が出ている」


 アルフォンスがすぐに応じると、牢番はなおもルキフェルに視線を向けるが、小さく舌打ちして鍵を取り出した。鉄の音が響き、重い扉が軋みながら開く。牢の奥、薄暗い空間の中にアントワーヌがいた。アントワーヌは壁に背を預けて座っている。ルキフェルは彼をしばし見つめていると、アルフォンスが牢外から一歩引いて声をかけた。


「ごゆっくりどうぞ」


 鉄の音がして扉が閉じられ、鍵のかかる音が響いた。沈黙、薄暗い牢の中で二人の距離だけが残る。アントワーヌは顔を上げてルキフェルを見ると小さく笑った。


「……おかしいな。話すこと、あったかな」


 ルキフェルは俯き加減に目を背けて小声で言う。


「……昔話」


 一瞬の沈黙、アントワーヌは吹き出して肩を震わせた。


「なるほど。じゃあ、座って話そうか」


 ルキフェルがアントワーヌの隣に腰を下ろした。肩が触れそうで触れない距離。陽光が二人の頭上に位置する格子窓から差し込み、冷たく硬い石の床に縦縞模様を描いている。アントワーヌの言葉が石壁に染み込んでいく。幼少期の出会い、その後の昼飯会、カスティーリャ語、初めて剣を振った日。アントワーヌの口から語られるラウルは、ルキフェルの知らない少年だったが、不思議と遠い誰かの話には聞こえなかった。


 ……こんな風に笑ってたのか。


 ルキフェルはぼんやりと想像した。声の調子と仕草、目の動きを断片だけ拾い集めると、空白だった場所に少しずつ輪郭が生まれていく。ルキフェルが耳を傾けてどれくらいの時間が経ったか、やがて鉄の擦れる音が近づいて牢番の声で現実に引き戻される。


「おい、そろそろだ」


 ルキフェルは立ち上がると足を引き摺るように進み、少しだけアントワーヌを振り返った。アントワーヌは相変わらず壁に背を預けたまま見上げている。ルキフェルは言葉を探して一瞬黙り、アントワーヌから目を逸らして告げる。


「また来る。……話がしたいから」


 アントワーヌは目を細めて言葉を受け取ると、ルキフェルは断固とした口調で続ける。


「それと、レオンをお前に会わせたい。まだこの街にいるはずだ。——必ず連れてくる」


 アントワーヌは息を漏らして目を見張り、ルキフェルは踵を返す。鉄の扉が開き、閉まると鍵の音が乾いて響いた。



 それから、ルキフェルは毎日牢へ通った。朝でも昼でも夜でも、時間を見つけてはあの鉄扉の向こうへ足を運んだ。牢番も最初こそ訝しげな目を向けていたが、次第に何も言わなくなった。扉が開いて鍵が鳴り、二人きりになる。話すことは決まっている。——無論、昔話だ。廊下の窓から見えた景色、どうでもいい口論、カスティーリャ語を学び合った日々、自由談義。失われたはずの時間をアントワーヌが語るたび、ルキフェルの中でラウルの輪郭が少しずつ形を持っていく。繋ぎ直していくように、断片と断片を手繰り寄せるように。


 ある日、アントワーヌが言葉を区切ってルキフェルに視線を寄越した。


「……お前さ、ちゃんと聞いてるよな」

「当たり前だろ」


 ルキフェルが少しだけ眉を寄せると、アントワーヌは微笑を浮かべて膝に片頬を預けた。


「いや。なんか……前と同じ顔してる」


 ルキフェルは一瞬だけ言葉を失うが、すぐにアントワーヌから視線を逸らしてぶっきらぼうに言う。


「……そうかよ」


 ルキフェルの胸の奥で何かが解けていく。崩れたものはすぐには戻らないが、完全に失われたわけでもなかった。だからこそ、毎日来る。



 一方、エリオットは執務室にいた。机の上には山のように積まれた書類、端に置かれているのは事件記録。焼け焦げたような記述、曖昧な証言、判別困難と記された遺体と誤認の疑い。ベルリオーズの尽力によって掘り起こされた資料は決して多くはなかったが、それでも断片を繋ぎ合わせれば見えてくるものはある。ルキフェルの語った記憶と資料に残された記録の間に横たわる齟齬。


「どういうことだ」


 エリオットは目を閉じると胸の奥に鈍い痛みが走った。


 ——あの日、家族の訃報を知らされた時のこと。ジャンから届いた手紙に書かれていた内容。


「惨殺された母子の遺体は直ちにヴール・レ・ロズの教会に埋葬した」


 当時は疑いもしなかった。確かめようとも。エリオットは目を開くと視線を机の上へ落とした。埋葬された子供と、今ここにいるルキフェル。両者は同時に存在し得ない。


「それなら、記録にある子供は誰だ。……聞くしかないな、アントワーヌに」


 あの夜、何があったのか。誰が何を見たのか、誰が何をしたのか知る者は限られている。その一人が今、牢の中にいる。エリオットは背を椅子に預けて天井を仰いだ。真実はまだ見えていないが、このまま見過ごすことはできない。エリオットは一通の白い紙に目を向けた。これから国家に投げる刃だ。エリオットは羽ペンを取り、ペン先をインク壺に浸すと白紙にさらさらと走らせた。ルキフェル——ラウルの存在、血筋の正当性、これまでの調査結果、そして最後に筆圧を強めて書き記す。


 ——ラウル・レオパードを正式に我が子として迎え入れ、レオパード家の後継者とすることをここに願い出る。


 羽ペンが払うように止まってインクが滲んだ。これは願いでも懇願でもない。——宣言だ。エリオットは羽ペンを置くと覚悟の色を顔に浮かべた。この手紙が届けば王宮は動き、貴族は騒いで国が揺れる。海賊は悪、それがこの国の常識だ。その常識の中心に自らの息子を叩き込む。


「……来るなら来い」


 エリオットは封をして蝋を垂らし、手の甲に筋を浮かべて印章を押した。


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